医務室は硝子の匂いがする。
アルコールとホルマリンとコーヒーの匂いが混じった独特の匂いだ。悟は長く居ると気分が悪くなると言うけれど、私はこの匂いが嫌いじゃない。もう慣れてしまったというほうが正しいだろう。そのくらいの年月を硝子と過ごしてきた。


「で、今日はどうした?」
「硝子聞いてよ、悟が」
「なんだ?とうとう好きだとでも言われたか?」


プラカップに注いだコーヒーを私に手渡しながら硝子は微笑む。エスパーなんじゃないだろうか。もしかしたら、心の中が読めるのかもしれない。貰ったコーヒーを口にしながら硝子をじっと見つめる。口にするのは恥ずかしいから、出来るのなら心を読んで欲しい。


「知らなかったのはなまえだけだ」
「硝子知ってたの?」
「私だけじゃない。傑も知っていたさ」
「え、そんな昔から」
「だから、報われればいいとは思ってる」


硝子はコーヒーを飲みながらそういう。硝子の言うことはいつも正しい。甚爾さんのことも「とっとと別れたほうがいい」と言ってくれた。天元様の事件の時も、「なまえは悪くない」と言ってくれた。傑が居なくなった時も「誰にもどうしようもできなかった」と言ってくれた。間違ってばかりの私と違って、硝子はいつも正しい。


「で、どうするんだ?」
「…付き合うことになった」
「そうか」
「もっとこうなんかないの?」
「なまえの友人としてはあんなクソでいいのかと思っているが、悟の同期としては良かったなと思ってる。割とどうでもいい」
「結論どうでもいいじゃん。ひどい」

泣き真似をして見せれば、ポンポンと硝子は私の後頭部を撫でる。殺風景な医務室は硝子らしい。硝子の目の下の隈を見て、もうこれ以上長居してはいけないと思いつつ、なんだかんだと長居してしまう。居心地がいいわけじゃないのに。なんでかな?なんて考えなくてもわかる。硝子がここに居るからだった。


理解するにも意志は必要




誰もいない職員室でため息を零す。午後が来るのが嫌だった。今日も伏黒くんに稽古をつけないといけないと考えると気が滅入った。その理由は彼が甚爾さんの息子だからという気持ちが半分、今朝の出来事が半分。今朝の様子を見ていれば、どんなに飾り立てた言葉も無意味だと思った。悟が恋人だと分かっても引く様子は見られなかったし。

それなら、いっそすべて話してしまえばいい。

私の中の悪魔が囁く。何度消しても湧き上がってくるその考えを消す方法を私は知らない。伏黒くんは一体私に何を求めているのだろうか。もしかして全て知っているのかもしれない。さり気なく聞いてみればいいとも思った。けれど、甚爾さんがどう暮らしていたかを知るのは怖い。

甚爾さん甚爾さんばっかり。
自分で考えていて馬鹿らしくなる。もう13年も経ったというのに。いつまでも女々しい。でも、そのくらい好きだった。


「なまえさん、すみません。任務行けますか?」

背後から伊地知さんに声を掛けられ振り返る。いつもなら任務の内容を聞いてから判断するが、今日は二つ返事で「いいよ」と言った。「ですよね、これ任務の詳細です」と私にタブレットを差し出した伊地知さんが「行っていただけるんですか?」と驚いていた。

「悟も任務出てるんでしょ?」
「はい、七海さんが後から合流予定です」
「いいよ、車回して」

手渡されたタブレットを操作して、席を立った。
寝不足も相まって、判断力が鈍っているのかもしれない。ストールをいつものように巻いて逃げ出そう。その時間は少しかもしれないけど、もっと私には考える時間が必要だと思った。