伏黒くんがケガをしたという一報が入ったのは、私が自分の任務を終えた頃だった。悟が不在の間、伏黒くんの保護責任は私にある。あの日も、甚爾さんが死んだあの日もそうだった。大事な時に私はすぐ近くに居ない。もう間違えないと誓った。あんな思いを二度としないために、させないために。

補助監督を急かして帰る、高専までの道すがらも気が気ではなかった。伊地知さんはなんて言っていたっけ。伏黒くんがケガをしました、というところまでしか頭の中に入ってこなかったから全然思い出せない。

ぽろぽろと、自分の身体から剥がれて零れ落ちていくような気持ちになった。見栄とか建前とか、幸せとか教師としての矜持とか、全部、全部、ポロポロと剥がれていった。ただただ、助かって欲しいと願った。生きていて欲しいと思った。もっとちゃんと話を聞いていればよかったと、もっと本音で話せばよかったと、もっともっと甚爾さんの話をすればよかったと。

「なまえさん、あと5分程度で高専です」
「ありがとう」
「報告は私からしておきますので、後から報告書だけお願いしますね」
「うん」
「なまえさん」
「なに?」
「きっと、大丈夫ですよ」
「ありがとう」


補助監督の優しさがじんわりと心に響く。大丈夫、大丈夫。自分に言い聞かせるように繰り返す。それでも、身体は震えていて上手に走れない。もつれる足を手で叩いて、言うことを聞かせようとするけど、またすぐに足がもつれて転びそうになる。

硝子の居るはずの医務室に辿り着いて、「伏黒くんは?」と声を掛ける。なのに硝子は「伏黒?誰だ?」と素知らぬ顔。硝子が見るまでもなく亡くなったってことなのかと解釈して、「どういうこと?」と硝子の肩を揺さぶった。「知らないものは知らん」とそれでも硝子は表情を変えない。


「だって伊地知さんが」
「伊地知?あぁ、禅院家の子か。そいつなら転んだだけで部屋に居ると思うぞ」
「え?部屋?なんで?」
「もう治療は施した」
「なんで?何かあったらどうするの?」
「何を慌てている。そんなに大したケガじゃないぞ」


淡々としている硝子にこれほど不信感を抱いたことは今までなかった。今までは硝子が言うなら、それが正解だと思っていたし、硝子が助けられないなら仕方ないと諦めていた。私が硝子を疑う日が来るなんてと気づいて、ハッとした。今はそれどころではない。伏黒くんが元気なことを確認するのが一番大事だ。

硝子に「また連絡する」と言って医務室を後にする。真っ直ぐ伏黒くんの元へ走り出した。こんなに走ったのはいつ以来だろう。そのくらいの全力疾走だった。願うのは、ただ一秒でも早く伏黒くんの元気な顔を確認したい。それだけだった。


鎧を脱いだ裸の心で




伏黒くんの部屋について、力任せにドアを開いた。ベッドの上に腰掛けた伏黒くんが驚いた表情で私を見る。呑気に本を読んでいる伏黒くんを見て、違和感を抱いた。ケガは?ケガしているんだよね?と。


「なまえさんどうしたんですか?」
「え、ケガは?」
「転んで足捻っただけですよ」
「は〜〜〜〜〜なんだ」
「心配してそんな顔してくれてたんですか?」


ホッとして床に崩れ落ちた私の元へ、足元に包帯を巻いた伏黒くんが近づいてくる。そして、私の前にしゃがみこんで「嬉しいです」と言って笑顔を見せる。「ケガしたくせになに笑ってるの」とその体をトンと押す。よろけて転びそうになった伏黒くんは私の肩を掴んで、巻き込まれるように私も一緒に床に倒れこんだ。必死に走ったせいで身体はもう限界で、青年を支えるほどの力は残っていなかった。


「なまえさんが焦ってここに来た理由聞いてもいいですか?」

床の上に並んで寝転んだまま、伏黒くんが私の頬に手を伸ばした。触れられた場所が熱を持ったように熱い。私の守っていた鎧を全部脱ぎ捨てたら、本音しか残らなかった。その本音に直接触れられたら、こんな気持ちになるんだっていうことを知った。

「Even if I knew that tomorrow the world would go to pieces, I would still plant my apple tree.って知ってます?」
「たとえ明日、世界が滅亡しようとも今日私はリンゴの木を植える?」
「さっき読んでた本に書いてありました」
「そう、なんだ」
「…なまえさん、キスしていいですか?」


返事の代わりに目を瞑った。それは事実上の降伏宣言。