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寝起きのわたしを抱きしめた恵は少しの時間を置いてから「悪い」と言ってわたしから離れた。何に対しての謝罪なのか、恵が何を思い悩んでいるのか分からないわたしはただ恵の漏らすほんの少しの感情をくみ取るしかできない。

「シチューもうすぐ出来る」
「うん、ありがとう」

あっという間にいつものポーカーフェイスを身にまとった恵がミニキッチンに向かう。その背中を追いかけてわたしも立ち上がる。何とも言えない微妙な空気が漂って、消えてくれない。わたしが寝る前と今とではなにかが変で。でもそれが何かわからないからどうしようもない。

「ねえ恵」
「ん?」
「わたしも手伝っていい?」
「……ああ」

少し迷うような間があったあと、恵が答えた。二人分の器を用意して、買ったバケットを手にする。きっと大丈夫。恵は優しいから、わたしが寝ている間になにかをやらかしていても許してくれる。そんな甘えた考えがわたしの中にはあった。バケットを切り分けていると、部屋の中にほんのりとおいしそうな匂いが漂い始める。恵は鍋を前にぐるぐると中をかき混ぜて「うん」と納得したような表情を見せた。それからすぐにコンロの火を止めて器に盛りつけ始める。

「美味そう」
「市販のルー使ってるしな」
「わたしより絶対料理上手い……」
「まぁ、それはそうかもな」
「ひどい!」

わざとらしく声を上げたわたしに恵は小さく笑みを浮かべ、「本当のことだろ」と冗談を続ける。よかった、いつもの恵だ。自分勝手なわたしはその笑顔にホッとしてしまう。いつもの空気が戻ってきたことに安堵して、わたしたちは夕飯の支度を続けた。いつの間に作っていたのか、ミニ冷蔵庫からサラダと手作りドレッシングを取り出した恵は、「こっちは自信ねぇからな」と言う。普通ならこういう時のそういったセリフは予防線なのだろうけど、恵の言葉はきっと本心。だってすごく不安そうだもん。


「恵ってさあ、たまーに分かりにくいよね」
「……悪かったな」
「そういうところも含めて好きだよ」
「分かりにくいところが好きだなんて奇特なヤツだな」
「そういう風に素直に受け取ってくれないところは嫌い」
「好きだって言ったり嫌いって言ったり忙しいやつ」

言葉では素直じゃないのに、柔らかい表情は嬉しさを示してくれる恵。だから、そういうところ!って言おうと思ったけど、また誤魔化されてしまいそうで、その思いは胸の中に秘めておくことにした。

テーブルの上に、恵が作ったシチューとサラダ、わたしが切った不格好なバケットが並ぶ。恵が座る向かい側に座って、二人同時に「いただきます」と手を合わせた。単純で平和な日常。忙しい日々の中の一時の幸せ。

そんな幸せがたった一人の来訪者によって壊されるなんて思っていなかったんだ。私も恵も。