限界社畜のレクイエム


「ただいまー」
 
 玄関を開けていつも通り声を掛けるが返事は返ってこない。それもそのはずだ。リビングどころか部屋の中は真っ暗で誰もいないことを示している。仕事が限界に忙しすぎて、イヌピーに帰るよコールをしていないどころか届いていたメッセージのチェックすら出来ていない。
 はぁ、と盛大なため息を零して戦闘服を脱ぎ捨てる。着替える余力は残っておらず、ソファの背もたれ部分に掛けられていたイヌピーのパーカーを羽織ってソファに横になった。今日も朝早かったし、イヌピーが帰ってくるまで少しだけ横にならせてもらおう。目を閉じればあっという間に眠りの世界へと誘われたのだった。
 
 
 
 ……一体どのくらい眠っていたのだろう。
 顔の横に置きっぱなしだったスマホの機械音で目が覚めた。と同時に、目の前にイヌピーのドアップがあって、思わず声を上げそうになるが慌てて口を手で押さえ込んだ。
 
 
「……いつから居たの?」
「んーと一〇分前くらい?」
「起こしてくれればよかったのに」
「なまえの顔見てたかったから」
「もう〜〜〜!」
 
 身体を起こして照れて赤くなった顔を両手で覆った。途端、両方の手首をイヌピーに捕まれて、顔を隠せなくなった。そのまま覆いかぶさるように口付けられる。唇を合わせるだけのキスではなく角度を変えて何度も食むような口付けを繰り返した後、「おかえり、おつかれさま」と言って頬を擦り合わせるように抱き着いてきたイヌピーを抱き留める。
 
 
「……ずるいよ」
「なにが?」
「こんなん好きになりすぎちゃう」
「オレはとっくになってる」
 
 そう言って今度は瞼に唇を落とされる。こうして優しくキスされるのはいつ以来だろう。
 今日はたまたま早く帰れたけれど、ここのところ毎日仕事に忙殺されていて、帰って来て寝て仕事行ってっていうのを繰り返していて、会話すらしていなかった気がする。お互い仕事の話とかは一切しないけれどそれでも同じ家に住んでいるから、空気で分かることだってあると思う。だから、きっと気遣ってくれていたんだろうなって思うとなんだか申し訳なくなってくる。それと同時に嬉しくもあった。ちゃんと見てくれているんだって。
 
 
「なまえ、仕事は落ち着いた?」
 
 私の頬にキスを落としながら聞いてくるイヌピー。「まだ……」と答えた後にイヌピーの本意に気づいて、「ごめん」と言ってぎゅうっと強く抱き着いた。すると、頭をぽんぽん撫でられて、「気にすんな」とイヌピーは眉尻を下げて立ち上がった。
 
 
「イヌピー」
「飯食った?」
「……まだだけど」
「んじゃ作ってくるから風呂でも入ってきて待ってろ」
 
 私の腕を引いて立ち上がらせると、軽くちゅっと触れてから背中を押してバスルームへと促された。いつも通りの態度に罪悪感が泡立つ。
 スリッパを鳴らして冷蔵庫の前に立ったイヌピーに後ろから抱き着いて「ありがとう、大好き」と告げる。
 
 
「……ちょっとだけ期待した」
「え?」
「オレのパーカー着てたから」
「あ、」
「無意識かよ」
「なんか落ち着くなぁとは思ってたよ!」
「それならいいけど」
 
 開けっ放しの冷蔵庫が早くしろと機械音を鳴らしたので、イヌピーはまた冷蔵庫と向き合ってしまった。もう一回、キスして欲しかったな。そう思いながらバスルームに身体を向ける。背後から冷蔵庫を閉める音と名前を呼ばれ、振り返る。そしてそのまま引き寄せられるように唇を合わせた。触れるだけですぐに離れてしまったそれを名残惜しく感じる。
 
 
「これ以上はオレが無理だからな?」
「……うん」
 
 私の考えてることなんか全部お見通しって顔したイヌピーが頭を撫でた。それから逃げるようにしてシャワーを浴びに行った私を見てくすりと笑ったのが聞こえた。