限界社畜のレクイエム


玄関を開けて靴を投げ捨て、灯りの点いたリビングに向かう。カバンを放り投げ、ソファでテレビを見ながらアイスを食べている蘭ちゃんの上にダイブした。「うお!」と驚きながらもアイスを避けつつわたしを受け止める蘭ちゃん。


「蘭ちゃん!」
「なに?どうした?」
「……疲れた」
「うん」

わたしを抱き止めたまま、蘭ちゃんは食べかけのアイスをテーブルの上に置いた。空いた手のひらが、わたしの背中を優しく撫でる。
大きく息を吸ってゆっくりと吐き出す。蘭ちゃんの匂いが鼻先に届いて、息苦しさが和らいでいくような気がした。


「……今日ね、会社で嫌なことがあってさ」
「うん」
「すごく理不尽で」
「そっか」
「しかも終わるまで帰らせて貰えないし。サビ残だし」
「うん」
「でも仕事だから頑張らないといけないんだけど」
「頑張ってるじゃん」
「そうなんだけど……」
「大変だったんだろ。よく頑張ったよ」

ただの愚痴を蘭ちゃんはただ聞いてくれた。
蘭ちゃんはいつもそうだ。わたしの話をちゃんと聞いてくれて、わたしの欲しい言葉をくれる。たったそれだけでわたしはリセットすることが出来て、明日から頑張ろうって思える。自分でも単純すぎるって思うけど、自分で選んだ仕事だし、何より中途半端に放り投げるのも嫌だから。

「明日は休みだっけ?」
「うん」
「じゃあゆっくり寝れるな」
「……もうちょっとこうしてたい」
「お好きにどうぞ」

ぎゅっと抱きしめられて、身体中の力が抜けていく。このまま眠ってしまいたいくらいに心地いい。
着替えなきゃいけない、化粧も落としたい、お風呂も入りたい。でも、そんなの全部後回しでいいから今はもう少しだけこうしていたかった。

「アイス食べてたのにごめんね」
「別に。また買えばいいし」
「蘭ちゃん」
「ん?」
「だいすき」
「ん、オレも」

蘭ちゃんがぽん、とわたしの頭の上に手を置いてわたしの頬に唇を寄せた。
たったそれだけの行為なのに急に恥ずかしくなって、顔を見られないようにわたしは蘭ちゃんの胸に顔を埋めた。「なんでだよ〜」と言いながら、蘭ちゃんが頭を撫でてくれる。
こういう時、やっぱり蘭ちゃんはお兄ちゃんなんだなぁって思い知らされる。優しくて、面倒見が良くて、甘やかしてくれて。竜胆くんにその話をしたら、「そんなのなまえさんにだけだよ」って言われたっけ。そんなことないと思うけど、大好きな蘭ちゃんに特別扱いされてるって勘違いしている方が幸せだから、わたしは勘違いしたままでいることにしたの。


「なまえ〜」
「なぁに蘭ちゃん」
「呼んだだけ」
「蘭ちゃん〜」
「なんだよー」
「呼んだだけ〜」
「真似すんな」

ふふ、って笑ってたら蘭ちゃんがわたしの頭の上に顎を乗せて来た。「重いよ〜」って言っても「愛の重さだろ?」って言ってどいてくれない。こんな時間も大好きだからずっとこの先もこの人の隣にいたいなぁなんて思ったりして。蘭ちゃんも同じこと思ってて欲しいなって願ったりして。

「蘭ちゃん〜」
「ん?もう呼んだだけはナシだからな?」
「ちゅーして?」
「はいはい」

おねだりするみたいに甘えた声を出せば、蘭ちゃんはすぐにわたしの頭の上から離れた。そして、わたしの頭の上にキスをする。そこじゃない、と抗議の意味を込めて、蘭ちゃんを見上げる。分かってるって言ってしたり顔で私を見た蘭ちゃんは、そのまま私の唇に唇を重ねた。ふに、と振れる感触があってすぐに離れる。そして、角度を変えてまた重なる。それを数回繰り返して、最後にぺろりと舌先で舐められたあと、やっと解放された。
もっとして欲しいのに。そう思ってじとりと睨んでみたけど、蘭ちゃんはどこ吹く風。ソファに置いてあったリモコンを手に取ってテレビを消した。


「蘭ちゃん……」
「そんなもの欲しそうな顔すんな」
「だって……」
「続きはベッドの中で、な」

ついさっきまで子供みたいなことを言っていたはずなのに、一瞬にして大人の男の人に変わってしまう。ずるい。本当にずるいよ。
だから、早くわたしを蘭ちゃんで満たして。蘭ちゃんでいっぱいにして。そしたら、明日も明後日もきっとわたしはがんばれるから。