「はい、そこまで」

後ろから手の叩く音がして、振り返る。そこに居たのは、悟で。アイマスクをしている悟の表情は読み取れないけれど、怒っているような気がした。なぜかは分からないけど、長年の付き合いの長さがそう告げていた。
伏黒くんは、今まで私を見ていた目を悟に向ける。その目はいつも悟を見る目と変わらない。だから、告げないで欲しいと思った。彼を傷つけるための言葉を。


「なまえと僕ね、付き合い始めたの」
「……忘れられない人って五条先生だったんですか?」
「違うよ……」
「違うけど、それは恵には関係ないよね」
「関係ないわけないじゃないですか」


今まで色々なことを誤魔化して、伏黒くんに接していたツケが回ってきたような気がした。何をどう説明したらいい?本当に説明するべき?伏黒くんは、甚爾さんのことをどれだけ知っているの?私には知らないことばかりだ。もっとちゃんと、悟とも伏黒くんとも話しておけばよかった。自己保身ばかりしていないで。
伏黒くんが縋るように私に向けて伸ばした手が、風で冷えた私の頬に触れる。同じくらい冷たい指先は、私の記憶の中の甚爾さんの手のひらの温度と重なった。


「忘れられない人が五条先生じゃないなら、俺にもまだチャンスはありますよね?」
「伏黒くんだけはダメ」
「だからなんで、」
「もういいでしょ、恵。なまえを放してやって」

悟が私の腰を抱いて、そっと引き寄せる。頬にあった伏黒くんの指がそっと剥がれ落ちた。 伏黒くんの瞳には、悲しいって感情が浮かんでいて、心が痛んだ。これが私が望んだ未来だったのかと。
自分と同じような思いをさせたくなくて教師になったはずなのに、自分がやってることは自分が望んだものとは正反対のことだった。間違いは後から正すことなんてできないのかもしれない。甚爾さんと出会う道を選んでしまった私には、もう一生正しい道なんかみつからないのかもしれない。伏黒くんに背を向けて、校舎を目指しながらそんな絶望に襲われた。

避雷針は誰がために




悟が私の手を引いて歩く。悟の歩くスピードが速いと気づいて、いつも悟がどれだけ私に合わせて歩いていたのかということに気づいた。小走りな私を他所に、悟は涼しい顔で高専の玄関を目指していた。痛いくらいに握られた手が苦しい。


「ここなら誰も来ないでしょ」

連れてこられたのは悟が私用で使っている地下室だった。任務で遅くなった時に泊まっているという話は聞いたことがあったけど、中に入るのは初めてだった。けど、今はそんなことはどうでもいい。問題はもうすぐ始業時間だということにあった。
腕に巻いた時計を見て、次に悟に目をやる。アイマスク姿の悟の表情は長年一緒に居ても簡単に読み取れるものではなかった。伺うように眺める。これは、怒ってる?


「さと…る?」
「あのさ、朝起きたら居なくなってることとか、起こしてもらえなかったこととか文句言おうと思ってたのに全部吹っ飛んだんだけど」
「ごめ、ん」
「なんで僕がいるから付き合えないって言わなかったの?」


低くて冷たい声だった。ごめんと悟の背中に手を当てて謝る。身を翻して、私の両手首を掴んだ悟はソファに私を追い込んだ。ひじ掛けの部分に足がぶつかって、支える物のない上半身がそのままソファに沈んだ。


「なまえはあいつのことばっか」
「甚爾さんのこと」
「そうやってすぐ名前でてくるんだね」
「それは、」
「もういいからちょっと黙ってよ」

黙ってよ、と言った唇が私の唇に温もりを落とす。ちゅ、とくっついてすぐ離れて、またくっついて離れて。息を吸うために薄っすら開いた唇から、悟の舌が潜り込んでくる。ぬるりと歯列をなぞり、舌先を軽く吸われる。耳元に届く水音が感覚を麻痺させていった。キスなんて何年ぶりだろう。こんなに気持ちいいものだったっけ。


「なまえの頭の中僕でいっぱいになった?」

やっと唇と手を解放してくれた悟は満足げな表情で私を見下ろしていた。とろんと蕩けさせられた脳は状況をうまく判断できない。悟の手が私の髪を撫でる。それが心地いいと思った。もう一度私に唇を重ねるだけのキスをして、「先に謝るね。もう始業時間過ぎちゃった」とヘラヘラと笑う。未だぽやんとしたままの私は「ほら」と悟にスマホのディスプレイを見せられるまで夢うつつだった。


「絶対怒られる」
「僕のせいにしていいから、ね?」
「していいからじゃなくて悟のせいでしょ」
「え〜なまえも気持ちよさそうにしてたじゃん」


未だ力の入らない私の背中に手を差し込んだ悟は、そのまま私を起き上がらせる。優しい手つきで。大事にされているんだと思った。これが愛されてるってことなんだって気づいた。

愛って、なんだっけ?
分からなくなっちゃったよ、甚爾さん。
応えてよ、甚爾さん。