私の心配を他所に、恵くんはどうやら遠方での任務らくし顔を合わせることはなかった。けれど、それで問題が解決したわけではない。とにかく、私は悟に「別れる」ということを告げなければいけないのだ。

午後の任務を終え、帰路につく。足取りは軽いものではない。いつもならコンビニに寄ったりスーパーに寄ったりするのにそれすら億劫で。ただただ、家に帰ってベッドにダイブしたかった。


「ただいま」


誰も居ない自宅について、そう言ってしまうのはもう癖だ。返事は返ってこないはずなのに、奥から「おかえり」と声が聞こえた。全身に鳥肌がブワっと拡がる。どうして考えなかったんだろう。悟が来ることを。


「悟、来てたんだ」
「昨日からなまえの様子おかしかったからね。話しようと思って」
「そっか」
「っていうのは口実。顔が見たかったって言ったらなまえ困る?」

リビングのソファに我が物顔で座る悟は、目隠しをずらして私を見た。咄嗟に視線を逸らして、寝室に向かう。悟は一緒に居て、一番楽な人だったはずなのに、今はこんなに緊張する。

後ろめたさ?
――違う

罪悪感?
――違う

きっとこれは、悟にバレたくない、悟を失いたくないという「保身」だ。「着替えてくるね」と悟に告げて、寝室に向かう。束ねていた髪を解いて、息を吐く。いつだったか硝子とふざけて買ったジェラピケに袖を通して、また息を吐く。恵くんに別れると言うと約束した。それをいつまでも先延ばしにしたところで、いいことなんて何もない。最後に一度息を吐いて、ドアノブに手を掛ける。ちょうどそこで、メッセージアプリの通知が届いた。相手は恵くんで「あとで電話してもいいですか?」という端的なメッセージ。普通の高校生なら自撮りくらい送ってきそうなのに、と、少し顔が綻んでしまう。「電話出られないかもしれないからこっちからかけるね」とメッセージに返信して、電源ボタンをタップした。


感情を重ねて作る花束




「なまえ、ごはん食べた?」


寝室からリビングへの扉を開いて一番最初に悟が発したのは、呑気な一言だった。自分の中に築き上げた覚悟がガラガラと音を立てて崩れ落ちる音がした。もう一度一から、覚悟を築き上げながら悟の隣に座る。


「あれ?酒飲まないの?」
「今日は、いい」
「ふーん」
「悟、私ね、悟に話があって…」
「あ、アレ?僕に会いたかったって話」
「…そうじゃなくて」

はっきりと「別れる」と言えない自分自身にイライラした。唇が渇いてカサつく。気持ちだけが先行して、前のめりになる。これじゃダメだ、と思ってソファに深く座りなおす。一人で落ち着かない様子の私を見て、悟が「なにやってんだよ」と言って笑う。その顔を見て、覚悟が決まった。


「悟、私やっぱり悟とは付き合えない」
「うん、そう言うと思ってた」
「え…?」
「だからなまえが僕のこと好きって思えなくてもいいって言ったよね?」
「それは、言った」
「もうちょっとくらい猶予ちょうだいよ」


そこまで言われて「好きな人が出来たから別れたい」なんて言葉を口にすることはできなかった。足の上に置いていた手でぎゅっと服を掴む。自分のことしか考えてないな、私。どっちつかずでどっちにも嫌われたくなくて、何も失いたくなくて。


「好きだよ、なまえが思ってるよりずっと」
「悟、」
「夢みたいだから夢でいいとすら思ってるくらいだよ」
「……うん」
「もう少しでいいから夢見させてくれない?」


最強と言われ、欲しいものは全て持っているんじゃないかと言える男にここまで言わせて、「ごめん」って言えるほどの強さは私にはなかった。ただ、黙って頷いた。その日、私は恵くんに電話を掛けることが出来なかった。