限界社畜のレクイエム


家に着いて、ただいまも言わずにお風呂に直行した。
戦闘服を脱ぎ捨てて、すっぴんになって、ほんの少しだけすっきりした気分で髪を乾かそうとしていると、いつもの場所にドライヤーがないことに気づく。タオルで髪を拭きながら、リビングを訪れるとソファに座っていた千冬がこちらを振り返って手招きをしている。


「千冬、ドライヤーないんだけど……?」
「ここにある」
「……なんで?」
「いーから座れ」

半ば強引にソファに座らされると、代わりに千冬が立ち上がった。わたしの後ろに立って千冬はドライヤーのスイッチを入れる。大きな音がして、暖かい空気が髪に触れるのを感じた。

「どうしたの?」
「いーからいーから」

されるがままに髪を乾かされながら聞くけど、千冬は答えてくれなかった。一緒に暮らし始めて三か月、付き合い始めてから三年、千冬は時々こうして急に甘やかしてくれる。それもわたしがしんどい時や、疲れている時、限界が近い時とピンポイントで見抜いているようなタイミング。態度に出さないようにしてきたけど、どこかで出ちゃっているんだろうか。

「はい終わり」
「ありがと……なんか変な感じするね」
「そうか?人に髪触られんの嫌いじゃないだろ?」
「それはそうだけど。いつもじゃないからなんでだろうって思って」
「んー、なんでかな?なまえが元気なさそうだったから」

ドライヤーのコンセントを抜いた千冬がソファの隣に座って、わたしの頭をわしわしと撫でる。せっかく千冬がキレイにしてくれた髪が一瞬でくしゃってなってしまって、少しだけ寂しい。けれど、わたしは千冬のその手のひらもこういう時の顔も大好きだから黙ってされるがまま状態。
頭の上から手のひらが頬に移動する。つんつんと指先で突かれて、自然と笑顔になってしまう。そのまま千冬の指先はわたしの唇に移動してきて、今度は下唇を突ついた。薄く唇を開いて、舌で千冬の指先を刺激するとびっくりしたように千冬は指を引っ込めた。


「なまえのえっち……」
「どっちかっていうとそれ千冬の方だと思うけど」
「どういう意味だよそれ」


不満そうな顔をしながらも千冬は自分の膝の上にわたしを乗せた。向かい合って座るような体勢でお互い顔を見合わせる。「今日なんかあったろ?」って聞かれて首を横に振る。素直にならないわたしに、今度はおでことおでこをくっつけて「本当は?」と再び聞いてくる。さっきまでよりも距離が近くなったせいで吐息が鼻先に掛かる。言わなきゃもっと恥ずかしいことされそうで、覚悟を決めて口を開いた。


「今日、ちょっとだけ仕事で嫌なことあっただけだよ」
「ちょっと?」
「それなりに……?」
「で、本当は?」
「結構嫌なことあった」
「最初からそう言えよ」

そう言った千冬はわたしをぎゅうって抱きしめた。千冬の肩口に頭を乗せれば、鼻先にわたしと同じシャンプーの香りが漂った。千冬に抱っこされてるわんにゃんはいつもこんなにも幸せな思いをしてるのかなぁ。なんてことを考えながら千冬の背中に手を回して抱き返す。だって、わんにゃんは抱っこされても、抱き返すことは出来ないから。これはわたしだけの専売特許。


「あんま無理すんなよ」
「うん。ごめんね」
「別に謝ることじゃねぇじゃん」
「でも心配かけてるのは事実だし」
「いいんだよそういう時のためにオレがいんだから」
「頼りにしてます」
「それにしたってなまえに嫌な思いさせたヤツのことバチボコにしてやりてぇな」
「ちょっと……!」
「じょーだん」
「千冬が言うと冗談に聞こえないんだけど?」
「そりゃどーも」


そんな会話をしながら二人笑いあっていると、足元でリンと鈴の音が聞こえてきた。二人顔を見合わせて同時に足元に視線を向ける。仲間外れにされていると思ったのかペケJが千冬の足元に身体を擦り付けていた。千冬が「おいで」と声を掛ければペケはまた鈴をリンと鳴らして、ソファの上に飛び乗った。ペケのために場所を退こうとするが、千冬がそれを制止するように腰に両手を回した。

「今日はなまえ優先」

その言葉に納得したように、ペケは千冬の隣にころんと横になって「にゃあ」と鳴いた。
ごめんね、ペケ。今日は千冬を独占させてもらうね。そう思いながらわたしも「にゃあ」って言いながらまた千冬に抱き着いた。