黒猫と私


仕事の帰り道、猫を拾った。
小さなしっぽの真っ黒な猫。身分は失ったけど、自分は失ってないという猫。まぁ、そんなことはどうでもいい。「帰る場所を思い出すまではここに居たら?」と告げると猫は「思い出さなかったら?」とすっとぼけた。だから私も「居つけばいいんじゃない?」とすっとぼけた。お互い様だ。これが、私と黒猫−夏油傑との出会いだった。


傑は帰る場所がないわけではないらしい。気まぐれっぽい猫らしく、気が向いたら家に来てご飯を食べて他愛のない話をして、数日過ごした後、またぱったりと姿を見せなくなる。私も気まぐれで声を掛けただけだったから、特段気にしなかった。それは傑が“人に気を遣わせない”ということが人より上手だったせいもあったような気がする。




その日は、風が強い日だった。慣れない靴を履いていた私は、靴擦れをしてぼろぼろになりながら帰宅。外から自分の部屋に明かりがついているのが見えて、なぜかホッとしたのを覚えている。「ただいま」と玄関のドアを開ければ、傑が「おかえり」とソファに座ったままこちらに声をくれる。靴を脱ぎ捨てて、ソファへ駆け寄った。鞄を放り投げ、傑の脚に頭を預けて寝転がる。


「服が皺になるよ」
「いいよ、仕事やめる」
「なまえがいいなら私は構わないけど」
「けど?」
「その痛そうな足は介抱させてほしいな」
「…お願いします」


傑が立ち上がるために、私も体を起こしてソファに座った。タオルをお湯で濡らして戻ってきた傑は「ストッキングくらい自分で脱いでくれないか?」と苦笑いする。でももう、何もする気が起きない私は、自分の目の前に座る傑の前に脚を投げ出した。するり、と躊躇なくスカートの中に手が差し込まれて器用に履いていたストッキングが脱がされた。靴擦れで血がついたストッキングなんかどうせ捨てるのに、と思ったけど、そこは傑の丁寧なところに甘えた。

「痛かったら言って」

素足になった疲れ切った足を暖かいタオルが包み込む。じんわりと疲れを解すように、優しく私の足を傑はキレイにしていった。右足が終わったら左足。同じように温もりに包まれて、優しさに泣きそうになった。いついなくなってもいい、そう思っていたはずなのに、私が傑にどれだけ依存していたのか気づいてしまった。


「痛い?」
「…痛い」
「もっと優しくやろうか」
「違うの」
「どういう意味?」
「傑の優しさが痛い」


私の言葉に傑が顔を上げる。足が痛い。じくじくする。胸が痛い。チクチクする。大事じゃないくせにそんな優しく触らないで。好きじゃないのにそんな愛しいみたいな目で見ないで。どうせまたすぐに居なくなるくせに。期待して、私が、辛くなる。



「そっか」
「ごめん……」
「いいよ、首輪でもしようか」
「何言ってるの?」

その言葉は自分自身にブーメランのように突き刺さる。でも、きっと私と傑は似ているから、多くは語らなくてもきっと伝わってしまうんだろう。気づかないで欲しいことも気づかれてしまうんだろう。だから、私は更に惨めになるのよ。そんな私をははっ、と笑って、傑はまた私の傷ついた脚に向き合った。傑の手によってもう十分すぎるくらいキレイになった足に、ぺたぺた、と絆創膏が貼られる。重ならないように、皺が出来ないように。こんな時でも傑の作業は丁寧だ。


「私がここに来るのはどうしてだかわかるかい?」
「…知らないよ」
「会いたいからだよ、なまえに」
「それなら毎日会いに来てよ」
「ふふ、そうだね」

自分でも子供みたいな無茶なことを言ってるな、と思った。けれど、そんな私を笑うでもなく、傑は絆創膏のゴミをゴミ箱に捨てたあと、下から私の鼻先数センチのところまで顔を近づける。そして、まるで猫がそうするかのように私の鼻先に自分の鼻をくっつけて、ぐりぐりと擦り付ける。


「久方ぶりに会った時になまえがする顔が好きなんだよ、私は」
「意地悪なのね」
「そうかもしれないね」


私のことを好きと告げた唇が私の唇と重なる。
私は傑のことを猫みたいって思ってた。でも首輪をつけられていたのは私の方みたい。残念ながら。