苦くて甘い

※キメ学軸ではない現パロ


カシュッ、とプルを引くと、かすかに麦が香る。
喉を通る軽快な泡は、乾いたそこには刺激が少し強い。
けれどその刺激が、今日の疲れを緩和してくれるような気もするのだから不思議だ。

この一瞬を待っていた、だなんて。そんな言葉はまだわたしの年齢では早い気もするけれど、…けれど、今日はこの瞬間を待ち望んでいたのだ。

「今日は、仕事。…頑張ったから。」

誰に言うでもなく独り言ちた。

上司の嫌味にも耐えた。その原因はその上司の伝達ミスだったけれど、けれどそれをあの状況で言ったってしょうがないから。謝って、それでいつもの業務に加えて、そのミスの尻拭いと、お手洗いに言った隙にいつの間にか増えていた業務にも頭を抱えて。
今日はたまたま運がなかったんだからと自分に言い聞かせて、どうにかこうにかやり過ごした。
定時なんてとっくに過ぎていたし、そんな時間になっちゃったもんだからどうせならケーキ買って帰ろう、と思ったのに。
遅くまで開いているからといつも愛用しているケーキ屋さんは今日に限って臨時休業。
ここまできたら、そりゃあ、もう。コンビニで買い込んだお酒を家で煽るしかないじゃないか。


シン、とした室内で、空きかけた缶と真新しい缶を手にふらふらとソファへと向かう。
この不快な気持ちをどうにかするのに、350㎖は少なすぎる。
けれど化粧も落とさないといけないし、おなかもすいたような気がする。そういえば、洗濯物も取り入れないといけない。
ああ、無理。ほんと、やだ。
こんなにうまくいかない日には、もう何もかもが嫌になる。
はあ、と息を吐きながら、我ながら雑にソファに沈みこんで、ポケットからスマホも投げ出した。

投げたスマホが震えて、着信を告げる。画面を確認すれば、そこには“宇随マネージャー”と、記されていた。

「もし、もし。…お疲れ様です、宇随マネージャー。」
「おっ!お疲れさん、名字!出んの早いじゃねえか。」

うちのエリアのマネージャーを務める宇随さんは、快活でとても良く周りを見てくれる人だ。
彼が仕事を割り振った人たちは大体みんなスキルアップしつつプロジェクトを成功させているし、ミスがあれば一緒に解決しようとしてくれる。自身の業務も忙しいだろうに、とにかくいわゆるデキる人なのだ。

「…どうされたんですか?」
最近は、優秀ゆえ他エリアにヘルプに行くことも多かった彼とはしばらく顔を合わせていなかった。
それが嬉しい人はうちのエリアにも数人いる。もちろん今日の一件の上司もそうだ。若くしてその地位に上り詰めた人を疎ましく思う人も少なくはない。
顔を思い出すとやっぱりもやりとする。空いた缶は机において、二本目を片手で開けた。

「いや、お前んとこの部署から上がってきた資料、今日一日でめちゃくちゃわかりやすくなってたから多分お前だろうなって思ってよ」

こうやって、私みたいな末端社員にもいちいち声をかけてくれるのだ。本当に優しいと思う。
いつも直接聞く声よりも少しだけ低く感じる音を耳に受けて、少しだけ気持ちが軽くなったような気がした。

見てる人は見てくれるし、気づいてくれる。
今日はただただ運が悪い日じゃないのかもしれないだなんてすぐ思ってしまう私は単純だ。

「…ありがとう、ございます。」
「しんどかったろ、今日。悪かったな、最近そっちいけてなくてよ。」
「大丈夫、です。宇随マネージャー、忙しいですもんね。」
「俺はド派手に仕事ができるからなあ、でも自分トコのやつらのほうがそらぁ気になる」

自分で言っちゃうのに、嫌味にならないからこの人はすごいと思う。
くすくすと自分から笑いが漏れて、くいとまたビールを喉に流す。

「なあ名字。いつも頑張ってくれてありがとな。正直ほんと、名字には助けられてるわ」

耳にダイレクトに伝わる声が伝えてくれたのは、間違えようもなく日頃の感謝で。
ふわりと何かが浮くような感覚がした。例えるなら、水の底から水上に浮き上がる空気、みたいな。自然に水上に溶けていこうとするそれは、私の中では今日一日底にたまり続けた悪意だ。
それが、宇随さんの声で、どんどん浮かんで消えていく。
ああ、わたし。ちゃんと認めてもらえてるんだなあ。

「そんな、私のほうこそ、宇随マネージャーには、本当に助けられてて」

だめだ、おもっていたより私は今日メンタルがダメみたいだ。
お礼を伝えたいだけなのに鼻の奥がツンとして、声が震える。もう悪意の泡は浮かび溶けきったくらいなのに、どうして。

「泣くな泣くな!いつもみたいにド派手に笑えよ!」

体を沈めたソファは、勤め始めて3回目の給料でちょっと奮発して買ったものだ。ふかふかな生地に体が沈む感覚がなんとも心地よくて、買ったのだけれど。
いま、スンスンと鼻を鳴らす私の体が、もっともっと沈めばいいと思う。なんだか、何かに沈んでしまいたいそんな気分だから。
きっと今、どこまでも深い上司の優しさに埋もれているからだろう。近くにあったぬいぐるみを抱きしめてしまわないと、それに落ちてしまいそうで、しがみつくように片手で抱いた。


「そっち、もう少しで戻れるから。まあ楽しみに待っとけや。あいつは俺がどうにかするし、そしたらまあ、パァーっと派手に飲みに行こうぜ」

あいつ、とはきっとあの上司のことで。私は何も言ってはないけれど、きっと私以外にも目に余ることがあったんだろう。
気付いたら二本目の缶ももう少しでなくなりそうだ。今、喉を潤すこの苦みももちろん大好きでおいしいけれど、きっと彼とパアっと飲むお酒はもっとおいしいだろう。
もう少し先であろうそのイベントを想うと、明日も仕事を頑張れそうだと思う。

ああ、社会人というくくりで縛られていたって、たったの3年じゃ自分が大人になれただなんて実感はない。
だって、こんなにも単純だ。

「楽しみに、してますね。」
自分でもわかるくらい、電話はじめと今とじゃ、声のトーンが違う。
電話先では安心したように息を吐いた音が聞こえた。

「俺も楽しみにしてる。…あァ、言っとくけど二人、な。」

そういって、ぷつっと通話は切れた。
するりとおろした手元のスマホの画面には、最後に自分から業務連絡をした文面と、彼から返ってきたキラキラしたスタンプ、通話時間。
二人って、言った。たしかに、言った。
いつも派手に派手にっていうくせに、最後、あんなに、静かで、甘い声で。

横にした身体が、ソファに沈む。
今度は両手でぬいぐるみを抱きしめたって、もう落ちている。けれど、それでもぎゅう、と抱きしめる。

「…ふたり。」

単純で、大人だとは自分で思えないけれど。それに含まれた意味が分からないほど子供でもない。
けれど、それだけで仕事を頑張ろうっていう気持ちになるものだから、やっぱり単純なのだ。

2缶目の残りを喉に流し込む。
時間がたって少し炭酸が抜けたそれ。
流れ込む喉は苦くて、いまだ声の残る耳は、少し、甘い。

tallone