「ボタン、掛け間違えてますよ」
「え?どこ?」
「ここです、ここ」

伏黒くんが徐に私の着ていたシャツワンピに手を伸ばした。ちょうど鎖骨の下らへんをトン、と指先でつつく。不器用な私がそれを直そうとまごまごしていると、「俺がやりましょうか?」と再び伏黒くんの指先が伸びてきて、器用に私の胸元のボタンを外す。


「関係ないところまでボタン外したら怒りますか?」
「…怒ります」
「冗談ですよ」
「伏黒くんも冗談とか言うんだ」
「言いますよ」
「初めて聞いたからびっくりした」

外したボタンを今度は片手で器用に伏黒くんは留めていく。自分の胸元に伏黒くんの指先があって、心臓がずっとうるさい。悟にされても、きっと同じような動揺は感じないだろう。これは伏黒くんがしているからなんだ、そう考えたらストンと気持ちが落ち着いた。


「なまえせんせ、……なまえ」
「……なに?」
「好きだった人って過去形ですか?」
「そうだよ、もう忘れた」
「なら、なんで俺の目見てくれないんですか?」
「見てるじゃない」
「俺は、見つめて欲しいんです。ずっと俺だけ見てて欲しい」


刺さるような視線を向けられて、目が合って、視線が逸らせなくなった。そこに居るのは、伏黒くんで、私が見ているのも伏黒くんで。伏黒くんを通して甚爾さんを見ていないか?と聞かれれば100%否定はできない。けれど、私の中で確実に伏黒くんの存在が大きくなっているのを感じた。錯覚か?と聞かれれば、そうかもしれないと答えるだろう。けれど、本当に錯覚か?と聞かれればそれを全力で否定することが出来なくなってきていた。


「なまえにどんな風に触れてましたか?」
「ちょっと、伏黒くん」
「なんて愛を囁いてましたか?」
「…ねぇ、やめて」
「俺じゃ、そいつの代わりになりませんか?」
「そんなこと…」
「出来ない?していいって言ってるんですよ?」


私へと伸びてきた伏黒くんの指先が触れない程度の距離を保って、私の側にある。ほんの数センチ。伏黒くんに触れて欲しい。そう思ってしまった。空気すら邪魔だと思ってしまった。その声で名前を呼ばれて、その声で愛を囁かれて。それが、甚爾さんに似ているからか、伏黒くんだからかなんてもう考えられなかった。

ただ、二人で居るこの空間がとても居心地が良くて、私の耳を擽るような声が愛おしいと思ってしまったんだ。


手のひらでは足りない




伏黒くんとの二人の時間は、任務が入ったと私を呼びに来た補助監督によって、あっさり終わってしまった。余韻を感じながら、任務を向かう車内で、私は未だふわふわとした、何とも言い難い感情に抗っていた。


「なまえさん、猪野さんが先に現着してるはずです」
「うん」
「なまえさんって猪野さんと任務こなされたことってありましたっけ?」
「うん」
「昼までに終わったら蕎麦食って帰りませんか?近くにうまい蕎麦屋あるんですよ」
「うん」
「なまえさんは、蕎麦お好きですか?私はざるそばが好きなんですけど」
「うん…」
「……なまえさん大丈夫ですか?」
「うん」


反射的に返事を返すのがやっとで、その言葉の意味を理解するには脳の領域が足りなかった。昼ごはんの話をしているのは理解できていても、その内容までは把握できていない程度には。四苦八苦とはこういう時に使うのだろうか。高専の学生時代に夜蛾先生に教えてもらった言葉は、当時の私には全くと言っていいほど理解できなかった。けれど、三十路近くになった今なら理解できそうな気がする。

私を長く見ていてくれて理解してくれている悟と、ただただ私のことを好きで、甚爾さんの遺伝子を引き継いでいて私の感情をかき乱す伏黒くん。板挟みになって改めて感じる、私の中の甚爾さんの存在感。初恋は実らない。それは分かっている。それなら、初恋の忘れ方も同時に教えておいて欲しかった。甚爾さんを忘れたなんて詭弁だ。甚爾さんは、私の心の一番深いところに居座って出て行ってくれないのだから。あの人の言葉の一つ一つを。私の名前の呼び方を、私に触れる指先の感覚を、私は忘れることが出来ない。



「悟、どこ行ったんだっけ?」
「五条さんですか?」
「うん」
「北アメリカのほうってしか知りませんけど」
「そっかぁ」


一週間、悟が居ない反面、伏黒くんとの時間は必然的に増える。何かが変わるには十分な時間だ。ゆらゆらと揺れ動く私の感情はどちらに傾くのだろうか、この一週間で。