恵、驚いた顔してたな、とさっきの光景を思い出して、口元が緩んでしまう。
教師としてはあり得ない行動だったと思う、けれど、僕にとっての鬼門は名前を思い出すのも嫌なあいつ。その息子である恵となまえが接触することで、どうこうあるわけがない。そう思っていた。だって、恵はアイツではないし、なまえももうアイツを好きだったころのなまえじゃないって思っていたから。



「五条くんはなんでそんなに偉そうなの?」

それが僕がなまえに初めて掛けられた言葉だった。僕の同級生は傑と硝子、それになまえ。その中でも一番しょぼいなまえがそれを言うのかよって思ったことを覚えてる。なまえを好きになったきっかけなんかこれっぽっちも覚えてない。ただ、思い返したらそれが始まりだったんじゃないかって思う。ただ、好きって思った時にはなまえはあいつと付き合ってた。好いた腫れたとかそんなんくだんねぇって時期でもあったから、自分の抱えてる気持ちも紛い物で、あっけなく消えるものって考えてた。結果、今も燻って消えてくれてないんだけど。

「好きって言うつもりなかったんだけどなぁ」

原始的な方法で報告書を綴りながら、頭の中に浮かぶのは全く違うことばかり。くるくるとペンを回すばかりで報告書の中は全く埋まらない。まるで自分の心の隙間のように。


「なんだ五条まだ居たのか」
「なんだ硝子か」
「相変わらず失礼なヤツだな。誰と勘違いしたんだ?」
「…なまえ」
「ふーん。それならとっととその紙切れ片づけて帰ればいいだろう?はっぴーらぶらぶ真っ只中じゃないのか?」
「そのはずだったんだけどね」
「まぁ、帰ってもなまえは居ないがな」
「はぁ?」
「任務終わりに七海と飲みに来てるからおいでって誘われちゃった」
「僕は呼ばれてないんだけど」
「なんだもう倦怠期か。なまえも少し様子がおかしいしな」


着ていた白衣を脱いで、硝子が財布を手に取る。荷物の少ない硝子は鞄を持たずともポケットだけで事足りる。そんな硝子を見てたら、みんなでバカやってた頃を思い出して、今の自分が情けなく思えてきた。自分の殻に閉じこもってなまえの話も聞かず、独りよがりで傲慢で。


「硝子。僕も行くよ」
「驕れよ、五条」
「それは成り行きかな」
「ケチくさいこと言うな。なまえに嫌われるぞ」

嫌われたほうがいっそ楽なのかもしれない。けど、僕はなまえと一緒に居たいし、なまえにも僕と一緒に居たいと思って欲しい。同じ傲慢なら、そっちの考えのほうが僕にはあっていると思う。ボールペンをペン立てに放り投げて、白が多いままの報告書は裏にしてデスクの上に置いた。見たくないものなんか見なくたっていい。それでいい。今はまだ。



ほろ苦いだけが大人じゃない




「なまえ、待たせたな」

そう言って七海と二人で飲んでいた場所に訪れたのは硝子だけではなかった。硝子の後ろには隠れようとしても隠れられないサイズの大男が立っていて、「来ちゃった」と言って笑みを浮かばせる。4人用のテーブルに向き合って座っていた私と七海。そこに当然のように、硝子が七海の隣に座り、悟が私の隣に座る。サイズ感を考えれば当然なのに、なぜか少し居心地が悪い。心の中に覚えた違和感を払拭するために、傍らに置いてあったメニューを手に取り硝子に手渡す。悟が受け取ろうと手を出していたことを硝子にメニューを手渡してから気づいて、また居心地の悪さが膨れ上がった。


「このメンツで飲むのは久しぶりだな」
「そうですね。私はぶっちゃけ五条さんに関わりたくないので」
「七海はもうちょっと発言をオブラートに包んで!」
「オブラートに包もうが包むまいが気にしないでしょう、あなたは」
「それが悟ちょっと気にしてるんだよ、七海」


この場に硝子と七海がいてよかった。私はきっと自然に話が出来ている。悟のジュースと硝子の焼酎が届いたところで、グラスを交わす。カチンと音がして、離れる。心地いい音だった。一緒に注文したスイーツが届くまではもうしばらくかかるのだろう。悟が手持無沙汰に箸で遊んでいた。



「五条さんに言いたいことがあるんですが」
「七海にそう改まれると聞きたくないなぁ」
「いえ、聞いて頂きます」
「わかったよ、なに?」
「なまえさんを幸せにするとここで誓ってもらえませんか?」


七海と突然の言葉に固まったのは私だけではなかったはずだ。ちらりと視線を隣に向けると、普段の悟からは想像できないほど真剣な表情をしていたので思わず視線をそらしてしまった。まだ酔ってはいないはずだ。その言葉の意味のせいか、その言葉を発したのが七海だったからか、理由は定かではない。けれど、その場の全員が悟の言葉を待っていた。


「誓うとかそんな簡単にいえるわけないでしょ」
「だからこそ、ですよ?」


七海は悟の言葉に矢継ぎ早に返事を返す。硝子は肯定も否定もせず、届いたグラスを傾けていた。私たちは高専時代から重いものを抱えて生きて来た。だから、全員がその言葉の重さを分かっている。悟が誓えない理由もわかる。それでも七海が誓えという理屈も納得できる。


「七海いいから、ね?」
「あーー!本当はなまえと二人の時に言いたかったんだけどなぁ」
「だそうですよ、なまえさん」
「いいから早く言えよ、五条」
「絶対幸せにするから、僕と結婚してくれる?」
「ちょっと考えさせてください」


冗談めいて誤魔化した。七海は不服そうだったけど、悟は「ひっど〜」と一緒にふざけてくれたからもう何も言わなかった。だって、私に幸せになる権利なんかない。傑も理子ちゃんも、甚爾さんも救えなかった事実があるから。罪がまだ私の中に残っているから。