幾星霜の物語





 陽だまりに包まれているとはこんな感覚のことを言うんだろう。
 程よい暖かさ日差しに、時折吹くそよ風。今なら誰にも邪魔されない眠りが提供される気がする。薄いブランケットでも羽織っているような感覚。あー、本当に眠れそう。
「ミャー」
 右の横っ腹辺りに優しい圧を感じ、目を開くと毛並みのよい猫が右前足を私の横っ腹に乗せていた。まるで、どうしてここで寝ているのかと問いかけているよう。
「君もこっちに来て一緒に寝よ?」
 私は見たことがない猫だけど、毛並みが良いから魔法舎の誰かが手入れをしているんだろうと容易に予想がついた。そしてそれが誰なのかも、予想がつく。
 その誰か──ファウストは猫好きであることを公言しているわけではないが、誰もがその事実を知っている気がする。ここにいる魔法使いたちはいい人ばかりで、誰かの趣味の時間を邪魔する無粋な輩はいない。ほんの一部を除き。
 確か、猫の抱き方にも決まりがある。寝転がっている今の状態からだと、前方からすくい上げるように抱き上げたいけど、それは良くなかったはず。となると、寝転がっている今の状態ではどうすることもできないから、大人しく猫の動向を見守ることしかできない。引っかかれたり、服が穴だらけにさえならなければいいかな。
 猫は右前足を地面におろして、私の顔の方に近づいてきた。あまりにも人に慣れ過ぎていて、大切に扱われてきたことがわかる。
「はっくしゅっ」
 くしゃみが出た。気配はわかるから左側を向いて出したけど、なんだかつらい。
 私は猫アレルギーを持っていて、猫とふたりきりの閉鎖空間にいた場合にはすぐにやられる。この猫のように獣の匂いがしないほど綺麗にされていれば、まあ、アレルギー反応はそれほど出ないけど。それでも、アレルギーがある以上何かしらの反応が出る。
 もう少しごろごろしていたいし猫と戯れたいけど、このままいれば顔にモザイクがかかるのは間違いないから、魔法舎に帰ろうと状態を起こす。
「ぶえっくしょい」
 ……もう、駄目な気がする。
 フィガロに薬を調合してもらったけど、万能というわけではない。普段よりも症状を落ち着かせることができる程度。魔法を使ってアレルゲンが粘膜に触れないようにする手もあるけど、魔法使いは便利屋じゃないからそんなことは頼めない。薬がいらないかって言われるとそういうわけじゃなくて……
 鼻がむずむずする。目もなんだか不快感を感じる。このままだとくしゃみと目のかゆみで衰弱死する……
「きみは、馬鹿なのか?」
「ファっウスト。そこまで……はくしょい! ……言わなくて、も……はくしゅ! ……いいじゃないで、か」
「だいぶつらそうだな……」
「《サティルクナート・ムルクリード》」と聞き馴染んだ言葉が聞こえ、むずむず感とかゆみが軽減した。それでも、まだなんとも言えない不快感は少し残っている。
 免疫反応は魔法よりも強いらしい。痛みを和らげることはできるはずだから、あまりにもアレルギー反応の頻度が多いってこと? それとも、付着したままのアレルゲンがあって、反応を起こしてる? 勘弁してください。
「すっきり、はしていなさそうだな」
「粘膜に付着した…ずびび…アレルゲンはとれないんですか……?」
「僕の得意分野は呪いだ。粘膜に付着する前ならまだしも、もう手遅れだ。もしやろうとすれば、きみの粘膜ごと剥がす可能性がある」
「それは困ります」
「ネロならできそうな気がするが、まあ並大抵の魔法使いでも難しいだろうな。とりあえず、癪だがフィガロに診せよう。この手のことは得意だからな」
 ファウストは少し考え込む動作をして、呪文を唱えると私の隣に片膝をつき、背中と膝裏に手を伸ばした。この形は間違いなく、俗に言うお姫様抱っこというもの。目の前にいる人物が本当にファウストなのか、自分は幻覚を見せられているんじゃないかと思い、自分の頬を叩いてみた。こっちの世界に来て二回目だ。
 痛みを感じるからこれは現実。そもそも、痛みで幻覚は消えるのかな。
 視線を感じてファウストの顔を見れば、嫌なものでも見たような表情をしていた。
「きみは、自分を痛めつけるのが好きなのか?」
「そういうわけじゃ、ないです。目の前で…ずびっ…起きていることが現実なのか心配になりまして……」
「……は?」
「すみません。なんでもありません」
「……賢者、きみは病人なんだ。大人しくしていてくれ」
 ファウストには失礼だけど、私の体を持ちあげるのは無理だと思っていた。一般的には、個人差はあれど男性の方が代謝が良くて、筋肉が付きやすい傾向がある。それでも、ファウストは筋肉に使われる成長を魔力に全振りしたんじゃないかっていうイメージがある。
 少し大変そうだったけど、ファウストは私の体を持ちあげて、ゆっくりとした歩調で魔法舎に向かって歩く。ファウストには失礼だけど、人を持ち上げる筋肉あるんだなと思った。
 すれ違う魔法使いたちからの視線は痛かったけど、いきなり飛び降りると今度こそファウストの骨を折ってしまいそうでできなかった。
 フィガロの部屋の前まで来たものの、さすがにドアは開けられないみたいで、「フィガロ」とファウストはドアの先にいるであろう人物に声をかけた。ドアはすぐに開いて、「いやぁ、きみが来るなんてめずらしいねえ」とフィガロが楽しそうに笑っている。
「……どういう状況?」
「アレルギー症状です。ずびびび…鼻水が、止まりません」
「薬を過信し過ぎるのはよくないけど、もう一度配合を考えてみるよ。ああ、ファウスト。賢者様を降ろしてあげて」
「わかっている」
 ファウストはゆっくり私をベッドの上に降ろしたかと思うと、ベッドのふちに手をついてその場にしゃがみ込んだ。
 何事かと思ってファウストを見れば、普段の彼からは考えられない量の汗がにじんでいた。
「ファウスト、本当にすみませんでした」
「別に……僕がやったことだから、きみに、謝られる、筋合いは、ない」
 ファウストが私をその場に立たせなかったのは力尽きていて、それができる状況でもなかったからか。貧血で気を失ったりしてしまいそうで心配になる。力仕事は極力ファウストに頼まないようにしよう。
「私は横になる必要ないので、ファウストが使ってください」
「気にしないでくれ……」
「明らかに私よりも病人じゃないですか」
 ベッドから降りて、ファウストにベッドに上がるように促していると、止まっていたはずのくしゃみ、目のかゆみが一気に襲ってきた。ファウストの魔法の効果が切れたのかな。でも、ここにはアレルゲンとなりそうなものはないのに、どうしてだろう?
 目をかきたいけど、かいたらひどくなるし、うあああああ。
「ファウスト」
「……なんだ」
「きみも存外詰めが甘いんだね」
「うるさい。早く、なんとかしてやれ」
「きみに言われなくても、わかってるよ」
「それ、俺のベッドなんだけどなあ」という言葉は聞かなかったことにする。
 私はくしゃみ、鼻水、目のかゆみを我慢するので精一杯で、フィガロが呆れたような微笑みでこちらを見ていることには気が付かなかった。
「他の誰かに頼めば良かったのに」

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