今日は一日気分が優れなかった。それが、雨のせいなのか、夢のせいなのか定かではない。いや、どちらもきっと少なからず影響しているだろう。全ての事象が複合的に重なって、形成されている。人は単純でいて、複雑だから。

職員室に入ると、悟が珍しく書類とにらめっこしていた。そういう類のものは伊地知さんに任せていることが多いので、興味本位で後ろから覗き込んでみる。タイトルは「反省文」。それを見て、納得してしまう。プラプラと安物のボールペンを指先で弄ぶ悟。そんな姿は学生時代と差異はない。懐かしくて、苦しくなる。ここに存在しない人物を想って。


「悟、飲みに行こ」
「見てわかんない?僕忙しいの」
「反省文書くのに?」


ケラケラと笑いながら、悟のデスクの上に置かれた紙を拾い上げる。一文字も書かれていないところを見ると、きっと悪いことをしたとすら思っていないんだろう。椅子の背もたれに凭れ掛かって私を見上げる悟が、「返してよ」と可愛い声を出す。


「今日は宅飲みにしよ、悟はこれ書いてていいから」
「ひどくない?」
「今日は飲みたい日なの」
「硝子は?」
「解剖がたまってるんだって、「手伝うか?」って言われたから逃げてきた」


奪った反省文を二つ折りにして自分の鞄にしまう。あーあ、と大きなため息ににた言葉を零した悟はボールペンをペン立てに戻した。


「今日は悟んち」
「酒なんかないよ」
「私んちには悟の服も二人で寝れるベッドもないけど?」
「泊まり前提?」
「飲みたい気分って言ったでしょ?」

数日前に二日酔いになったばっかなのに懲りないね、と言いながらも悟は帰り支度を始める。傘ないよ、と言う悟と一つの傘に入って帰った。身長差があるから二人とも肩が濡れていた。文句は言ってももう一つ傘を買おうとはどちらも言わなかった。


アイデンティティが崩壊するとき




パタン、と扉が閉まる音で目が覚めた。身体に掛けられていた肌触りのいいブランケットをぎゅっと握って狸寝入りする。パタパタというスリッパの音が近づいてくる音に何度も笑いそうになりながらも耐える。


「なまえ、そろそろベッド行くよ」
「……」
「起きてんだろ?」
「……連れてって」
「あーはいはい」


悟は意外と面倒見がいい。私は小さい子が車で寝てしまった時のように、眠そうなふりをして悟に運んでもらうのを待った。「ちゃんと掴まってろよ」の言葉は甘んじて受け入れた。悟はブランケットごと私をお姫様抱っこで持ち上げる。このシトラスの香水好きだなぁ。確か、トムフォードの、悟の瞳の色みたいな瓶に入ったヤツだよね。


「なまえ、くすぐったい」
「無限使えばいいでしょ」
「そういう問題じゃないから」
「どういう問題?」
「そろそろ気づいてもよくない?同期ってだけでこんなに毎晩付き合うほど暇じゃないんだけど」


あまりにも突然の言葉にびっくりして、悟をじっと見てしまった。「やっぱり起きてた」ともうとっくにサングラスすら外した二つの目が私を見ていた。私を持ち直した悟が、「ドア開けて」と告げる。このタイミング、この状態で、寝室のドアを開けるのは本当に正しいのだろうか。私が迷って開けられないでいると、「開けろよ、こっちは両手塞がってんだよ」と悟が語尾を荒げて言う。


「別に今更すぐに事が進むだなんて思ってないし、ヤりたい盛りの学生でもないから」
「ごめん…」
「謝んないでよ、辛くなっちゃうじゃん」


恐る恐るドアを開けると、悟は長い脚でドアを開いた。ベッドまですたすたと歩いて、優しく私を降ろす。声の出し方が分からなくなったように、口は動くのにそれが言葉にはならない。そんな状態が続いた。


「なまえはー右と左どっちがいい?」
「は?」
「寝る場所だよ。僕のベッドはキングサイズだから、なまえのベッドと違って寝る場所選べるよ」


そんな私を見兼ねて、悟が空気を変えてくれた。肩からズレたブランケットを床に放り投げて、「私は右」とそのテンションに乗っかってみる。はっきり好きと言われたわけじゃない。どうしたいと言われたわけでもない。ただ、聞かなかったことには出来ないから。だから、だから、だから、朝まで考えさせて。それまでに自分がどうしたいか決めるから。


「あ〜やっぱり広いベッドはいいね」
「どうせ私のベッドはシングルですよ」
「だから大きなベッド買おうよ」
「悟と違って私の部屋は狭いからこんなベッド置けない」
「だから、一緒に住まない?って言ってんの」


私の視界に天井と悟が映る。こんな風に見下ろされるのは初めてだ。私の考えてることなんかきっとお見通しで、考える隙なんて与えてはくれないつもりらしい。悟の姿が記憶の中の甚爾さんと重なる。きっと今朝、あんな夢を見たからだ。甚爾さんを拭い去りたい、そう思ってしまった。