拒否する理由がなかっただけです


「七海さんって好きな食べ物なんですか?」
「パン、ですかね」
「私はご飯派です!」
「なんでそんなこと聞くんですか?」
「だって一緒にご飯食べるなら楽しくおいしく食べたいじゃないですか!」


大きく口を開けて、なまえさんは笑っている。朝には人のことを泥棒扱いしていたというのに、こんなにも無邪気に笑っている。昨日からずっとそうだった。だから、私はなまえさんと婚姻届けを出すことに抵抗がなかったのでしょう。



▽▽▽


昨日、その焼鳥屋に入ったのは偶然だった。
サラリーマンを辞めて呪術師に転職するなら、高専が近い場所の方が何かと都合がいいと考え、引っ越し先を下見した帰り道にその焼鳥屋を見つけた。小さな焼き鳥屋は常連が多数のアットホームな雰囲気で入る店を間違えたかと思うほど。その中でもカウンター席に座る女の子は一際元気。何がそんなに楽しいのだろう。私には分からない。

耳に入ってくる情報から察するに、彼女は恋人にフラれた直後らしい。元気なのは空元気というわけか。常連らしき年配者が慰めの言葉をかける。「男なんてたくさんいる」と。「いないよ〜」と笑いながらも答える彼女は健気で一途な雰囲気を纏っていた。「ほら、あいつとかいい男じゃねぇか?どうよ?」と突然自分に話が振られる。

「私ですか?」
「そうそう兄ちゃん」
「あの子のことどう思う?」
「元気で若いなぁと思いますね」
「じゃあ結婚してよ〜お兄さん」

さっきまで気丈に振舞っていた彼女がジョッキグラスを持って、こちらに近づいて空いている隣の席に座った。あぁ、酔ってるんだろうな、と思った。ここで空気を読まないほど私も世間知らずではない。

「吝かではないですね」
「難しい言葉わかんないけどOKってこと?」
「そうなります」

飲み屋のテンションと酔った勢いとはすごい。婚姻届けがどこからか出てきて、保証人の欄も含め空欄があっという間に埋まっていく。賃貸契約を結ぶつもりで持っていたハンコを押せば、もう役所に届けるだけの状態だ。

「おにーさんありがと」

婚姻届けを受け取って、彼女はご機嫌で自分が飲んでいた席へと戻っていく。周りの常連は「なまえちゃんの結婚祝いだ!」と言って、料理や酒を大量に注文し始めた。店の店主らしき男が「兄ちゃん付き合ってくれてありがとうな」と私の席の前にちょっといいお酒を置いた。頂いた酒を私が飲み始めた頃、ビール瓶を抱いて婚姻届けを枕に彼女はカウンターテーブルに突っ伏して目を閉じる。幸せそうな笑みを浮かべていた。

常連客も散り散りに帰り、カウンター席には私と彼女だけの状態になった。今日であったばかりの彼女に、愛や恋と言った気持ちは僅かばかりもない。ただ、自分の個人情報が書かれた婚姻届けがどうなるかは気がかりだった。


「会計をお願いします。彼女の分も」
「お代はいいよ。その代わり、あの子送ってやってくんねぇかな」
「そういうことなら。わかりました」


利害の一致、といったところだろうか。彼女の肩を揺すって起こせば、私に向かって甘えるように両手を伸ばされた。「荷物はこれだけですか?」と確認をして、店主に「そんだけじゃねぇかな」と言われ彼女と鞄を抱え店を出た。外の風はまだ冷たい。この冷たい風で、彼女が起きてくれればいいのに。そんな願いを込めながら歩き出した。まずはコンビニへ。水を購入して、どこかで彼女の酔いを醒まさせなければ、そう思った。


「歩けますか?」
「…なまえだよ?」
「なまえさん、落ち着いたら家の場所を教えてください」
「ダメダメ。市役所行くんだよー!ゴー!」
「あぁそうでしたね」


高専時代、他人を振り回すことが趣味の先輩が居たため振り回されることには慣れている。めんどくささは彼女より五条さんの方が上手だろう。彼女のわがままなんか可愛い方だ。でかい、可愛げがない、めんどくさい。その三重奏な五条さんと比べるのが烏滸がましいというものだ。そこそこで済む彼女は楽でいい。


「歩けますか?」
「歩けるよ。ナナミン」
「ナナミンとはなんですか?」
「お兄さん、七海建人っていうんでしょ?ナナミンじゃん」
「そうですね」


一向に歩き出す気配を感じて、なまえさんを背負って歩き出した。おぶって歩くのは苦ではない。ただ、気を緩めればすぐに「ナナミン!」と言って私の背中から手を離してしまうなまえさんが心配だった。


「ナナミン、ナナミーン」
「なんですか、なまえさん」
「私ね、捨てられたんだ」
「そうですか、バカな男がいたものですね」
「浮気されてたの」
「良くある話ですね」
「ナナミンは浮気する?」
「しませんよ。しない人が大概でしょう?」
「そっか、ナナミンは優しいんだね」


これから呪術師になり、呪霊を問答無用で倒していこうという私に何を言っているのだろう。私が優しい?そんなの間違っている。優しいのはなまえさんだろう。浮気されても相手を責めない。あまつさえ、自分が悪いとすら思っていそうだ。重力に従って落ちそうになっていくなまえさんを持ち直して、「どうして相手を責めないんですか?」と問うた。背後から「だって楽しかったし幸せだったから」と返事が返ってくる。あぁ、彼女は不器用なのだ。そう思った。不器用なら不器用なりの生き方があるだろうに。



「なまえさん、本気で私と結婚する気あるんですか?」
「あるよ!ナナミン!」
「わかりました」


私も酔っていたのだろうか。彼女がまた傷つくぐらいなら、私が守ればいい。そう思ってしまった。婚姻届けなど、ただの契約にしか過ぎない。止めたくなれば離婚届を出せばいい。彼女のこの無邪気な笑顔が、また誰かに曇らせられるくらいならば、私が側にいることでその笑顔が守れるならば。彼女と婚姻届けを出すことに前向きになってしまった自分の頭を否定できるだけの理由が見つけられなかった。理由などそんなものでしかない。


こうして、私はなまえさんと夫婦になった。