午後10時、伏黒くんの部屋の前に佇む。
「傷を付けさせてください」と言った伏黒くんの真意はつかめないままだった。このドアを開けてしまったら、引き返せない。このまま帰ってしまえば、と愚かな私は未だに逃げることを考える。考えれば考えるほどドツボにハマるだけ、と、ドアをノックした。


「どうぞ」と中から声が聞こえて、ドアノブを回して中に入った。黒のTシャツに黒のスウェット姿の伏黒くんが、ベッドに腰掛けていた。部屋の中に入って扉を閉めると、「隣に来てもらえませんか?」と伏黒くんは自分の隣をポンポンと叩く。

「お邪魔します」と声を掛け、部屋の中に入り隣に座る。


「何考えてますか」
「……伏黒くんなら優しく殺してくれそうだなって」
「なんですかそれ」

寂しそうに笑って伏黒くんがとん、と私の肩を押した。ベッドの上に縫い付けられて、上から伏黒くんが私を見下ろす。こんな時ですら、伏黒くんを怖いと思えない。甚爾さんを殺した私の罪はこれで償える。覚悟を決めて、目を瞑る。甚爾さんの息子に殺されるなら本望だ。


「殺されるとでも思ってますか?」
「え、違うの?」
「違いますよ。好きな人にそんなことするわけないじゃないですか」
「でも傷つけるって」
「こうするんですよ」


咄嗟に目を開けた私の喉に伏黒くんが歯を立てた。
痛いと思ったのは一瞬で、すぐにぢゅ、と吸い付く感触へと変わった。「これが消えるまでは俺のこと、彼氏って思っててください」と伏黒くんは私に告げる。うん、と小さな声で返事を返すしかない私。そんな弱い私の頭を撫でて、「そんな顔ずるい」と言って額にキスを落とした。


「なまえさんもう一つお願いしてもいいですか?」
「…なに?」
「俺に思い出をください。そしたら、なまえさんのこと思い出にしますから」


伏黒くんが甚爾さんを失くした日の自分と重なって見えた。
こうして自分が甚爾さんのほうの立ち位置になってようやく気付いた。甚爾さんは私に何も残してはくれなかったということが私の勘違いだったということを。甚爾さんは私にたくさんの思い出を残してくれていたんだ。だから私はどんなに辛いことがあっても甚爾さんを忘れることが出来なかった。ううん、忘れる必要なんてなかったんだ。それを伏黒くんが教えてくれたような気がした。



恋の終わりは意外と静かに




私に伏黒くんを拒否する理由なんてなかった。
小さく頷いた私に、伏黒くんは唇を重ねる。薄い唇が小さく開いて私の唇に吸い付いた。本当に15歳?と思えるほどのテクニックに私は翻弄されるばかり。伏黒くんが腰を揺らすたび、私の口元からははしたない声が零れた。

「かわいい」と言って何度もキスをしてくれた。
「恵くん」と思わずなまえを呼んでしまった私に、「恵って名前初めて好きになれそうです」と言ってくれた。そして、その後「もうなまえさんに名前を呼んでもらえることはなくても」って悲し気な顔をするから、私は何度も「恵くん」って彼の名前を呼んだ。



「じゃあ、帰るね」
「はい」
「また明日、学校で」
「なまえさん」
「なに?」
「大好き、でした」

そう言って、伏黒くんは私を抱きしめた。もう二度と触れることのない温もり。けど、これでよかったと後悔は微塵もなかった。始まりは唐突に訪れるのに、終わりはいつも理由を伴う。「さよなら」と伏黒くんの唇にキスをして、私は伏黒くんの部屋を後にした。

誰も知らない、始まっていたのかすら定かではない私と伏黒くんの関係はこうして終わりを告げた。

ちょうど5月が終わりそうな、満月の夜のことだった。