ミッシング・ユニバース 02

この世界には、男女の他にもうひとつの性別が存在している。それに人類が気付いたのは、世界を巻き込んだ大戦が終戦した数十年後のことで、医療や科学が発展した二十一世紀代の今日においても、不明瞭な部分が多いものであった。それをDom/Sub性という。
その性別は人間の誰しもが持っているものではなく、生まれつき持っているものもいれば、生涯その性を知らずに終わるものもいる。また生まれ落ちたその瞬間からその性の特徴が現れる訳ではなく、発現する年齢や時期は個々人によって違う。よってその性はマイノリティであり、一時はひどく差別を受けていたこともあったが、ここ近年では多くの国がその性を認め、少しずつ差別も減ってきている。
おそらくその性は何百年も前から存在していたと推測されている。過去の技術ではその性に気づくことが出来なかっただけで、過去に起こった事件における一部には、Dom/Sub性が関わっていたことだろうと、専門関係者は発言している。真実はわからない。
「Subの性が発現しています」
人間の医師にそう告げられたロマーノは、その事実をすぐ弟であるヴェネチアーノに共有した。ここしばらくの体調不良の原因がその性のせいであり、ずっと隠し続けることが不可能だと察したからだ。
ロマーノはひどく混乱していたが、それを上回るヴェネチアーノの困惑具合に、彼は少しだけ冷静になった。戸惑うのもそのはずで、今までこの性が発現したのは人間のみで、国体では例がなかった。誰もその事実を周りに知らせていないだけ、ということもある。
Dom/SubとはDomがSubをコントロールしたい、支配したいと思い、逆にSubはDomにコントロールされたい、支配されたいと思ってしまう。この性の間にはそのような力関係が、本能的に生まれる。それは国体にとって、あまりよくない現象であった。
国を支配されてしまえば、己の存在が消えてしまうばかりか、国が滅んでしまう。故にDom/Sub性が発現しても、それを公に出来ない国体は多い。
ロマーノ自身、ヴェネチアーノと共に暮らしておらず、最近の体調不良を知られてさえいなければ、口にはしなかった。ヴェネチアーノはロマーノにとって、一番の天敵だ。彼がその気になれば、南イタリアを支配してイタリアという国体を一つにすることは、容易なことである。
しかしヴェネチアーノはロマーノが消滅することに脅えており、Sub性を知らせた時も、狼狽えてロマーノの体を気遣うばかりで、支配してやろうなどと思いつきもしていなかった。ロマーノは弟のその能天気なところが嫌いではあったが、憎めない部分だと思っている。
「じゃあ……最近兄ちゃんが体調悪かったのは、Sub性になったからってこと?」
「医者が言うには、そういうことらしい」
「そ、それって治らないの? 兄ちゃん、ずっと体調悪いままってこと?」
「いや、そういうことじゃねえ……」
狼狽えて泣き出してしまったヴェネチアーノを宥めるため、ロマーノは彼をひとまずソファに座らせた。いつもなら鬱陶しいと怒鳴っているところだが、それ以上にロマーノも動揺している。これから己がどうなるか、全く想像が出来ていない。
ヴェネチアーノにティッシュを押し付けた後、ロマーノは医師から聞かされたDom/Sub性のことについて、少しずつ説明していった。Dom/Sub性はマイノリティであり、ナイーブなことも多く、まだあまり世間に詳しく知られてはいない部分が多い。
今回ロマーノが体調不良になったのは、典型的なSubの特徴である。Subには誰かに支配されたい、構われたい、お仕置きされたいなど誰かに尽くされることを、本能的に望む性となる。しかしSubがしばらく放置され性が満たされずにいると、体調が崩れてしまうのだ。それはDomも同じで、しばらくSubに構えずにいると同じように体調が崩れる。つまりDomとSubは互いにパートナーを見つけなければならない。
「パートナー?」
涙を浮かべた目を開いて、ヴェネチアーノはロマーノの言葉を繰り返した。ロマーノは無言でその言葉に頷く。
「それってつまり、恋人ってこと?」
「……必ずしも恋人じゃないといけない訳じゃないらしい。ただ互いに信頼関係がある相手じゃないと、意味ないんだとよ」
「ヴェ……それって難しいね」
眉を下げて目を細めたヴェネチアーノに、ロマーノはため息で返した。その通りで、パートナーを見つけるのは難しい。少なくともロマーノにとっては。
医師が言うには、パートナーは必ずしも恋人である必要はなく、心が許せて互いにケガを負うような危険性がなければ、性は満たされるという。逆にDomとSubだからといって無理矢理性行為を行うようなことがあれば、そこに支配やお仕置きの行為があれど、Subの性は満たされない。あくまでSubが相手の行為を受け入れるかどうか、にかかっている。
誰でもいいわけではない。それは人見知りなロマーノには、難しいことであった。ましてやロマーノは人間ではなく、国である。一時的に人間のDomとパートナーになったとしても、彼らは必ずロマーノを置いて先に逝ってしまう。そのたびまた新しいパートナー見つけ、見送り、また新しい相手を……と、終わらない出会いと別れを繰り返すことに、ロマーノが耐えられるはずがない。
では、国体なら。国が滅びぬ限り、死ぬことがない体を持っている相手ならば、別れが訪れることはない。しかし問題なのは、他の国体にDom性がいるのかどうかだ。今のところ、国体でDom/Sub性が発現した話を、ロマーノもヴェネチアーノも聞いたことがない
「でもパートナーを見つけないと、兄ちゃんはずっと体調悪いままなんだよね?」
「……そうなるな」
「そんなの俺、やだよ……兄ちゃんずっと辛そうで、見てられない……」
そう言いながら抱きついてくるヴェネチアーノの腕を、ロマーノは振り払うことが出来なかった。相変わらず動揺していたこともあったし、実際身も心も疲れ切っていた。ここしばらくの体調不良により体力は削られており、そこにいきなりSub性だと告げられ、精神的にも参ってしまっていた。
「いや、一応どうにかなるみたいだぞ」
「え?そうなの?」
抱きついたままぱっと顔を上げたヴェネチアーノとロマーノは、近い距離で目が合う。ヴェネチアーノは気にしていないようだが、ロマーノは元来からの女好きで、いくら己の美しい顔立ちと似ているからといって、男である弟と顔が近いのは喜ばしいことではない。顔を歪め、ヴェネチアーノの顔を遠ざけた。自然と腹に回っていた腕も離れていく。
「薬があるとか?」
「違う……プロのDomがいるらしい」
「プロのDom?」
何それ、と首を傾げるヴェネチアーノから、ばつが悪くなってロマーノは目を逸らした。兄弟に言いたいことではないが、黙っていられることでもない。少し間が開いてから、ロマーノは渋々口を開いた。
「……俺みたいにパートナーがいないやつへの救済措置みたいなもんで、そういうSubの相手をすることで生計を立ててるDom、らしい」
ロマーノ自身、まだプロのDomに会ったことはなく、医師から伝えられたことなので確証はない。しかしきちんと国が認めた資格のある立派な仕事であり、そのプロのDomなら金さえ払えば、きちんとSubの性を満たしてくれる。
「明後日、医者の勧めでプロのDomと会うことになった」
「え? 展開早いね……」
「俺の体調が悪いのが原因だ。早急に手を打て、って言われた」
人間の医師なので、国体のことはわからないが、見るからに体調が悪いロマーノに医師は迷わずプロのDomを勧めた。きちんとしたパートナーは体調が改善してから探すことだと、抑制剤を渡して医師は言う。
受け取りながら、パートナーを作れる気がしないロマーノは一生、プロのDomと抑制剤の世話になる覚悟を、しなければならない気がしていた。
「一応抑制剤っていうの貰ったから、今日はそれ飲んで俺はもう寝るからな」
そう言いながら、ロマーノはソファから立ち上がって、自室へと向かった。背後からどうしようと、まだ狼狽えた様子のヴェネチアーノの視線を感じ、部屋に入る前にロマーノは足を止める。
「……上司には明日言う」
ドアノブに手をかけ、振り返ることなくロマーノはそう言った。その声は小さなものだったがきちんと聞こえていたらしく、ヴェネチアーノの力ない返事を聞いた後、ロマーノは部屋へと入った。
部屋に入った後、ドアに背を預けながらずるずると、その場に座り込んだ。後頭部をドアに預け、深く息を吐きだす。部屋は病院へ行く前と何も変わっていないのに、己だけが変わってしまった。その事実に、ロマーノは何故だか泣き出したい気持ちになった。こんな時、能天気なあの男の声が聞きたくなる。
そう思うと止まらなくなり、ロマーノの手はポケットに伸び、入っていた携帯電話を取り出した。液晶の画面をタップすると、暗い部屋の中で眩しい光がロマーノの顔を照らす。指は迷うことなく、着信履歴に多く出てくるスペインの名に触れた。しかししばらくそのまま固まっていたロマーノは、またため息をついて携帯の画面をオフにする。
「……かけてこいよ、ちくしょう」
スペインの声が聞きたいと思った。けれど今あの声を聞くと、ロマーノは泣きながら自分がSubであったことを話してしまいそうだと、思い留まったのだ。安心して、頼ってしまいたくなる。
膝を立てて顔を埋めながら、じわじわと溢れてくる涙を服に染み込ませ、なかったことにしたかった。自分はなんて弱いのだろうと思いながら。



新たな性が発現したことを上司に報告してみたものの、その反応は意外にあっさりしたものだった。それにイタリア兄弟たちが、逆に驚かされたぐらいだ。
Dom/Sub性は確かにマイノリティではあるが、人の間には結構な数で発現しており、それほど珍しいものでもない。彼らの上司は「国体にもあるのだなぁ」としみじみ頷いた後、性の情報を公開するかどうかの確認をした程度で、それ以上の追及をしなかった。何を言われるだろうかと緊張しながら職場に向かったロマーノたちは、完全な肩透かしを食った。
ひとまず情報は開示せず、必要に応じて対応することに決まった。上司はどちらでもいいといった態度であったし、Dom/Sub性とは一種の性癖にも寄るもので、そもそもあまり人に言いふらすものでもない。ロマーノが話したくないなら、それでいいのではないかという決定が下った。
性が発現したからこその危険などには己で気を付けることを約束して、ロマーノはヴェネチアーノより先に帰宅した。抑制剤を飲んで少しマシになったが、まだ体が本調子ではないので、仕事はまだ当分休みである。家に帰って体を休め、ご飯だけ作ってヴェネチアーノの帰りを待っていると、あっという間にロマーノの一日が終わった。
「……ほんとに一人で行くの?」
今にも玄関のドアを開こうと思っていたロマーノは、ぴたりと手を止めて、肩越しに後ろを振り返った。
「しつけーんだよ。いい加減にしろよなクソ弟」
その眼光は鋭く、睨みつけられたヴェネチアーノは恐怖からか、溜めていた涙をついに溢れさせて泣き始めた。
「ヴェ……だ、だってぇ……ほんとに大丈夫なの?」
脅えて泣いているヴェネチアーノだったが、しっかりロマーノの服の裾を掴んで、行かせないよう邪魔をしている。その姿を見て、いい加減ロマーノはうんざりした様子で、聞こえるように舌打ちをした。言葉にせずとも鬱陶しいという文句が、ヴェネチアーノの耳に届いた気がした。
「大丈夫だっつってんだろ」
「で、でも……全く見ず知らずのDomなんだよね? それって信用できるの?」
「だーかーらぁ!」
いい加減怒りがピークに達したのか、ロマーノは握りこぶしを作ってどんっと思い切り玄関の壁を殴った。音に驚いたヴェネチアーノは肩を跳ねさせて、掴んでいたロマーノの服から手を離してしまった。しかし目の前のロマーノは、強く殴りすぎたのか手を痛めたようで、手の甲を自らさすりながら目に涙を浮かべている。いつものロマーノの姿に、少しだけヴェネチアーノはほっと肩から力を抜いた。
「何回も言わせんなよ! 国の病院から紹介された、きちんとしたDomなんだよ! そこらへんの変態と会う訳じゃねーんだから、いい加減にしろよコノヤロー!」
朝からヴェネチアーノは一人で大丈夫なのか、本当に信頼できる相手なのか、自分も着いて行った方がいいのではないか、と準備をしているロマーノの後を付け回した。いい加減嫌気がさしたのかついにロマーノが怒ってしまい、これ以上言うと明日からしばらく口を利いてくれなくなることを、経験上わかっているヴェネチアーノは、口を閉じる他ない。
腕時計を確認したロマーノはさらに顔を顰め、今度こそ玄関のドアを開いた。いい加減家を出ないと、医師から指定された時間に間に合わなくなる。ロマーノは強くヴェネチアーノを睨みつけた。
「絶対に着いてくんなよ、バカ弟。もし着いてきたらマーマイトの刑に加えて、一生お前と同じベッドで寝ないからな」
「えー! そんなのあんまりだよ兄ちゃーん……!」
「カッツォ! ちゃんと鍵閉めろよ! じゃあな!」
その言葉だけを言い残して、ロマーノは家を出て行ってしまった。バタンと音を立てて閉まった家のドアを、兄の言いつけ通り鍵を閉めたヴェネチアーノは、まだ涙を目に浮かべながらため息をついた。
(スペイン兄ちゃん……)
ロマーノの体調が崩れて寝込む日々が続いていた時、怖くなったヴェネチアーノはかつて南イタリアの宗主国だったスペインに連絡を取った。ロマーノが怒ることは明らかだったが、内心喜んでいることをヴェネチアーノは知っている。ロマーノは心底、スペインを好いている。それこそ兄弟であるヴェネチアーノより、ずっと。
ヴェネチアーノは携帯電話を取り出し、スペインの連絡先を開いた。通話ボタンの上で指先がぴたりと止まる。本当は今すぐにでもスペインに電話して、事のあらましを全て話してしまいたい。以前、連絡を取った時と同じように、スペインをこの場に呼び出したかった。
『イタちゃん。もしまたロマーノの体調が悪なったら、教えてくれへん?』
『え? いいけど……』
『たぶん、ロマーノは自分から言うてくれへん気がすんねんよなあ……昔はすぐ言うてくれたんやけど』
スペインが帰る当日、こっそりそうヴェネチアーノに耳打ちしてきたスペインの、少し寂しそうな横顔を思い出す。食べきれなかったスペインの料理を冷蔵庫に移しているロマーノを見るスペインの瞳には、強い情愛を感じた。
ヴェネチアーノがその横顔に既視感を覚えたのは、人間の親がするそれによく似ていたからだと、後々気が付いた。国体がそんな表情を浮かべるのは稀だから違和感を覚えたが、スペインとロマーノの付き合いの長さを思うと、不思議なことではないのかもしれない。
(ごめんね、スペイン兄ちゃん……)
本当なら、今すぐにでもスペインをこの家に呼びたい。けれどロマーノはそれを望まないだろう。ロマーノがスペインに向ける感情には強い親愛がある。しかしそれだけではないんじゃないかと、確認したことはないが、ヴェネチアーノは勝手にそう思っている。いっそそうであればいいなという、願望に近いかもしれない。
ロマーノは危機が迫ると、すぐスペインに助けを求める。兄弟はよく似ていて、それはヴェネチアーノも同じだった。けれどロマーノは今の危機に、スペインを呼ぼうとはしない。Subであることと知られたくないのかもしれない。
スペインと約束した身として、本当はすぐにでも知らせたいと思っている。けれど知られたくないと思っている兄の気持ちを裏切ることが、ヴェネチアーノにはどうしても出来なかった。本当はスペインに会いたいのに、それを我慢している兄の気持ちを踏みにじることは、出来ない。なぜ教えてくれなかったとスペインに責められることになったとしても、それが怖いと思っていても、やはりヴェネチアーノには兄の気持ちが大事だ。
だからといってあの人見知りのロマーノが、今回のDomに会うことを喜んでいるとは思えない。ロマーノは付き合いの長い国体ですら、相手のことが好きでない限り、あまり会話をしようとしない。今回のことを望んでいるはずがなく、ロマーノはいっそどこか諦めの気持ちで今日に至ったのかもしれない。けれどDomに会わなければ、ロマーノはずっと体調を崩し続けてしまう。八方塞がりだ。
「……助けて、ドイツ」
兄のことを助けてほしい。スペインの顔を思い浮かべながら、ヴェネチアーノはそっと携帯電話のオフボタンを押した。



待ち合わせの場所は、紹介をする医師が働いている国立の病院だ。ロマーノがこの病院に来たのは検査などを含めて三回目だったので迷うことがなく、故に逃げることも出来なかった。
診察室で医師に紹介されたDomは若い男性で、ロマーノはなんとか表情には出さなかったが、内心とてもがっかりしていた。ロマーノはイタリア人の気質らしく女好きで、どうせなら女性が良いと思っていた。けれど贅沢を言える立場でもない。選り好みをして更に体調を悪化させた場合、ロマーノはしばらく入院することになると主治医から告げられている。
いくつか医師から説明を受け、契約書などにサインを済ませた後、ロマーノはつい今しがた会ったばかりのDomに連れられ、病院を出た。
「ひとまず、色々と確認事項があるので、カフェに向かいましょうか」
にこりと人のいい笑顔を浮かべたDomの男に、ロマーノは声なく頷いた。それを見て納得したように頷いたその男はロマーノの半歩前に立ち、歩き始める。ロマーノはその背を少し遅れて追い、先程言っていたカフェに連れられた。
中に入ると、男は迷いなく一般向けの席を指定した。ロマーノたちが通された席は、テーブルとイスがあるだけの至って普通の席だ。しかしそれは店の半分だけで、残りの半分はテーブルにひとつのイスがあるのみ。それはおひとり様用の席ではなく、Dom/Sub専用の席となっていた。
席に座った後、ロマーノはちらりと目だけでDom/Sub専用の席を見る。席はいくつか埋まっており、ひとりは優雅にイスに座っているが、もうひとりは地面に膝をついて座り込んでおり、イスに座っている人間から食べ物を与えられている。地べたに座っている方は言わずもがなSub性を持つもので、あれがSubの基本姿勢であるということを、つい最近ロマーノも知った。
こういった光景は決して珍しくない。近年になってようやく、Dom/Sub性に対応するカフェが増えてきているのだ。まだ見慣れていない人もいるが、この風景が当然になりつつあった。
ロマーノは今まで、まさか自分がなると思っていなかっただけに、Dom/Sub性に関心がなかった。なので街中で今のような姿を見かけても、特殊な人が増えたもんだと思ってすぐに忘れてしまっていたが、今目の前にしてみて、ますます己が本当にSub性であるのか疑わしく思えてきた。
どうにもSubは、Domを前にすると本能的に跪きたくなったり、支配されたくなったり、いじめられたいと思ってしまうものらしい。しかしロマーノは一度たりとて、そんなことを思ったことはない。ましてや痛いことは特に嫌いである。いじめられるのなんて、むしろ苦手だ。
Domの前に跪くあの姿勢は、Subにとっての基本姿勢となるKneel(ニール)だ。しかし今のロマーノにとって、目の前にいるDomの男に対して同じことがしたいかと問われると、迷いなくロマーノの答えはNoだった。
「あっちの席が気になりますか?」
対面しているDomがそう尋ねてきた。ロマーノは飛んでいた意識を戻し、目の前のDomを見る。目の前の男は若く、二十代に見える。ブラウンの髪にブラウンの瞳と平凡な色合いにも関わらず、彫りが深く鼻が高く見え、顎のラインもすっきりとしていて、間違いなくイケメンの部類だった。
ロマーノは正直、相手の容姿には全く期待していなかった。それは相手が男性であろうと、女性であろうと変わらない。美しいものは好きだし、それこそ美女を追いかけてしまうのもイタリア男の性である。長く生きている分、男も女もどちらも、とびきり美しい容姿の人間だっていくらか見てきた。
けれどどうせ、自分の心は動かない。それをロマーノはわかっている。百年単位で証明してしまっている。
だから相手がどんな容姿であろうと、ロマーノには関係なかった。美しいに越したことはないが、どうせ体調が回復すれば終わる関係だ。好みではなかったからといって、文句を垂れることもない。どうせ誰も、スペインにはなれないのだから。
「いや……まあ……」
煮え切らない返事をするロマーノに、Domの男はにこりと笑ってみせた。
「先程病院でも言いましたが、私はレオナルドといいます。これから、よろしくお願いします」
「ああ……よろしく」
医師に紹介された時、そういえば名前を告げられていた。ロマーノはそんなことすっかり忘れてしまっていて、今言われても全くぴんともこなかったが、ようやく名前が頭に入ってきた。名を馳せたかつての芸術家と同じ名前だけに、覚えやすい。
「それで、ロヴィーノさん」
レオナルドは、ロマーノに顔を近づけてきた。相手には己が国体であることは話しておらず、人名しか教えていない。いつもと違う呼ばれ方に違和感を覚えつつ、ロマーノも彼に顔を寄せた。
「ああいうのは、本当のパートナーとするべきことですので、今回その内容は含まれません。もちろん要望とあれば対応は可能ですが……」
「いや……お願いすることはないと思う」
相手が彼だからという訳ではなく、誰であってもだが。正直なところ、好きな相手であるスペインであっても、跪く姿勢を取りたいと思わないのでは……とすら、ロマーノは思っている。
「あれ……Kneelってやつ、普通はどのSubもやりたいもんなのか?」
ロマーノの主治医が言うところでは、わりとどのSubもそういった面があると言っていた。レオナルドは少し考える素振りをしてロマーノから目を逸らした後、もう一度視線を戻した。
「そうですねぇ。正直、個体差があるので絶対とは言えませんが……ロヴィーノさんは、したいと思いませんか?」
「全く」
「そういうSubもいますよ。少数派かもしれませんが」
にこりと人の好さそうな笑みを浮かべるレオナルドに、それ以上ロマーノは何も言えなかった。マイノリティの更にマイノリティをいく自分を選んでくれるDomなどいないだろうなと、ロマーノの頭の片隅で浮かび、形になる前にそれは消えた。
そのあとはいくつかレオナルドに質問され、ロマーノがそれに答えると彼は「ではこうしていきますね」と、きちんと今後の方針を話していった。質問といってもされて嫌なことがないかの確認と、これからしたいことの確認、それに出来ることと出来ないことの確認だった。とにかくロマーノの体調を安定させることが、医師から課せられた最重要事項なので、しばらくは頻繁に会うことをロマーノたちは約束する。安定してからこのままレオナルドと契約を継続するか、止めるかを考えればいいとだけ言って、彼は帰っていった。
ロマーノも特に用事がなかったので、レオナルドと別れた後はタクシーを拾って帰ることにした。初めて会う人間と話したことにも、そして初めてのことだらけで、精神的にロマーノはとても疲れていた。タクシーの揺れに身を預けつつ、別れたばかりのDomの顔を思い出そうとしてたが、あまりはっきりとは思い出せなかった。イケメンだったということと、ずっと優しかったということしか覚えていない。
(……レオナルド、だったか)
ロマーノはすっかり、彼の名前を忘れかけていた。そこでふと、カフェで一度も彼の名前を呼んでいないことに気が付いた。そんな相手とどうして頻繁に会わなければならないのだろう。仕事も出来ていなくて、ましてやスペインにも会えていないというのに。ロマーノはそう、考える。
車の窓に頭を寄せて、そっとロマーノは目を閉じた。名前も顔も思い出せないような相手と会って話しただけだというのに、少しだけ体の怠さがマシになっている。そんな自分の体が不甲斐無くて、泣いてしまいそうだったから。