裸フラメンコ動画を手に入れる子分 03

熱い手が体を這う。汗で湿った指先が産毛を撫でつけながら、的確に気持ちいい部分に触れてきた。酔っているはずなのに、体をまさぐる手つきはしっかりとしていて、簡単に体の熱を膨れ上がらせる。時には、そんな場所が気持ちいいなんてことを知らなかった場所まで触れられて、震えた声が止められなくなっていく。
やめてほしいのか、もっとしてほしいか。わからないまま、アルコールに犯された頭は思考を止め、ただ与えられる熱に身を委ねた。触れられるのも、舐められるのも、何もかもが気持ち良かった。
『ロマーノ』
目の前にいるのに、何度も名前を呼んで、縋りつくように抱きしめられる。息を奪うようなキスをしている間も不埒な手は、感じる場所を撫でさすっていた。
目の前の体に腕を伸ばして引き寄せ、自分からキスを強請る。唇が離れるたび、スペインは俺の名前を呼んでいた。
『ロマーノ』
まるで相手を確かめる様に。強く、求める様に。



はっと目が覚めて、飛び込んできた天井の景色をしばらく眺めていた。ただ寝ていただけなのに、少し息が荒くなっていて、体は汗でべたついていた。何度か大きく息を吸って呼吸を整えた後、額に張り付いていた前髪を払うように頭を掻いた。
「ああ……クソッ」
下半身に纏わりつく違和感。それに舌打ちしつつ、怠い体を引きずってシャワールームへ向かった。
スペインと間違いが起こったあの日から半年間、ほぼ毎日と言っていいほど、同じ夢を見る。それはスペインと肌を重ねた夜の夢だった。ベッドに押し倒され、キスを繰り返しながら肌をまさぐられる感覚や感触が、未だにリアルに思い出せた。忘れようとしているのに、それを許さないかのように毎晩夢に見る。
夢を見るだけならまだよかったが、どうにも自分の体はその夢を見て興奮を覚え、下手すれば夢精している日もある。お陰で、シーツを汚すことを避けるために、ここしばらくはずっと全裸ではなくパンツを履いて寝ていた。シーツを汚すより、パンツを汚してヴェネチアーノにバレないようこっそり自分で洗う方が、詮索されなくて済む気がしたからだ。
あの日から散々だ。体と尻はしばらく痛かったし、よくわからない高熱も出るし、避けていれば身近な連中が口を挟んでくるし、避けられている本人からは非難される。今までなんとなくうまく回っていた歯車が、あの夜の失態から全てが狂った。
「なんで俺がこんな目に合わなきゃいけねえんだよ……」
汚れたパンツを洗い、汗を流し終えてからシャワールームを出た。適当に体を拭いてからシャツとジーンズを身に纏い、濡れた髪を乱雑にバスタオルで拭いていく。滴が飛び散っても見ないふりをして、ソファに腰かけた。しかしイラつきは収まらず、髪を拭いつつ膝を揺するのが止まらない。
どうして俺がこんなことで悩まなければいけないんだろう。なんで俺だけナポリでコソコソ暮らさなきゃいけないだ。納得いかない。俺の尻にご自慢の息子を突っ込んだあの男は、どうせしばらくはいつもの能天気な面をぶら下げて、かわいい女の子にへらへらしていたんだろう。俺に避けられてるって気付いてからはそれどころじゃなかったかもしれないが、それまでは俺みたいにエロいことをする夢を見て夢精する青少年みたいな痛々しいことは起こってないだろうし、そのことで頭を悩ませたりもしていないのだ。
今まで意図的にじっくりと考えることは避けていたが、もう苛立ちが収まらなくなってきた。先日メッセージで届いた『逃げるのがズルい』という言葉が、ずっと喉の奥で引っかかっている。それはいくら飯を食べても、何度寝てもとれなかった。
本当にもう腹が立つ。こんなに悩ませるぐらいなら、あの男の存在を消し去りたかった。いっそ殺してやりたいぐらいだ。
そんな物騒なことを考えていると、家のチャイムが鳴った。顔を玄関の方へ向ける。携帯を見ずとも、ドアスコープを覗かずとも、そこに立っているのが誰なのか、予想はついた。そして間違いなく、それは外れていないはずだ。スペインから腹立たしいメッセージを受け取ってから、一週間となる。その間に、あの男が俺の居場所を突き詰められないとは思えない。
ため息をついて立ち上がり、バスタオルをソファにかけてから寝室へ向かった。サイドチェストにある銃を取り出し、弾が入っているのを確かめる。その間にもう一度チャイムが鳴らされて、聞こえないだろうに舌打ちをした。
銃を後ろ手に隠しつつ、玄関へと向かう。ドアスコープを覗かずに鍵を開けると、すぐに玄関のドアが開かれた。
「……久しぶりやなあ、ロマーノ」
ドアが開いた先には、にこやかな笑顔を浮かべているスペインがいた。しかし緑の目が笑っていないことは流石に気付いている。中に入れなければ永遠にドアの前に居座りそうなその雰囲気に、肩を竦めて一歩後ろへ下がった。中へ入る様に促すと、スペインは大人しく中に入り、こちらに背を向けてドアの鍵を閉めた。
ガチャン、と施錠される音と同時に、スペインの後頭部に銃口を突き付ける。
「ちょ……ちょお待って!殺さんとって!」
慌てて両手を上げたスペインに対し、ぐりぐりと銃口を擦り付けた。
「撃ったって死なねーだろテメェ」
「せやけど痛いのは痛いやんか!」
「お前だって痛い思いぐらいしろ」
こっちは尻にぶちこまれてありえないぐらい痛い思いもし、高熱も出したっていうのに。頭をぶち抜かれたぐらいなんだっていうんだ。痛みを感じないうちに一度死ぬだけだろうに。
「なあ、なんで怒ってるん?俺何したん?」
両手を上げたまま、スペインは顔だけこちらに振り返った。相変わらず銃口はその頭に狙いを定めているが、スペインは俺が本気で撃つとは思っていなさそうだった。銃口を突き付けた時ほどの緊張感がすっかり薄れている。
スペインを睨みつけつつ、本当にこいつは何も覚えていないんだと思い知らされた。それはカフェで朝食を共にした時、嫌というほど理解していたつもりだったが、だからといって怒りが収まる訳ではなかった。
本当に腹が立つ。同じ目に合わせたい。殺してやりたい。
そんな感情が溢れているはずなのに、何も覚えていないというその事実が、とてつもなく俺を安心させていた。俺を押し倒したことも、キスしたことも、触れたことも、誰も知らない場所を開いたことも。何もかも、スペインがなかったことにしてくれていたことに、どうしようもなくホッとした。
そうすると体の力が抜けて、銃口が下がる。そうして視界がぐにゃりと歪み、頬に熱い涙が一筋、流れ落ちた。
「えっ」
驚愕に見開かれたスペインの目を見ていられなくて、顔を伏せてその場に座り込んだ。どんどん溢れてくる涙を手で拭うが、追い付かなくて、床に滴がいくつも落ちていく。
「え、え、え、待って、泣かんといて、待って」
慌てた様子で、スペインが俺のすぐそばで膝をついた。あやすように背を撫でながら、スペインは何度も「泣かんとって」と、懇願するような声を出している。
止められるものなら、こっちだって止めたいぐらいだ。けれど半年間ずっと我慢していた涙は、ついにスペインを見て止められなくなった。結局、良くも悪くも俺を泣かせるのはこの男なのだと思い知る。
「俺かって意味わからんと避けられて辛かってんで……お願いやから泣かんで」
「うるせえ!俺はお前の100倍辛いんだよハゲ!ふざけんな!」
すぐスペインに噛みつくと、途端にスペインは困った様子で眉を下げた。
「ごめんな、俺が悪いのはわかってんねん。いやわかってないねんけど、なんか傷つけたんやろうなってことはわかってんねん。ごめんな」
理由もわからずよくそこまで謝れるものだと思うが、スペインは昔から鈍感で、周りから散々鈍いと言われているせいか、思い当たる節がなくとも何かしたのだろうとは察することが出来るようにはなっている。それは長年培ってきた経験があるからであって、俺が本気で泣いている時ぐらいは見分けがつくのだ。別に察しが良くなったわけではない。
「そんな泣かんで、俺まで泣きそうになるやんかあ……」
俺の背を撫でることは止めないまま、スペインは今にも泣きだしそうな震えた声でそう言った。勝手にここから出て行って適当にどこかで泣いていればいいのに、泣いている俺を置いていけない男なので、絶対にそんなことをしないとはわかっている。
相変わらず止まらない涙を流しつつ、スペインを睨みつけた。視界は歪んでスペインが滲んで見えるし、恐らく自身の顔もひどいことになっているが、今更スペインに泣き顔を見られて恥ずかしいなんて感情はわかない。そんなものは、何百年も前に捨ててきた。
「……抱っこしろ」
「えっ」
「抱っこしろ」
腕を持ち上げると、スペインは困惑したように顔を歪めた。それに苛立ちが増す。こちらも同じように顔を歪めた。
「ええ……ロマーノもう結構重いやん……」
「しろっつってんだろ!」
怒鳴りつけると、スペインは肩を落としながらため息をついた。完全に呆れたその態度に、またしても苛立ちが加速する。
「もーーー……しゃあないなあ……」
伸ばした俺の手から慎重に銃を取り合げて、スペインはそれを床に置いた。ゴトッと硬い音を立てたそれに実弾が入っていることに気付いたのか、スペインは乾いた笑みを浮かべている。そして今度は腰と、足の膝裏に腕を回して、そのまま俺を持ち上げた。
「ちょ……!」
抱っこしろ、と言ったのは間違いなく自分だが、お姫様抱っこをしろなんて誰も言っていない。バランスが崩れ、慌ててスペインの首に腕を回して抱きついた。首元に顔を寄せると、スペインの匂いが強くなって、あらぬことを思い出しそうになり、それを消し去る様にぶんぶんと首を横に振る。
小さな時にするような抱っこがされたかっただけで、こんな恥ずかしい抱き上げ方をされたかった訳ではなかった。ただ安心が欲しかっただけなのに、心臓は抑えられないほど大きな音を立てて、激しく動き始めている。
「ううぅー……あれ?でもお前痩せたんちゃう?ちゃんと食べてるん?」
持ち上げたスペインは、しかし首を傾げて顔を覗き込んでこようとした。それから逃げる様に、更に強くスペインの首に縋り付く。
「くっ、国なんだから、食わなくたって体重なんか変わるかよ」
「ええ……変わるやろ」
納得していない様子のまま、スペインは俺を抱き上げつつ、リビングへ向かった。一人で暮らす為のアパートなので大して広くもなく、リビングにはすぐ辿り着く。
「また部屋散らかして……」
床に散らばってる雑誌や、取り入れたまま山積みになった服、洗わないままシンクに放置されている食器やデリの紙皿など。ざっとそれらを見渡して苦笑を浮かべているスペインは、その程度で怒るような男ではなかった。
ひとまずそれらを無視したスペインは、比較的綺麗なソファまで辿り着き、そこに腰を下ろす。その隣に下ろされるかと思ったが、スペインは俺を横抱きにして膝の上に乗せたまま、隣に下ろそうとはしなかった。
「な……お、おろせ……」
首に回していた腕でスペインの体を突っぱねたが、何の抵抗にもなっていないのか、腰に回されたままだった腕で強く体を引き寄せられた。途端に顔が近付いて、慌てて顔をうつむける。驚きの連続で、涙なんてとっくの昔に止まっていた。
「なあ。俺何してもうたん?」
もう一度体を離すよう腕に力を込めて押したが、びくともしない。腰に回された手に、更に力を込められただけだった。
「教えてや、ロマーノ」
逃げられない。スペインは俺が理由を話すまで、きっと手を離すことはないだろう。ここで離してしまったら、また俺に避けられることに気付いているのだ。
仕方なく抵抗するのを止め、ゆるく首を横に振った。言いたくないと、意思表示をする。
「なんで?俺に怒ってるんやろ?」
ヴェネチアーノとフランスにも、スペインに怒っているのだろうと言われた。怒っているには怒っている。スペインを避けるために一人ナポリで引きこもったり、毎夜どうしようもない夢に魘されるようになった。全て忘れてしまったスペインに対して。確かに怒っていた。
「……ちげーよ」
でも避けていたのは、怒っているからではない。
否定した俺に、スペインが少しだけ驚いた様子を見せていた。顔を伏せていても視界の端にそれは映っていて、なんとなくわかった。
「会いたくなかっただけだ」
メッセージで伝えた通りの言葉を口にする。それ以外に伝えようがなかった。
しばらくスペインから返事がなく、おかしく思って顔を上げると、スペインは悲しそうに眉を下げながら目を細めて笑っていた。顔が近いことなんてどうでもよくなるぐらい、その寂しそうに笑うスペインの顔に目が引かれた。
「……俺のこと嫌いになったん?」
怒っていないのに会いたくない理由なんて、それぐらいしか結びつかないのだろう。バカらしくなって、舌打ちをしてから顔を背けた。
「お前のことなんかずっと嫌いだ」
相変わらず膝の上に大人しく乗っておきながら、こんなこと言ったってなんの信憑性もないだろうな。自分自身でそんなことを思いつつ、意地でもスペインの方へ顔を向けなかった。ソファの目の前にある真っ黒なテレビ画面を睨みつけていると、反射しているせいで少しだけスペインの表情が見えた。困ったなあといった様子で笑っている。
しばらくそうして二人とも口を噤んでいたが、ふいにスペインが俺の肩に頭を預けてきた。首筋に触れる柔らかいスペインの髪の毛がくすぐったくて、鳥肌が立つ。
「最後に会ったの、覚えとる?」
忘れるわけがなかった。しかし答える気にならず、相変わらず顔を背けたまま頷くこともしない。するとスペインはこちらのことなど構わず、続けて口を開いた。
「イタちゃんから聞いたんやけど、あのあと熱出て寝込んでたんやろ?俺と別れた後やんな?なんか関係ある?」
本当は「大アリだストロンツォ!」と怒鳴り散らしたいところだが、それも堪えて無視をする。普段察しの悪いスペインが、寝込んだことと何か関係あるのかもしれないと気付けただけ、ある意味凄いことなのかもしれない。もちろん褒めていない。
何にも言わない俺に焦れたのか、スペインはまたしても腰を掴む手に力を入れつつ、ぐりぐりと額を首に擦りつけてきた。
「ほんなら言わんでええから許して。もう避けんとって」
「……無理だ」
「ロマ〜ノォ〜」
情けない声を上げながら縋り付いてくるスペインに、どう説明すればいいのかわからない。こんなに問い詰められて、悲しそうな笑顔にさせてしまうぐらいなら、いっそ本当のことをぶちまけてしまいたい。そうなれたら、どれだけ楽になれるだろう。
でも言ってしまったら、これから俺たちはどうなってしまうのか。
「無理に、決まってんだろ……」
「ロマーノ?」
首にあったスペインのぬくもりが消え、スペインが俺の顔を覗き込んでこようとした。声が震えていたせいかもしれない。それから逃げる様に顔を伏せるが、それでもスペインは追ってきた。視界の端にちらちらと映るスペインから逃れたくて、そっと目を閉じる。
「……お前のせいだ」
酒の勢いで子分である俺を抱いてしまったと知ったら、きっとスペインは傷つくはずだ。それこそ、二度と親分と口に出来なくなるぐらいの自己嫌悪に陥って、俺を遠ざける。スペインはいつだって俺を守ってきたような男だから、危害を加えるものを俺に近付けない。例えそれが、自分自身であったとしても。
でも俺は、そんなの嫌だった。もう南イタリアはスペインのものではないし、元親分子分なだけだと言われても、簡単に縁が切れるような相手じゃない。それこそたかだか一夜の過ちで離れることになるなんて、絶対に嫌だった。
だからスペインを避けていた。スペインは鈍い男だが、長い付き合い故に俺の多少の変化には気付けるようになっている。そして俺は、そんな相手に対して長く嘘を貫き通せるほど、巧妙な話術を持っている訳でもない。すぐにボロが出て、それに気付いたスペインに追及されることになったに違いない。
あの夜をなかったことにして、なかった振りをし続けることが出来たなら、こんな面倒なことにはならなかった。でもそんな振りが出来ないからスペインを避けて、俺の中でほとぼりが冷めたら、自分からスペインに会いにいくつもりだった。
でも忘れられなかった。
忘れようと思っているのに、悲しいぐらい毎日、毎晩、同じ夢を見る。あの夜の熱を思い出させるように毎夜夢を見続けて、どんどん体の熱は膨れ上がっていく。いつまでたっても、冷めない。俺だけが、まだあの夜の熱に浮かされている。
「お前のせいなのに……」
怒っていた訳じゃない。ただスペインが何も覚えていなかったから、何も覚えていない俺になれるまで、避けていただけ。今までの俺たちに戻れるまで、離れていようと思っていただけだった。もし俺がボロを出して、事実をスペインに気付かれたら、きっと罪悪感から避けられてしまうから。
結局、うまくいかなかった。さっき止まったばかりの涙が滲んできて、ジーンズに滴がぽたぽたと落ちる音が響く。
「なあ……わからんよ、ロマーノ……」
こつんと額がぶつかり、スペインが俺の頭を撫でた。宥めるような優しさを持ったその手つきに、涙が溢れて止まらなくなった。鼻を啜りながら涙を拭う。本当のことを言えばこの手に二度と触れられないかもしれないという恐怖は、どんどん大きくなっていく。
「言えねえよ……」
「なんでなん?」
「お前を……失いたくない……」
嗚咽を漏らしながら震えた声で言うと、スペインは驚いたように、一瞬息を止めた。
「どういうこと?俺を失うって何?」
戸惑った様子でスペインがそう問いかけてくる。けれど答えらえるはずもなく、しばらく涙を必死に拭っていた。すると頭を撫でていた手が離れ、スペインの手が俺の濡れた頬に添えられる。
「ロマーノ。顔見せて……お願いや」
本当はそんな願い突っぱねるところだが、スペインの声に従うように、ゆっくり顔を上げた。無理矢理顔を上げさせられた訳じゃない。頬に添えられた手があたたかくて、胸の内にある恐怖が薄れる気がして、スペインの顔が見たくなった。
「あ〜あ……顔ぐしゃぐしゃやん」
笑いながら、スペインは服の袖で俺の涙と鼻水を躊躇うことなく拭った。汚れることなんて厭わないような態度に、せっかく拭われたばかりだというのに、また涙が溢れる。それにスペインはただ苦笑を浮かべているだけだった。
「お前がなんでそんな不安がってるんかわからへんけど、俺はずっとお前のそばにおるで。どこにも行ったりせえへんよ」
こちらを安心させるような笑みを浮かべながら、スペインは俺の頬を撫でた。土いじりや内職で何度も手が荒れ、硬くなった指先が肌を掠めるたび、もう全て投げ出したいと思ってしまう。何もかもぶちまけて、楽になってしまいたくなる。スペインの言葉やぬくもりには、そうさせる安心感があった。
「……ほんとか?」
「ほんまに」
頷くスペインを疑うように、目を細めて見つめる。
「俺が犯罪者でも?」
「うん」
「お前が犯罪者でも?」
「う……ん?まあ、うん」
少しだけ訝し気な様子を見せながらも、スペインは頷いた。それでも俺は念を押す様に、もう一度口を開く。
「絶対に?」
「絶対に」
真っ直ぐに俺を見つめながら、スペインは深く頷いて見せた。ただ適当に返事をしているだけのようにも感じるが、これだけ確認したのだから、その先にどんな事実が待っていようと、スペインは俺から離れないはずだ。それを確信して、スペインの膝から飛び降りた。
「ロマーノ?」
不思議そうに呼ぶ声がしたが、振り返らず寝室へ向かう。ローマの家を飛び出した時、荷物を詰めてきたバッグを探ると、それはすぐに見つかった。それを胸の前で握りしめながら、またリビングに戻る。スペインはソファに座ったまま、不思議そうに俺を目で追っていた。
スペインの前まで戻って、手に持っていたものをスペインへ放った。スペインは不思議そうにしつつ、投げられた物を軽々受け止め、それをまじまじと見つめた後、はっと目を見開いて俺を見上げた。
「これ……」
「それ、お前のバッグから出てきた」
「え?」
スペインが今手にしているものは、間違いがあった夜、スペインがバッグから取り出したローションのボトルだった。
「どういう……?」
スペインは俺とボトルを交互に見て、意味がわからないといった様子で首を傾げている。どう言うか少し迷っていたが、しばらくして口を開いた。
「あの日……あの会議の日、本当は俺……自分の部屋になんか帰ってなかったんだ」
「え?」
「朝までお前の部屋にいた…………裸で」
「え」
困惑した様子のスペインは、俺の顔からボトルにゆっくりと視線を下げ、半分以下になっているローションを目の当たりにし、やっと何かを察したらしい。急にさあっと顔を真っ青にしたスペインは、もう一度「え?」と声を漏らしてから、俺を見上げた。いつも陽気なスペインが、大事な宝物を目の前で壊された子供のような顔をしているのが見ていられなくて、さっと目を逸らしてしまう。
「お前は何も覚えてないと思うから、信じられないかもしれねえけど……俺の妄想じゃなきゃ、俺たち……」
その先はとてもじゃないが、口に出来なかった。気まずそうに口を閉ざした俺を見たせいか、スペインはひっと音を立てて息を詰まらせている。
「熱、出たのって、もしかして……」
「わかんねえ。色々痛かったから、そのせいかもしんねえけど……」
ホテルから帰ったその日、風邪を引いた訳でもないのに高熱が出た。原因なんて結局今もわかっていないが、体の節々や尻が痛かったので、体を酷使しすぎて熱が出たのかもしれない。自身のひ弱さに涙が出そうだ。
「ごめん!」
突然立ち上がったスペインがそう叫んだ。あまりの勢いに、逸らしていた顔を戻すと、相変わらず青い顔をしたスペインが必死の形相で俺を見ていた。その細められた緑の目に、後悔や懺悔の色が滲んでいることに気が付いて、そっと目を伏せる。
「ロマーノ、ほんまに、俺……」
続く謝罪の言葉を聞きたくなくて、耳を塞ぎたくなった。俺が仮に逆の立場になったら、同じように必死になって謝っているだろうから、そういう行動を否定するつもりはない。実際、忘れられて腹が立っていたから、それに関しては日本流の最大級の謝罪である土下座までさせたいぐらいの気持ちはある。
でも、行為について謝ってほしかった訳じゃなかった。突っ込まれたのは俺だし、熱も出たし、忘れられてて最悪ではあったけど、押し倒されたその時、殴り倒そうと思ったら出来たのだ。股間を蹴飛ばして逃げ出すことだって、きっと出来たはずだった。本当に嫌だったなら、適当に手を伸ばして空になったワインボトルで頭を殴って気絶させることだって。
しなかった。俺はそのどれをも選ばなくて、酔って現実と夢の境が曖昧になっているスペインに腕を伸ばした。尻を濡らされて意識が戻った後も、押さえつけられたのだと言い訳をして、本気で逃げることなんてしなかった。それを証拠に、俺の手足に押さえつけられたような痕なんてひとつもなかったのだから。
「ほんまに、ごめん……なんてことを……」
強姦でもなんでもない、その行為にただ謝罪を続けるスペインの言葉に、涙が溢れた。
言える訳がなかった。子分であるはずの俺を犯したその罪悪感で、スペインが去ってしまうのが怖かった。そして途中で意識がハッキリと戻ったのに、それでも目の前の欲を優先して、スペインを正気に戻さなかった自分の浅はかで、惨めで、ちっぽけな想いを知られたくなかった。
「ふ、ぅ……」
「ロマーノ……ほんまに、ごめん。ほんまに……」
俺が泣いていることに気が付いたのか、スペインはボトルを床に落として、恐る恐るといった様子で俺を抱きしめた。昔から俺が泣いていると今のように抱きしめてくる。子ども扱いされていると腹立たしく思う気持ちもあったが、今は素直にその腕に体を預けて目を閉じた。スペインの服が濡れることも気にせず、肩に顔をすり寄せる。するとスペインが俺の頭を優しく撫でてきた。
「ごめんなあ。そりゃあ撃ち殺したくもなるわな……」
そう言いつつ、スペインはそっと俺から体を離した。少しだけ涙が収まった俺の顔を見て、苦笑を浮かべながら、スペインはまだ睫毛の先に滲んでいる涙を指で拭った。
されるがままになっている俺の両肩に、スペインが手を置いた。真っ直ぐ向き合う形になって、改めてスペインの顔を見上げると、さっきより顔色が良くなっている。むしろ少し頬が赤いぐらいだった。
「あのな……その、俺は……えーっと……」
「……なんだよ」
目をきょろきょろとさせながら落ち着かない様子で、スペインは必死に言葉を探しているようだった。顔を顰めつつ首を傾げると、スペインは俺の顔をじっと見つめてきた。やっと視線がかち合って、しばらく見つめあった後、スペインは意を決したような様子で、口を開いた。
「その、ロマーノは……避けとったぐらいやし、もう俺の顔も見たくないと思うけど……その……」
珍しく歯切れの悪い様子で話すスペインの言葉を根気よく待った。俺の中に存在している地雷を踏まないように慎重になっている姿は、少しだけ滑稽だった。
「俺とのこと、なかったことにしやんといて!」
突然そう大きな声を上げたスペインに驚いて、目を瞠った。唖然として固まっている俺を、じいっと見つめるスペインの目は、嘘や酔狂で言っている訳ではなく、真剣に言っているのだと伝えてくる。
「……は?」
てっきり「ロマーノが嫌なら二度と顔見せへんから」と言って、この部屋を出て行くのかと思っていたが、スペインにその様子はない。驚き固まっている俺に、追い打ちをかける様に、またスペインは口を開いた。
「もう思い出したくもないやろうけど、このままお互いなかったことにしてっていうのは、嫌やねん。せやから……チャンス!チャンス頂戴!」
「チャ、チャンス……?」
一体何の話をしているのかわからなくなって、首を傾げた。スペインは興奮すると早口で捲し立てる癖があるので、今もほとんど何を言っているのか理解出来ない。混乱の渦に陥っている俺に、スペインは「せや!」と大きく頷いてみせた。
「ロマーノにとったら嫌な思い出やと思うけど、良い思い出に変えれるようがんばるから……」
ふいに言葉を止めたスペインは、じっと俺を見つめた後、眉を下げて目を細めた。懇願するようなその様子に、なんと言えばいいかわからず、口が開いたまま結局何も言えなかった。
「俺とのこと、忘れんとって……」
「お前……」
どうしてスペインがそこまで必死な様子で、あの夜のことを俺に覚えていてほしいと思うのか、わからない。あまりにも悲痛な表情を見せるスペインの頬に両手を伸ばし、頬を包んだ。指先で少し頬を撫でた後、少ない肉をなんとか掴んで、思い切り横に引っ張りあげる。
「……だろうが忘れてんのは!」
「いひゃいひょまーの……ひゃめへ〜」
忘れてる本人から忘れないでくれなんて烏滸がましいお願いをされるとは思ってもみなかった。あまりに腹が立ったので、引っ張っている頬を上下に動かしてさらに伸ばしていると、肩にあったスペインの手が離れ、何故か俺の頬をつままれた。同じように俺の頬を引っ張る気配を感じ、慌ててその手を振り払うために、スペインの頬から指を離す。腕を払うと、あっさりスペインの手は頬から離れ、スペインは涙目になりながら引っ張られた部分を指で撫でていた。
「痛いわ〜本気で引っ張ったやろ、ロマーノ」
「うるっせ!さっきから意味わかんねえことばっか言うお前が悪いんだろうが!」
睨みつけると、スペインは頬を撫でながら惚けた顔をして俺を見た。何を言っているんだと言いたげな様子に、イラっとして眉間の皺が深くなる。
「チャンスってなんだよ。俺はてっきり、お前なら罪悪感がとか言って、俺の前から消えると思ってた」
「き、消えるやなんて……そんな無責任なこと言わへんよ」
そう言いつつ、スペインは俺の手を引いて、ソファへ座る様に促した。ずっと立ちっぱなしでいる訳にもいかず、素直に従ってソファに腰を下ろすと、スペインも隣に腰を据えた。けれど隣に座っているというのに、スペインの体は完全にこちらに向いていて、じいっと俺の顔を見つめている。
「そりゃあ罪悪感はあるで。酔った勢いでお前に手出すとか、ほんま……は〜〜〜ほんまごめんなあ……」
深いため息をついて、情けない声を出しながらスペインは謝罪の言葉を口にする。もう数えきれないほど謝られているが、酔った勢いでセックスしてしまったことに関しては、そもそも怒ってもいないので謝られても反応に困る。
別にもういいと許してしまうべきかもしれないが、もういいと思っていないのでそれは出来なかった。何と答えようか迷っていると、真剣な表情になったスペインが、熱い手で俺の手を掴んできた。
「……でもな、俺はいつかお前にそうしたいと思っててん」
何事だと思っていると、スペインは信じられない言葉を口にした。目と口を開いて数秒固まったまま、何度か頭の中で今の話の流れを繰り返す。
「酔った勢いで俺を……?」
顔を青くしながらソファの上を後ずさる俺に気付き、スペインは慌てて掴んでいる俺の手を引いた。
「あっ、ちゃう!酔って強姦したかったんとちゃうねん!普通にお前とエッチしたかってん!」
慌てた様子で口にしたスペインの言葉に、またしても驚愕して目を見開いた。てっきり泥酔している相手を襲う性癖でも持っているのかと驚いたが、それが違ったのだとしても、さらに続いたその言葉に驚かされた。
「お、俺と……?なんでだ?」
「お前が世界で一番好きやからや」
「は?」
ほぼひとり言を呟いたようなものだったが、スペインは聞き逃さず拾っており、すかさず愛の告白らしきものを言葉にした。相変わらず真剣な面持ちで、頬が赤くなっていることを思うと、冗談で言っているようには思えない。握られている熱い手から熱が移る様に、俺の顔も赤くなっていくのが止められなかった。
「酒の勢いでってほんま情けないけど……俺はお前とそういう仲になれたのは、不謹慎やけど嬉しい」
追い打ちをかける様にそんなことを口にするスペインに、開いた口が塞がらない。スペインが謝り続けているのは、恐らく酒の勢いで無理矢理セックスしてしまったと思っているからのようだ。求めていたのが自分だけではなかったというその事実が、嬉しかった。
「いつから、俺のこと……」
恐る恐る口にすると、スペインは一度首を捻って考える素振りをした後、すぐまたこちらに顔を戻した。
「何年も前からやから、ハッキリとは……でもお前が独立した辺りかなあ」
「そ、そんな前から!?」
「恋人になりたいなあって思ったのはもうちょっと後やけど、お前のことはずっと考えとったよ」
そんなに前からスペインが俺に対して、恋愛感情を持っていたのは知らなかった。今までそんな素振りを全く感じなかったし、昔から俺に接する態度と何も変化がなかったので、スペインが俺のことをそういう風に見ることは一生ないのだと思っていたぐらいだ。
ずっと好きだったと言われても、今までの態度を思うといまいち信じられない。一等大事にされて甘やかされていた自覚はあるが、子分に対するそれと同じだとも思う。しかし思い返せば、泥酔していたくせに、スペインは行為の最中ずっと俺の名前を呼んでいた。他の誰かと間違っていたなら、俺の名前を何度も呼ぶはずもない。
「お前、本当に……」
ずっと求められていたのかもしれない。あの夜を思い返すと、そう感じる。愚直に名前を呼んで体を愛でるその様は、百年単位で内に留めていた気持ちが、溢れたものだとしたら。そう考えると、更に体の熱は上がった。
「嘘ちゃうで!もしかしたらいつか付き合えて、触れる日がくるかもしれへんと思って、ずっと鞄にローション入れとったぐらいやねんから……!」
「そんな理由でローション持ってたのか……」
先程から衝撃の告白の連続で、もう驚くことにも疲れた。恋人の為にローションを持ち歩いているのかと思っていたが、まさか付き合ってすらいない俺にいつか使えるように、ずっと常備しているなんて。努力の方向性を間違えている。
ずっと持っていたということは、二人で出かけた時も、飯を食いに行った時も、はたまた俺が女の子をナンパしていた時ですら、この男の鞄にはいつか俺に使いたいが為にローションを入れてたということになる。
「……イカれてるな」
「い、いやあ……いざって時にないのは困るやろ?」
「知るかそんなこと」
実際はそのローションを使用したので身を持って知っているのだが、なんだかどっと疲れてしまって、それどころではない。そもそもあの時、酔っていたわりには躊躇なくバッグからボトルを取り出していたが、本当に意識はなかったのだろうか。
「お前、あの時実は素面だったとかねえよな」
疑うような目を向けると、スペインは慌てた様子で首を横に振った。
「ないわ!だってほんまに何も覚えてないねんもん」
弁解するように言うスペインに、改めて落胆する。俺だって長く生きているので、その間に飲みすぎて一夜の記憶を全て飛ばす体験をしたことがあるので、嘘を言っているとは思えない。けれど少しでも記憶が残ってくれていれば、そうも思ってしまう。俺しか覚えていない行為なんて、虚しいものだ。酔った勢いの行為に、本物を求めている訳でもないのだが。
そんなこちらの気持ちを察知したのか、スペインは掴んでいる俺の手を引き、意識を向かせようとした。顔をスペインに向けると、申し訳なさそうに眉を下げながらも、安心させるような笑みを浮かべている。
「こんな形で傷つけてもうて、ほんまにごめん。せやけど、お前を好きな気持ちは嘘じゃないねん。それだけは信じてほしい」
真摯に言葉を募るスペインの気持ちが、ただ嬉しかった。責任感だけでこんな高等な嘘が付ける男ではないはずで、そんな疑いはもちろんない。スペインから好きだと言われて、喜ばないはずがなかった。
だからこそ、覚えていないことがただ寂しかった。どうしようもないことに駄々をこねるつもりはないけれど、文句ぐらい言いたい。目を閉じて、俺の手を掴んでいるスペインの手に、額をぶつけた。
「そう思うなら忘れるなよ……バカ野郎」
「せやんなあ。ごめんな」
ここで仕方ないだろと言い返さないところが、スペインの良いところだと思う。俺のことが好きなのだと言うのなら、もう許してやってもいいのかもしれない。不遜なことを思いながら顔を上げると、意外にも真剣な顔つきのスペインがいて、ドキリと胸が跳ねた。
「ロマーノ」
真剣な面持ちと同じぐらい、硬い声で名前を呼ばれさらに心臓の動きが早まる。よくわからない空気に体の緊張が高まっていると、いつのまにか掴まれていた手が自由になっており、スペインの手が俺の肩に触れた。ただ触れられただけなのに、緊張していた体は、びくりと大袈裟に肩を跳ねさせた。
何をされるのだろうとドキドキしていたが、肩に触れた手はただ触れただけで、すぐ離れていってしまった。不思議に思って改めてスペインの顔を見ると、さっきまでの真剣な表情は崩れ、スペインはどこか悲しそうに笑っていた。
「……俺のこと、怖い?」
なんとか笑顔を保っているスペインの目が、目尻を下げてとても悲し気に細められている。びくついた俺を見て、怖がられていると勘違いさせてしまったのだろう。何があっても大体へらへらと笑っている男が、こんなに簡単に傷つくのだと知った。そういえばまだ、スペインは俺のことを酔った勢いで強姦したと思っているのだということを、忘れていた。
スペインはソファに手を付いて、ずり下がりながら少し俺から体を離した。この男はうっかり寝てしまった程度では離れていかないが、俺が怖がっていると思うと離れてしまうらしい。
まだ離れようとしているスペインに手を伸ばし、服の襟ぐりを掴んだ。驚いた様子で動きを止めたスペインをそのままぐっとこちらに引き寄せ、俺もスペインに顔を近付ける。鼻がぶつかって、視界がぶれるほどの近さまで近付いたところで、そのまま思い切り頭突きをした。
「……いっ」
ごつん、と硬いもの同士がぶつかる音の後すぐ、目の前に火花が散る。視界が明暗する中、スペインが頭突きの勢いで後ろに倒れていくのが見えた。
「だぁぁぁあああ!」
ソファに寝転がり、額を抑えながらのたうち回るスペインに舌打ちする。自分からしたが、当然こちらにも痛みはある。ズキズキと痛みを訴える額を摩りつつ、寝転がっているスペインの上に跨った。今度は両手で胸倉を掴み、痛みで涙を溜めながら目閉じているスペインの体を揺さぶる。
「ふっざけんなよスペインこの野郎!」
「なんやのもうー!」
「お前なんか怖いわけあるか!ヴァッファンクーロ!」
驚いたように目を見開いたスペインが、額に置いていた手をどけて、やっとこちらを見た。それを確認してから、体を揺さぶるのを止める。
「この俺が酔ってる程度で、男に抱かれるって、本気でそう思うのか!?」
更に大きく目を見開いたスペインは、「へ?」と間抜けな声を上げた。わかっていなさそうな声に苛立って、大きく舌打ちする。
「酔ってるだけであんなこと……させるわけないだろ!お前以外に!」
「それって……」
「なんでそんなこともわかんねえんだお前はっ」
そこまで一気に捲し立てたせいで、息が乱れた。はあはあと息をする俺の腕を、宥める様にスペインの手が撫でる。そんなスペインはさっきまでとは違い、嬉しそうに笑っていた。怒鳴られているというのに、まるでそんなことが嬉しいとでもいうかのように。
「ロマーノ、ごめんな。察し悪くて……」
「謝るな!お前のそういうところが嫌いなんだよ!カッツォ!」
「うん、うん……」
頷きながらスペインは体を起こし、太ももの上に座り込んでいた俺の体を抱きしめた。片手はまるで抱え込むように頭を撫で、もう片方の手はぎゅうっと強く腰に回って抱きしめている。腕のその力強さと、触れるあたたかい手に、ほっと息をついた。約半年ずっとうろうろとしていた気持ちが、やっと収まりたい場所に迎えられたような気がした。
そう思うと途端に嬉しくなって、俺も同じように目の前の体を抱きしめる。半年間も夢で見続けていた体に、やっと本当の意味で触れられた気がした。ずっと、ただこうして抱きしめられたかっただけだった。
「……ロマーノ」
しばらく抱きしめ合っていたが、スペインが名前を呼んで、そっと体を離そうとした。同じように腕の力をゆるめて少し体を離し、スペインの顔を見上げる。ただハグをしていただけなのに、それの割にはやけにスペインの顔が赤かった。
「なんだよ」
「その……前シてもうた時って、キスしたん?」
「そりゃあ……」
今更何言ってるんだと言おうとして、思い出す。そういえばスペインはすべて忘れているのだった。だからセックスをしてしまったという話を聞いただけでは、キスまでしているのか覚えていないし、その時の手順なんてさっぱりなのだ。勢いだけでしてしまって、キスすらしていない可能性だって当然あり得る。
「それなら……俺もしてええ?」
赤くなりながらも律儀にそんなことを聞いてくるスペインに、思い切り顔を歪めた。
「“も”って……前も今もお前だろうが」
「せやけどほんまに何も覚えてないねんもん!やから俺……!」
ふいに、不自然に言葉を途切れさせたスペインは、赤い顔をそっと俺から背けた。あからさまなその態度に、片眉を跳ねさせて目を眇める。
「だから俺、なんだよ」
「……なんかお前が、知らんヤツに手出されたみたいでムカつく」
ぶすっと唇を尖らせながら、拗ねているアピールをしてくるスペインに、今度こそ怒りが爆発する。思い切り目の前の頭を叩くと、スペインが痛いと叫んで涙目になった。
「何すんねん!」
「こっちの台詞だボケ!前もお前だっつってんだろハゲ!」
「わかっとるよぉ。でもほんまに覚えてないねんもん」
「大体最初は嬉しいっつってたくせに、何で急にそれが怒りに変わってんだよ!お前の情緒どうなってんだ!ついていけねーわマジで!」
「いやあ、最初は嬉しかってんけど、冷静に考えたらこう、じわじわと……」
「知るか!」
付き合いきれない。少しでも怒りを鎮める様に、深く息を吐いて肩から力を抜いた。スペインの鈍感さと身勝手さに怒ったって、仕方がないしキリがない。自分の精神をすり減らすだけで、何も得になることなどないのだから。
「それで、どうなん?」
ずいっと顔を近付けてきたスペインは、爛々とした目でこちらを見ている。その勢いに押されながらも、意味が分からず首を傾げた。
「どうって?」
「キスしてええの?」
すっかり言われていた内容を忘れていた俺は、やっと少し前にスペインが言っていた言葉を思い出した。顔を赤くしているスペインにつられるように俺の顔も赤くなりつつ、ひくひくと口角が痙攣する。
「い、今更……そんなこと……」
「もう無理矢理なんてしたないねん」
まだ無理矢理行為に及んだと思ってるらしいスペインに、顔を歪める。さっきの俺の話をきちんと聞いていたのかと問いただしたくなるが、言葉で説明するより、行動する方が早い気がした。
じっとスペインを見つめると、更に顔を赤くしてスペインは俺から目を逸らした。あからさまに照れている様子は珍しく、こちらもむず痒く思いながらも、そっと両手を伸ばしてスペインの頬を包んだ。そのままスペインの顔を引き寄せるのと同時に、逸らされていたスペインの目がこちらに向いたが、気にせず目を閉じてキスをする。
一瞬触れるだけ。子供がしそうなキスでしかなかったが、それでもあの夜ぶりに触れた唇は、間違いなく待ち望んでいたそれだった。すぐ顔を離し、改めてスペインの顔を見ると、スペインは驚いた様子で固まっていた。されることなんて全く想定していなかったのだろうと思うと、なんとなく悔しい気持ちと、してやったりという気持ちがある。
「……俺はいちいちお前に確認したりしねえからな」
唇を尖らせて、不機嫌ですという顔をしながらそう言い切る。したい時にする。触りたい時に触るし、会いたい時は呼び出すし、甘えたい時は甘えて、俺に甘えることも許してやってもいい。そういうことが許される関係に、もうなっているはずだ。
じいっと睨みつけていると、急にスペインが今にも泣きだしそうな顔になった。驚いて、頬を包んでいた手を離し、とにかく抱きしめようと伸ばした手が掴まれる。そのままソファの上に押し倒され、何が起こっているのかわからないうちに、唇を塞がれた。
押し付けられた唇が、キスを味わうように動いた後、離れていく。さっき俺がしたのより少し長かったキスをしたスペインは、顔を離してから俺の手も離し、俺の顔の横に両手をつく。まるで囲い込まれているようで、視界はスペインの顔以外見えなかった。
「俺も、そうする」
目を細めて嬉しそうに笑っているスペインは、満足気だった。こちらが何か言う前に、スペインはまたキスをする。たまに口が離れたタイミングで、スペインは「好き」と囁いた。
「好きや、ロマーノ……好き……」
言われなくても、これだけ優しくキスをされていれば伝わっているが、やめろとは言わなかった。そうして軽く触れるだけのキスを何度か繰り返した後、べろっと唇を舐められる。
「……口開けて、ロマーノ」
熱っぽい息を吐きながら、スペインの指が俺の濡れた唇を撫でた。顔を赤くして、もう我慢ならないといったように欲に目を濡らすその様は、あの夜に見せた顔と同じだった。
促されるままに唇を薄く開くと、待ってましたと言わんばかりに、スペインがキスをしてくる。舌と唾液を絡めながら、スペインの不埒な手は下へと延び、シャツの裾から手が入り込んでくる。止める隙もない。行き場のない俺の手は、ただソファにしがみ付いているだけだった。
「んっ、ぅ……」
スペインの手が、わき腹を撫でた。ただそれだけなのに、肌は粟立って、声が漏れる。背が震えていることに気付いているのか、そもそも気が付いていないのか、スペインの手は腹を撫でながら、胸元まで辿り着いた。指先が乳首を転がすと、ひっと喉が鳴る。そうしてやっと、スペインは口を離した。唾液が名残惜しさを残して、糸を引く。
「なあ……ひどいことなんて絶対にせんから、シてもええ?」
伺いを立てる様にこちらの顔を見るスペインの目は、それでも欲望を隠しきれておらず、ここでダメだと言って本当に引き下がってくれるのか怪しいところだった。
慣れないキスのせいで上がった息を整えるつつ、スペインの行動を振り返る。押し倒して、キスをして、キスをしながらわき腹を撫で、腹を通って胸を触った。それは酔っぱらっていた時のスペインと全く同じ動きだった。
そう思うとおかしくて、つい笑みが浮かんでしまう。スペインは急に笑った俺を不思議に思っているようで、訝し気な様子で首を傾げていた。そんなスペインに腕を伸ばし、うなじに手を回して、スペインの髪に指を絡める。
「……結局聞いてるじゃねえか、バカ」
そのまま、スペインの顔を引き寄せてキスを強請る。酔っていたあの夜ですら、大事に扱われていたというのなら、もう今の俺に抵抗する術なんてひとつもなかった。



首筋に唇を押し当てられ、産毛を揺らす様に息を吹きかけられると、くすぐったさに手が揺れた。マグカップの中に入っていたコーヒーが半分以下になっていたので、何とか中身は零れなかった。それにホッとしつつ、事の原因である後ろの男に向かって、聞こえる様に舌打ちをする。
「やめろっつってんだろハゲ」
「嫌や〜」
「嫌じゃねえ!」
肩越しに振り返って睨みつけると、後ろから俺に抱きついているスペインは、嬉しそうに笑ってキスをしてきた。すぐ離れた顔を睨みつけるが、たったそれだけで自分の顔が赤くなっていることに気が付いて、更に腹立たしい。
顔を見られるのも嫌で、また正面に戻って誤魔化すようにコーヒーを口にした。そうするとスペインがまた首筋にキスをしてくる。こそばゆいやら恥ずかしいやら鬱陶しいやら、色んな感情が渦巻いて、顔どころか体中が赤くなっていく。
「な〜こっち向いてや。ロマーノ〜」
この浮かれまくってる男がわりと本気で鬱陶しい。昔から俺のことを恋愛感情として好きだったと聞かされた時は、嬉しかったからそのまま何も言わなかったが、少しだけ疑う気持ちもあったのだ。責任感からそんなこと言ってるだけなのではないのか、と。しかし今のこの浮かれようを思うと、たぶん本当にずっと俺のことが好きだったのだろう。
「かわええ顔見せてーや。な〜な〜な〜〜〜」
「うるっっっせ!お前マジでいい加減にしろよ!」
マグカップをテーブルに叩きつけ、体ごと後ろに振り返って怒鳴りつける。しかしスペインは気にした様子もなく、満面の笑みで俺を迎え入れ、そのまま正面から抱きしめられた。そして今度は頬にキスの嵐である。何をやっても今のスペインなら喜んでしまうのだろう。疲れたようにため息をついた。
耳のそばでリップ音を聞きつつ、床に転がってる空のボトルを見る。ついにローションが空になってしまうような行為をソファでして、まだそう時間は経っていない。半年ぶりだったせいで当然痛みもあったし疲れていたが、以前より意識がしっかりとあったスペインがそれなりに配慮してくれたおかげで、以前ほど体の状態はひどくなかった。
それでも体は怠いし、腰も尻も痛いのでゆっくりしたいのだが、スペインが全くゆっくりさせてくれない。
「はー……ほんま幸せや……」
散々キスしまくったスペインは、ゆっくり体を離して改めて俺の顔を見た。目元も口元もゆるみきっていてだらしないのだが、その顔を見ていると本当に幸せだと思っているんだろうなと感じる。
「今日はお前と仲直りしやなあかん!って意気込んできただけで、告白するつもりなんてなかったから……なんか今、ほんまに夢みたいやわあ……」
「夢でたまるか、コンチクショーめ」
こっちは散々泣いて、スペインと疎遠になるかもしれないという恐怖もありつつ、なんとか全て曝け出してついでに体まで暴かれたのだ。腰と尻だって痛いのに、これが夢だっていうなら一か月ぐらい泣いて閉じこもってしまう。
そういう意味で言ったのだが、何を勘違いしたのかスペインが「ロマーノ!」と、嬉しそうに目を見開いてまた俺を抱きしめてきた。
「ロマーノも俺と恋人になれて嬉しいって思ってくれてるんやな……!」
「ち、ちが……!」
「照れんでええのに!も〜ロマーノは照れ屋さんやなあ」
「うっぜ〜〜〜〜〜」
ぎゅうぎゅうと抱きしめて頬ずりをしてくるスペインがいい加減鬱陶しすぎる。そろそろ殴って止めようと思っていたところで、テーブルの上にあった俺の携帯が振動した。見ると、フランスからメッセージが届いている。それに気づいて、スペインに抱きしめられつつ腕を伸ばし、携帯を手に取った。
「え、フランス?」
勝手に画面を見ていたらしいスペインが、素っ頓狂な声を上げた。スペインが驚くのも無理はない。基本的に俺が仲良くしている国は少ないし、特にフランスはセクハラがひどいので自分から関りを持つことはなかった。そんな俺がフランスから届いたメッセージを普通に見ようとしていることに驚いているようだ。
「フランスとやり取りするん?っていうかなんてきたん?」
纏わりついてしつこく話しかけてくるスペインを無視しつつ、フランスから届いたメッセージを確認する。内容は了承の言葉に添えられ、一本の動画データが送られてきていた。それににやりと口角を上げ、ひとりほくそ笑む。
「……スペイン」
「ん?なに?」
今まで散々フランスのことについて質問していたのをぴたりと止め、スペインは俺の顔を覗き込んできた。そんなスペインを鋭く睨みつける。
「俺は半年前、お前に全て忘れられていてとてつもなく悲しかった」
「え、あ、そ、そうやんな……ごめんな、ロマーノ」
「だから腹いせにフランスに頼んだ」
「……ん?何を?」
「裸フラメンコ」
「…………え?」
「お前が、裸で、フラメンコを、踊ってる、動画を、もらった」
わかりやすい様に区切って言葉を伝えると、途端にスペインの顔からさあっと血の気が引いていく。ひっと小さく喉が鳴った音を聞き逃さなかった。さっきまで浮かれていたスペインが地獄を見たような顔に変化したことに、ふっと笑みを浮かべる。
「今からこれを見る」
「そ、そんな……嫌や、待って、そんなん見ても……」
「むしろお前と一緒に見る」
「嫌やー!せめて一人で……いやそもそも見やんといて!」
泣きそうになりながら首を横に振り続けているスペインに、再生ボタンを押せばすぐに動画が始まる画面を突き付けた。
「いいか、もしお前が浮気でもしようもんなら、この動画を世界会議で流してやるからな。覚悟しろよコノヤロー」
「女の子もおるのにそれはどうやろ……」
「……野郎全員にデータ送りつけてやる」
冷静に考えて、ベルギーにスペインの全裸を見せることが頭を過り、想像だけでも許せなかった。路線変更した内容を伝えると、何故かスペインは照れたように笑うだけで、慌てる様子もない。
「浮気なんてせんのに……俺はロマーノ一筋やから、心配せんでもええよ」
まるでスペインのことが大好きで心配ですと言っているように聞こえたかもしれない。むしろ照れているスペインを見て、自分でもそうとしか感じられなくなってしまった。最初はスペインの弱みを握って、慌てる姿を見て笑ってやろうと思っていたが、これではまるで浮気しないでほしいと俺が強請っているようだ。
顔が真っ赤になったのを見られなくなくて、スペインに背を向けて、ソファ代わりのように体を預けた。
「ど、どうだかな。酔ってたら全部忘れちまうぐらいだし、覚えてないうちに一回や二回ぐらい……」
「せえへんよ」
そう言ってぎゅうっとスペインが後ろから抱きしめてきた。耳のすぐそばで声がして、ぶるっと背が震える。
「俺はお前だけやで、ほんまに」
後ろから顔を覗き込んでくる気配がして、そちらに顔を向けた。明るい緑の目には、少し困ったように眉を下げながら顔を真っ赤にしている俺が移り込んでいる。どうしようもなく愛に参っている自分の顔など、見ていられなかった。
「愛しとるよ、ロマーノ」
「…………俺も」
目を閉じて、どちらからともなくキスをする。やっと、あの夜が明けた気がした。



「それはそれとして再生」
「あああああああ待ったってぇ……!」
わかっていたことだったが、動画の内容はひどかった。目を塞ぎたくなるほどだったが、なんとか最後まで見終わっても、残ったのは見たことに対する後悔だけ。多分もう二度と見ない。
「……お前マジで引くわ」
「勝手に見といてそんなん……」