朝目が覚めて、隣に見える悟の顔がとても近くてびっくりした。カーテンの隙間から入り込んだ光が悟の髪に当たってキラキラと輝いているように見える。この前、悟と付き合うって決めた日は、あんなにも目を覚まさないでほしいって思っていたのに、今日は早く目覚めて欲しいと思ってしまった。その目に私を映して、「好きだよ」って言って欲しい。心の中のとっかかりを忘れてしまうために。


「悟〜」

名前を呼んで頬を突くと、悟はようやくその瞳を薄っすらと開いた。まだ眠いのかトントン、と私の背中に手を回して数回叩いたかと思ったら、そのまま腕の中に閉じ込めてまた瞼を閉じる。その姿が無性に可愛くて、愛しいと思った。本当は与えられる幸せをこのまま感じていたいと思った。けれど、私たちは呪術師であり、教師でもある。それが許される平和な世界ではなかった。無常にも悟のスマホが部屋に鳴り響いた。


「悟、起きて」
「ん〜まだ眠い」
「電話鳴ってるよ」
「どうせ伊地知か学長だからいいよ…」
「ダメだよ」
「え〜〜」
「……出ちゃった!」

いつまで経っても悟が起きる気配がないので、私が代わりに電話に出た。呪霊には朝も昼も夜も関係ない。私たちがこうしている間にも誰かが傷ついているのかもしれない。そう考えるとやっぱりいたたまれない。「もしもし、伊地知?」と電話の向こうの相手に声を掛ける。すると悟が伊地知からの返事を聞く猶予も与えず、私の手からスマホを奪って立ち上がった。


「まだ寝てたんだけど、なに?」「うん」「え〜〜ヤダ」
悟の声しか聞こえてこないからどんな会話をしているのか、私にはわからない。それを知りたがるような好奇心は持ち合わせて居ない。むしろ、聞いたら悪いと思ってしまうほうなので、ベッドから立ち上がって顔を洗いに向かう。

洗顔を済ませた頃、電話を終えたのか悟がしょんぼりしながら洗面所のドアを開いた。「今日から出張になった」と言う。返事を返そうにも、ちょうど歯磨きをしているところだったので、「ふぁんふに?」と言葉にならない声になってしまった。悟はそんな私を見て、目じりを下げて微笑む。いやいや、なに笑ってんの。反撃したくて、急いで歯を磨いて、口を濯いだ。


「で、どこ行くの?」
「ん〜海外で一週間?」
「相変わらず忙しいね」
「やっぱり断ろうかな」
「行きなよ、悟に話が回ってくるってことはそれなりの相手なんだろうし」
「うん、」

またしょんぼりとした顔をした悟に、「行かないで」って言えばよかったのかなという思いが過ぎった。けど、長い間同じ時を過ごしてきた悟には、私が本心からそう言っていないのはきっとすぐにバレるだろう。どう抗っても、私たちは、呪術師なのだ。

全ては仕方のないこと。


見て聞いて感じて



不満を全面に押し出す悟を送り出し、学校へ向かう。高専は生徒数が少ないので副担任が存在しない。つまり悟が居ないとなると、伏黒くんの面倒は私と日下部さんとで見ることになる。日下部さんはそこそこでいいという考え方なので、きっとその役目のほとんどは私に回ってくることになりそうだ。担任を持っているわけでもない、暇な私に。


「伏黒くん居る?」

出席簿を持って、教室の中を覗き込む。二つ並んだ机の一つに、伏黒くんは座って本を読んでいた。私の声に気づいた伏黒くんは「おはようございます」と、本を閉じて立ち上がる。二人きりになるのは、あの時以来で私はやっぱり気まずさを消すことはできなかった。

立った二人の教室は、お互いの呼吸音が聞こえてきそうなほど静かだった。窓の外は樹齢が長い木々が青々とした葉を茂らせ始めている。そよそよとした風が吹いて、木々を揺らしていた。


「五条先生が一週間出張になったので、私と日下部先生が担任代理をします」
「はい」
「一人だと寂しいね、この教室」
「なまえ先生の時は同級生何人いたんですか?」
「悟と硝子と、もう一人と私で4人だったよ」
「懐かしいですか?学生時代思い出します?」
「どうかな。ずっと高専にいるからね」
「もっと思い出してくださいよ、先生の学生時代のこと」

そう言って伏黒くんは目を伏せる。やっぱり一人は寂しいのかな?と思って、空いている席に座る。机ってこんなに小さかったっけ。私の学生時代は楽しくて辛くて、救われてばかりだった。後から入学してくる女の子が伏黒くんにとって優しい存在であればいいな、と願わずにはいられなかった。


「なまえ先生?」
「なーに?」
「なんて呼ばれてたんですか?」
「同級生に?普通になまえだよ」
「や、そうじゃなくて、忘れられないヤツに」
「……伏黒くん、あのね」
「俺も同じように呼びたいです」


長い睫毛を数回上下させた後、伏黒くんは私を見据えた。「苗字で、呼ぶわけないですよね」と言って、隣に座る私に手を伸ばして、髪を一筋掬う。

「なまえ」
「伏黒くん、」
「先輩たちもなまえ先生のことなまえって呼んでますよね?ダメって言わせないです」

はらりと伏黒くんの手から髪が落ちていく。あぁ、この人は本当に甚爾さんに遺伝子を持っているんだと実感させられた。その声も、強気な態度も甚爾さんによく似ている。本当に、本当に、本当に。

人は錯覚する生き物だ。百聞は一見に如かずなんていう諺があるけれど、その一見すら錯覚かもしれないなんて残酷なような気がする。それなら人は何を信じて生きていったらいいのだろうか。