【2-1】1998年の章〜4月の1〜

かすかに救急車の音が聞こえてきた。
誰かの悲鳴が聞こえる。女の人かな。

慌ただしく響いてくる足音。
この足音はあいつかな。
また慌ててつまづいたりしないかな。
何回注意しても小走りする癖やめないんだもんな。

あー、体が重い。
まるで自分の体じゃないみたいだ。
泥沼にはまって自由を奪われたような、そんな感覚。
息するのもしんどい。
目を瞑ると、余計な力が抜けて体が一瞬浮いた様な感覚に包まれた。


俺、まだ生きてるのかなぁ、涼子。

そして意識が完全に飛んだ。

「岸田さん!岸田さん!聞こえてますか!?」
耳元で突然弾ける様な大きな声が聞こえた。ピリッというような、痺れが身体中を駆け抜けていく。
「痛っ!」

「意識戻りました!」

ああ、病院か。
そうか、なんか知らんが生きてるわ。

多分目の前にいるのは医者。そしてその隣にいるのは看護師。
医者が、がなりたてる。
「痛くて当たり前や!痛いと思えるだけ有り難いと思え!」

なんか大変なことになってるな。
後ろにいるのは…あー、マンションの管理人さんか。
なんかすまんね、危うく事故物件になるとこやったわな。

あ、涼子。
やっぱり来るよな、普通。

「涼子」
かろうじて出た声だった。

すかさず医者が
「喋らないで!」

「あ、一言だけ…」

「拓ちゃん…拓ちゃん…、よかったよ」
「ああ、ごめん、それよりおまえ、大丈夫なのか?」

すかさずまた医者
「今さっきのあんたより大丈夫じゃない人なんておる訳ないやろ!奥さん?彼女さん?あんたも身重なんやから大人しく待っときな!」

「すんません…」
「はい、すみません…よろしくお願いします」
二人して謝った。
少し顔を合わせて笑った。

マンションの5階から転落するという事故を起こしながら、奇跡的にほぼ無傷という離れ業をやってのけた俺は、その時、なぜか言い様もない不安が押し寄せてくるのを感じた。
何かとてつもなく大切なものがなくなってしまうのではないかという、そんな不安。
こういった不安感は得てして現実のものとなることを経験上理解していた。

とにかく、今は体がだるい。
そう思うとまぶたが急に重くなり、喧騒を耳元で感じながら眠りについた。




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