幾星霜の物語





 ぱたぱたと数分前から鳴りだした雨音はおさまる気配を見せない。
 雨は毎日と言っていいほどの頻度で降っていることを自覚しているというのに、今日は傘を忘れてしまっていた。
「人の店の前で雨宿りか?」
「ターナーさん」
「店に入って待っていてくれ。タオルと傘、渡すからさ」
「……ありがとうございます」
 ターナーさんは気さくに話してくれる人だ。それはもちろん、お店のお客さんに対してだけだけれど。何度か通っているうちに私のことを覚えていてくれたみたいで、気軽に話しかけてくれた。
 買い出しの帰り道、突然降り始めた雨に近くの建物の軒下に入った場所、丁度ここがターナーさんのお店だったらしい。
 ターナーさんの厚意に甘えて店内に入ると、数人のお客さんが団欒していた。東の国らしくない光景になんだか頬が緩んでいると、ターナーさんがふわふわのタオルと傘を持ってきてくれた。
 ターナーさんは見ての通りまだ仕事中で、「タオルはそこに置いておいてくれ」と言うと厨房の方に戻っていった。
 カウンター席に座っているお客さんの声が聞こえてきて、魔法使いさんを悪く言っていると知った。こうして何もできず、言葉でしか身を護れない自分がひどく弱く見えて、魔法使いさんが羨ましく思えた。
 ターナーさんはお客さんの投げかけに曖昧に答えていた。ターナーさんらしい、優しい言葉だった。
「タオルと傘、ありがとうございました。お礼は今度させていただきます」
「ん。礼はいいからさ、今度時間あるときに料理、食べに来いよ」
「はい。約束です」
 ターナーさんは、先ほどのお客さんの投げかけに答えている時と同じように困ったように笑って、何も言わなかった。
 突然、ターナーさんの顔が歪み、ターナーさんの腕が光り出した。その光景は明らかに異様で尋常でない何かが起きていることが分かった。
 人目を気にして、いつも笑顔でいるターナーさんの顔があまりにもつらそうで何もできない自分が悔しい。
 ターナーさんは袖を無理矢理あげて光が強い部分を見た。そこには不思議な紋章が浮かび上がっていた。
 その紋章は、おそらくこの世界の住人であれば誰しもが知っているモノ。賢者の魔法使いさんであることの証明になる、紋章だった。
 この紋章が浮かび上がるのは魔法使いさんだけ。……ということは……
「あーあ。知られちまったか」
 人が変わったようにターナーさんがそう言うと、店内にいるお客さんは店の外へと逃げていった。正直、私も怖い。
 でも、ターナーさんのあの優しさを知っているから、これがターナーさんなりの優しい嘘だとわかる。
「あんたは逃げないのか?」
「は、い」
「へぇ?」
「ターナーさんは、きっと人間を傷つけるような魔法使いさんではないと信じているので」
「そんなこと、ないと思うけどな」
 自分に言い聞かせるような言葉。ターナーさんが何か呟いたかと思うと強い眠気に襲われその場に倒れる。誰かが支えてくれたような気がしたけれど、言葉を紡ぐ前に意識が消えた。
 瞼を閉じる前、ターナーさんのなんとも言えない寂し気な表情が見えた気がした。


  ◎  ◎  ◎


 目が覚めると、もうそこにターナーさんの姿はなかった。
 噂話は法典で禁止されているから物的証拠がない限り、ターナーさんが魔法使いであるという事実は噂話の域を出ない。でも、魔法使いさんはここに居続けることはできなくなったんだと思う。
 ターナーさんの料理はこれからも食べていたかったけれど、それが叶うことはなさそう。私が魔法使いさんみたいに長命なら、ターナーさんの料理をもう一度食べることが叶ったかもしれない。
 ないものねだりなんてしてもただの無駄なこと。
 傘置きを見ると、ターナーさんが貸してくれた傘と傘の持ち手にかけられている白いタオルがあった。
 ターナーさんから貸してもらった傘は水色の可愛らしい傘で、ターナーさんがいつもこれを使っているのだと思うと笑みが零れた。お客さんに貸すようとして店に常備しているかもしれないけれど、私のために選んでくれた傘だと思うと嬉しくて上がってしまった口角がなかなか下がらない。
 タオルの間には小さい紙が挟まれている。
『次会った時にでも、その傘とタオルを返してくれ』
 用件だけしか書かれていないメモのように淡々としているそれは、少し寂しいけれどターナーさんの人柄を感じた。
 書き残さず去ることだってできたはずなのに、こうして書き残してくれたことが嬉しかった。
 人間よりもはるかに長い時間を生きる魔法使いさんたちの生から見れば、次≠ヘほんの少し先のことなのかもしれない。でも、人間である私からすると、生きている間にその次≠ェあればいいなと願うような、そう、雲をつかむような可能性。
 だけど、その次≠ェ生きているうちに、近いうちにあるのだと錯覚してしまうのだから、なんて私の脳は平和なんだと思った。
 カウンターに置かれている紙袋、そしてタオルと傘を手に取り、お店のドアを開けた。
 お店に入る前よりも強い雨脚に、ターナーさんから借りた傘を有難く使わせてもらい帰路を辿る。
 いつもより少し重たい雨音の中、私の足は軽やかだった。







 私は夢を見た。
 数回しか訪れたことのない中央の国で、お祭りのような華やかさのなか、たくさんの人々で溢れかえっている風景。
 私は何かを探すかのように辺りをキョロキョロと見まわしている。
 そして、目的のものを見つけて、こう言った。
「ターナーさん!」


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