ビーフシチューとバケットの行方


「今日は職場の人と飲んで帰るので食事は不要です」
「あ、うん、わかった」
「なるべく早く帰るようにしますので…」
「うん、ありがとう」


今日はわたしが一日オフで、だから、本を見ながらがんばってビーフシチューを作ってみたのに、付き合いの飲み会って電話がきた。七海さんの好きなバケットも買ったのにって残念だけど、仕方ないと諦めモードでちょっと早いけど一人分の夕飯を用意した。

七海さんと結婚して、一緒にご飯を食べるようになってから一人で夜ご飯を食べることが極端に少なくなったから、こうして不意打ちにひとりぼっちにされると部屋がとても静かに感じられてしまう。こんなに部屋広かったっけ?とか、こんなにテーブル広かったっけ?とか。


「あぁ、もう七海さんは私の生活の一部なんだな」

一人ぼっちの部屋に返ってくるわけない言葉を投げかける。長時間煮込んで作ったビーフシチューもどこか味気ない。寂しさを紛らわすためにつけたテレビすら虚しさを増長するだけだった。

いつの間にかメッセージのやり取りも一番多いのは七海さん。一緒にご飯食べて「食事の時くらいスマホは見ない」と怒られた記憶すら愛おしい。


「七海さん、寂しいよう」

いつも七海さんが座っている場所に置かれたクッションを抱きしめて呟いた。「行くなって言ってくれればよかったんですよ」と耳元で声がして、後ろからぎゅっと抱きしめられた。びっくりして、一瞬で酔いがさめて、振り返った。そこに居たのはいつも通りの七海さん。


「なんで?飲みに行くって、」
「電話越しのなまえさんがいつもと違ったので、帰ってきました」
「嬉しいけど、後ろから抱きしめられるのはヤダ…」
「どうしてですか?」
「ナナミンの顔が見れない……」

ふ、と笑うように息を吐いた七海さんが、私の前に移動してきて、「これでいいですか?」と両手を拡げる。その腕の中に飛び込んで「おかえりなさい!」と告げた。一人じゃない、七海さんが居る。それだけで私はこんなに幸せな気持ちになれる。


「七海さん、ビーフシチュー作ったよ。食べる?」
「どうしましょうか」

ちゅ、ちゅ、と首筋や耳に七海さんが唇を落とす。くすぐったさから身を捩る。一緒に過ごす時間と比例して、好きが積もり積もっていく。首に手を回して、「ダメ、ご飯がんばったから」と矛盾を孕んだ言動をした。


「それなら先に食事にしましょう」

七海さんがつけていたモノクルを外してローテブルの上に置いた。綺麗な瞳が私を射抜く。次の瞬間、私の唇に七海さんの唇が重なって、ぺろり、と私の唇を舐めて七海さんは私から身体を離した。

もっと、という私と、この先はまだダメという私が頭の中で戦っている。七海さんはネクタイを緩めながら立ち上がって、「着替えてきます」と自室へと消えていった。消えない熱が残った身体のまま、私は七海さんの分の食事を用意するためにキッチンへと向かった。