朝が来て、シャワーを浴びる。歯を磨く。朝食をとる。化粧をする。着替える。家を出る。

どんな気分でも、どんな天気でも、気づけば毎日のルーティンをこなす。それは常識ありきの世界に生きているからだと思う。昔、甚爾さんが「ルールも常識も知ったこっちゃねぇよ」と言っていたことを思い出して、笑ってしまった。

甚爾さんのことを思い出して、ようやく気付いた。
私が悟に「別れたい」と告げられない理由は、あの頃にあるのだと。私が甚爾さんと繋がっていなければ、甚爾さんが死ぬことはなかったかもしれない。恵くんから父親を奪うこともなかった。理子ちゃんも死ななかった。傑は今も私たちの近くに生きていたかもしれない。

全部、始まりはあの頃にあったのだ、と。


「なまえ、今日休もう?」
「休んでどうするの?」
「まったりする?」
「何言ってんの。仕事行くよ」
「え〜なまえは真面目すぎるよ」
「悟が不真面目すぎんの」

ペシと悟の額を叩こうとするけど、それは悟の術式によって拒まれてしまった。「ごめん」と言って悟が私の手を握る。悟から私への距離はないのに、私から悟への距離は果てしなくある。今までそんなこと気にしたこともなかったのに、恋人になったところでそれは変わらないんだと少し寂しくなった。付き合ったことで変わったことってなんなんだろう。身体を重ねること?一緒に居る時間が増えること?


「なまえが仕事行くなら僕も午後から行こーっと」
「午後からなの?」
「なに?もっと僕と一緒に居たい?」
「いや、別に」
「冷たいなぁ、なまえは」
「ならどんな対応がお望み?」


挑発するように私の顎に手を掛けた悟。こちらからも煽り返すように悟の顎に右手を添えた。悟がゆっくりと顔を近づけてくるから、悟の顎に添えたままだった手のひらを唇の上に移動させた。


「化粧が落ちる」
「ちょっとくらいいいじゃん」
「よくないよ。もう、そろそろ行くね」

ジャケットと鞄を手に取って、悟に背中を見せる。そして、残っていたコーヒーを胃の中に流し込み、キッチンのシンクの中に置いた。その動作の間も、ずっと悟の視線を感じる。サングラス越しだから、本当に見ているのかどうかなんてわからないけど、そういうのって分かるものだよね。


「…一緒に居たいって言ってくれればいいんだよ」

遠くで吐き捨てるような声が聞こえた。振り返れなかった。悟が悲しそうな顔をしている気がしたから。


季節は何度も巡る




早く任務を終えたから半日休むという悟を自宅に置き去りにして、家を出た。高専に着くとまだ8時だというのに、庭師が剪定ばさみで枝を切る音が聞こえてきた。桜の開花時期が終わった。白木蓮もレンギョウもコブシもその時期を終えてしまったので当然と言えば当然だった。

パキ、パキ、と切られた枝が重力に従って大地に横たわる。侘しい気持ちになった。それと同時に自分と似ているとも思った。こうして人も人を切り捨てていくんだな、と。
木が切られて落ちる音に混じって、背後から砂利を歩く音が聞こえて振り返る。眩しそうに片手で太陽の光を遮りながら、その人は私に向かって笑顔を向けた。


「伏黒くん?」
「あの、アレです。ずっと待ってたとかじゃないんで」
「ふふ、分かってるよ」
「電話来なかったんで、少し心配で、した」
「ごめんね」


そのごめんね、は何に対してのごめんねなんだろう。誰に対してのごめんねなんだろう。綺麗なままの制服は朝日を浴びてキラキラと輝いて見えた。甚爾さんにも私はこんな風に見えていたんだろうか。懐かしくて苦しくて、愛おしくなる。


「昨日言えなかったこと言ってもいいですか?」と言って私の髪を一筋掬った伏黒くんは、その髪を唇を寄せて「なまえさんのこと好きです」と私を見た。にやけそうになる顔を誤魔化すために下唇を噛んだ。青春、だなぁ。私にはもうそこまで素直に言葉を口にできないから、それすら眩しい。


「学校、行こうか」
「っす」
「今日は任務入ってるの?」
「今はまだ…」
「お昼一緒に食べよっか?」
「はい」


キラキラとした笑顔が、どうかこれからも曇りませんように。そして、張り付けたような私の笑顔にあなたが気付きませんように。悟も気づきませんように。なんて、誤魔化すことしか考えられない私が、伏黒くんの隣に居てもいいのかな?迷うことばかりが頭を巡る。誰も傷つかない方法ってどこかにあるんだろうか。