ミッシング・ユニバース 03
医師から紹介されたレオナルドとロマーノの関係は、良好だった。Dom/Sub性が支配したい、支配されたいという本能が強くなるものだと聞かされた時から、実のところロマーノは少し脅えていた。てっきりホテルにでも連れ込まれてひどい仕打ちを受けるのではないかとか、そういう想像をしてしまっていた。しかし実際のところ、レオナルドとロマーノがしたことは、それこそカップルの真似事のようなことばかりだった。共に食事に行ったり、美術館に出向いたり、映画鑑賞をしたりと、あまりに平凡なことが続く。ロマーノにとってはその方がありがたかったが、最初は本当にこんなことで体調が回復するのだろうかと疑いすら抱いていた。
そんな疑いを裏切るように、ロマーノの体調はレオナルドと会うほど安定した。特別なことをしている訳ではないはずだが、ロマーノはレオナルドと会うたび、何かが満たされていくのを感じていた。お陰でロマーノは少しずつ、職場に復帰し始めている。完全とはいかないが、週に何日かは職場に通うこととなった。
その話をレオナルドにしたところ、あともう少しですねと喜んでいたから、彼との関係を終えるものあと少しだった。体調が安定するとしばらくは大丈夫なそうだが、やはり決まったDomがいなければ、また体調を崩してしまう。そういった場合は何か違った方法でSubとしての性を満たすしかないのだと、レオナルドは言った。その場しのぎならば相手は本物のDomでなくてもよく、友人などに頼んで欲を満たすことも必要なのだという。
「欲を満たすといっても、Subでも色々と個性があるので、全てのSubがいじめられたいと思ってるわけでもないんです。なので自分は相手にどうされると満たされるのか、それを知っておくことが大事ですよ」
レオナルドは、まるで医者のごとく懇切丁寧な口調で、そう言った。そして何度かロマーノと会っている間に、彼はロマーノのSub性がどんなものか、確かめていた。
「あなたは、相手に構われることで欲が満たされるのではないか、と思っています」
そう言われた瞬間、ロマーノは大きく目を見開いた。痛いところを突かれた、という顔を隠せなかった。
ロマーノ自身、なんとなくそんな予感はしていたのだのだ。スペインが家に見舞いに来て、一日中看病という名の可愛がりを受けた時、ロマーノの体調はとてつもなく安定していた。相手はDomでもないスペインだというのに、だ。それは間違いなく、ロマーノの「構われたい」というSub性が満たされたからだ。
予感があったものを言葉にされると、ついにロマーノは逃げ場を失った。レオナルドはロマーノに会う時、終始優しくロマーノをとても大事に扱った。決してロマーノを疎かにせず、もういいと言ってもあれやこれやと手を尽くした。そうされることで、ロマーノは間違いなく気分を良くしていたのだ。
「自分だけを見てほしい、自分だけを構ってほしい、自分だけを大事にしてほしい……言葉を変えれば、自分だけを支配してほしいという、Subの特性だと思いますよ」
レオナルドは、にこりと良い笑顔でそう言った。それは「自分は本当はSubではないんじゃないか」と疑っていたロマーノの希望を、打ち砕くものであった。憎たらしく思い、ロマーノは隠すことなく舌打ちをしたが、彼は笑みを深めるばかりで堪えた様子もない。
本来ならば腹が立つようなこんな場面でも、ロマーノは満たされる心地がした。相手が己のことを考えてくれた、というのはおそらくロマーノにとって「構われた」に含まれるのだろう。そんな自分自身の体の変化を感じ取るたび、ロマーノは強い自己嫌悪に襲われる。変わってしまう己の体を、受け入れ難いのだ。
「大丈夫です。あなたは人より少し、愛される喜びを知っているだけのことなんですよ」
自己嫌悪に陥って顔色を悪くするたび、レオナルドはロマーノを優しく慰めた。こうした矛盾する心を持つのも、Dom/Sub性ではよくあることらしい。特に成人してから性が発現した人の方が、拒否反応が強いのだという。ある意味、今までの自分を一度捨てなければならない。体ばかりが変わって、心はしばらく戸惑い続ける。
そんな風に不安定だった故か、ロマーノは早くこのレオナルドとの関係を終わらせたいと、強く思うようになっていった。受け持ってくれたレオナルドはとても優しく、珍しくロマーノは相手の性別など関係なく好感を持った。善い人間だと思っている。だがレオナルドといればいるほど、ロマーノは自分がSub性であると強く自認し始めていた。
逃げられないとわかっていても、突きつけられるのには抵抗がある。だから早く、この関係を終わらせてしまいたかった。
「……なあ」
「なんです?」
ロマーノは、多くの観光客が行き交う賑やかなローマの街並みを眺めながら、レオナルドを呼んだ。ロマーノたちはオープンテラスの席で食事を終えて、少しだけ談笑を交わしていたところだった。この店のオープンテラスからは、美しいローマの街並みがよく見える。ロマーノのお気に入りのひとつだった。
呼ばれたレオナルドはしっかりとロマーノを見ていたが、ロマーノの瞳は煌々と眩しい夜のローマ市街から外れない。
「DomとSubがセックスをすれば、早く体調が安定するのか?」
「…………」
何を聞かれてもいつもあまり動じることのなかったレオナルドが、珍しく言葉に窮した。ぼんやりと街並みを眺めるロマーノの視線の先を追いかけると、そこにはひときわ眩く光を放っているホテルがある。観光地として名高いローマの土地には、ホテルがたくさんあった。
「どうなんだ」
「……セックスをすれば体調が安定する、というのは間違いです」
硬い声の返事に、ロマーノはやっと顔を動かしてレオナルドを見た。普段は余裕綽々といった様子で、あまり動じない彼に珍しく、レオナルドは真剣な顔つきでロマーノを見ている。
「本当か?」
ロマーノはレオナルドの言葉の真偽を探すかのように、じいっと彼のブラウンの瞳を見つめた。
「そもそもDomとSubが体調を崩すのは、欲を満たせないからです。その欲をセックスと履き違える方は多いですが、違います。あくまでその欲の中にセックスが含まれる、というだけの話なのです」
「……つまり?」
言われている意味がよくわからず、ロマーノは片眉を上げて軽く首を傾げた。レオナルドは少し目を細め、小さく息をつく。まるで己の心を落ちつかせるような仕草であった。
「セックスをしたから満たされる……のではなく、信頼する相手とのセックスだから満たされるのです。そうでなければ、ただ強い拒絶反応を起こして、更に体調を悪化させるだけですよ」
レオナルドは諭すような口調で言った。察しがいい男なので、ロマーノが言わんとしていることを察して牽制されていることに、ロマーノも気付いていた。ロマーノが臆病であることも知っているはずなので、体調が悪くなると言われると、強く出れないとでも思っているのだろう。
「俺はあんたを信頼してる」
「……ロヴィーノさん」
嗜めるような口調でロマーノの名を呼び、レオナルドは顔を歪めた。今日は珍しい顔ばかりすると、何故か冷静にロマーノはそう思った。
「私は仕事を受けた身として、あなたがそうしたいというのなら、拒否はしません。ですが……いつかあなたが本当のパートナーを探したいと思っているのなら、止めたほうがいい。私はそう思います」
本当のパートナーという言葉が出た時、ロマーノの頭に最初に浮かんだのは、能天気そうに笑うスペインの顔だった。Subになっても、心は変わらない。そんな馬鹿らしい己の片想いにいっそ呆れて、ロマーノは自嘲じみた笑みを浮かべた。
「あなたの体調は回復しています。安定すれば私との契約も終了するのですから、あと少しの辛抱なんですよ、ロヴィーノさん」
諭すようなレオナルドの言葉は、ロマーノを気遣ったものばかりだった。優しいDomを紹介されたことに、ロマーノは彼にも、そして彼を紹介してくれた医師にも心の中で感謝した。
「本当のパートナーなんて、探す気ねえよ」
ロマーノは、低い声でそう言った。本心だった。ロマーノは今更、もう誰に対しても、スペイン以外に、この心が動くことはないと諦めている。けれどスペインはDomではない。それどころか、恋人ですらない。ある意味、Sub性が発現したのは、ロマーノにとったらスペインへの想いを諦めるには、良い機会だった。
スペインへの想いを消す事は出来ない。なかったことにも出来ない。だが己がSubになったことで、Domではないスペインとは一生結ばれることはないのだと、証明された。これでやっと、淡い期待をして苦しむこともなくなる。そう思うと、ロマーノは解放される気持ちでもあった。
いきなり好きであることをやめることは出来ない。けれど「もしかしたらスペインも俺のことを……」と、期待するのをやめることは出来る。これで己が傷つかなくて済むのだと、ロマーノはそう思った。
「だから……俺を抱いてくれ」
スペイン相手だと恥ずかしくて、言葉が詰まって絶対に言えないだろう言葉は、すらすらとロマーノの口から零れた。好意は持っているが、恋愛として好きでない相手なら、こんなにも簡単に言える自分自身に驚きすらした。
レオナルドはそう言われることがわかっていたのか、目を細めて口を閉じた。まるで彼も何かを諦めたような眼差しで、ロマーノのことをじいっと見つめていた。
「ロヴィーノさん……」
「ちょお待ち」
まだ何か言葉を続けようとしていたレオナルドの声を遮ったのは、スペイン訛りのある男の声だった。あまりにも馴染みのある声と訛りが耳に届いたのと同時に、ロマーノの肩をがしりと、強い力が掴んだ。
痛みに顔を顰める余裕もなく、ロマーノはすぐに声がした後方へと振り返った。するとそこには想像通り、スペインの姿があった。しかしロマーノの肩を掴んでいるスペインの顔は、珍しく険しい表情をしている。
「ロマーノ、お前Subやったんか?」
どうしてここにスペインがいるのか、そうロマーノが問いかける前に、険しい表情のままスペインが先にそう尋ねた。どうしてそれを、とだんだんロマーノの顔が青褪めていく。そこでふと、今ここで声をかけられたということは、つい先ほどの話をスペインに聞かれていた可能性があることに、ロマーノはやっと気が付いた。
ロマーノがSubであることは前もってヴェネチアーノに聞いていたか、それとも今ここで知ったのかわからないが、問題はそこではなかった。つい先ほど、ここでしていた話の内容を思い出し、更にロマーノの顔から血の気が引いていく。
「それはまあええわ。それより……抱いてくれって、本気なんか」
答えないロマーノに焦れたのか、スペインはロマーノの両肩を掴んで、そう問いかけてきた。そのスペインの言葉尻は荒く、怒りが滲んでいることがよくわかる。先程の内容がきちんと聞かれていたことに対するショックと、珍しくスペインがロマーノに怒っていることによる驚きで、ロマーノは完全に言葉を返す気力を失ってしまった。
そんな二人のやり取りを見て、しばらく呆然としていたレオナルドは、慌てて立ち上がった。店のテラス席はまばらに埋まっており、離れている席に座っているものは気付いていないだろうが、近くに座っている人々は揉め事かと、三人がいるテーブルに視線を寄こしている。
「店に迷惑が掛かるので、ひとまず出ましょう」
膠着しているロマーノとスペインに、レオナルドはそう声をかけた。するとロマーノはハッと我に返ったが、スペインは鋭い目つきでレオナルドを睨みつけ、口を開いた。
「ええから……ああ、伝わらんか。……いいから、あんたは一人で帰ってくれ。俺はこの子と話があるんだよ」
一度スペイン語で話した後、スペインはふいに言葉を止めて、イタリア語を話しだした。レオナルドはスペインがスペイン人だと気付いていたが、あまりに流暢なイタリア語を話しだしたことに驚き、目を見張った。
「ですが……」
「いいから、早くどっか行ってくれ。そうじゃないと、あんたのこと殴ってしまいそうになる」
どうにか言葉を抑えているようだが、ロマーノの肩を掴んでいるスペインの手の力が強い。本気であると察したロマーノは、慌ててレオナルドに振り返った。
「お、俺は大丈夫だから、ほんとに帰ってくれ。こいつは俺の家族みたいなもんだから」
安心させるようにロマーノがそう言うと、レオナルドは二人の顔を交互に見た後、深くため息をついて肩を落とした。彼はバックから財布を取り出し、金をテーブルに置く。
「ロヴィーノさんがそう言うのなら、信じます。ですが後日、必ず連絡をください。私との契約はまだ続いてます。終わらせるにはまた病院で、医師を挟んでとなるので」
その一言を残し、レオナルドは二人を残して先に店を出た。一度だけ振り返って心配そうにロマーノのことを見つめていたが、安心させるようにロマーノが頷いて見せると、彼は諦めたように背を向けて去っていった。
その場にロマーノとスペインだけが残り、二人きりになったことで沈黙が落ちる。しかしスペインはロマーノが説明するまで、手を離さない様子だ。肩に食い込む指の痛みに顔を顰めて、ロマーノはため息をついた。
「……ひとまず、場所変えるぞ」
今朝方、仕事が終わったらその足でドイツの家に行くと、ヴェネチアーノが嬉しそうに言っていたことを、ロマーノは思い出した。だからロマーノも帰らないつもりで、レオナルドをホテルに誘ったのだ。
まだ肩から手を離そうとしないスペインに、逃げないことを示すように、ロマーノはスペインの手に触れた。すると肩を掴んでいた手の力が緩まって手が離れた後、今度は腕を掴まれた。けれどロマーノは無抵抗のまま「家、誰もいねえから」と、怒りを隠しきれない様子のスペインに一言、そう伝えた。
家に着くまでずっと、二人の間に会話はなかった。代わりにスペインは、ロマーノの腕をずっと掴んだままだ。それは電車の中でも、タクシーの中でも変わらない。ぎゅうっと握りしめた手は、まるでロマーノを逃がさないかのように強い。
周りの目を感じ、ロマーノは何度か「逃げないから離せ」と伝えたが、スペインは目を合わせることなく無視をした。ロマーノの方を見ないスペインの横顔には明らかに怒りが滲んでおり、しばらくしてロマーノは諦めてされるがままになった。
真っ暗な家の中に入り、玄関のドアの鍵を閉めてもスペインはそこから動こうとしなかった。仕方なくロマーノは掴まれている腕を引き、スペインを連れてリビングへと移動した。
「……何か飲むか?」
話そうとしないスペインに、ロマーノはダメもとでそう声をかけた。するとスペインは首を横に振って答えた。
「話聞いてからもらうわ」
相変わらず話を聞くまで立ち去る気のなさそうなスペインに、ロマーノはため息をついた。明度の高いエメラルドの瞳が、真っ直ぐ射貫くような視線をロマーノに向けてくる。それから逃げるようにロマーノがリビングのソファへ足を進めると、スペインも抗うことなくそちらへと進んだ。
「……いい加減、手離せよ」
「話聞くまでは離さへん」
今更どこにも逃げ場などないというのに、スペインは頑なに手を離そうとしない。仕方なく、ロマーノは腕を掴まれたままソファに座り、スペインもその隣に腰かけた。ロマーノはレオナルドに言っていた話をスペインに聞かれたことで、しばらく生きた心地がなかったが、無言に包まれていた帰り道のおかげで少し頭が冷静になった。
一番聞かれたくなかった相手に、一番知られたくなかった内容を全て聞かれてしまったのだ。もうどうにでもなればいいと、ロマーノはどこか投げやりな気持ちになっていた。
ロマーノは覚悟を決めて、スペインに洗いざらい、全て話した。また体調不良になり、病院にかかったこと。検査の結果Sub性が発現していたこと。体調を安定させるためにプロのDomと定期的に会っていたこと。プロのDomと会うことをやめたくて、セックスに誘って早く体調を安定させようとしたこと。
話している最中、ロマーノは一度もスペインの顔を見なかった。スペインは相槌を打つことすらしなかったが、ロマーノは気にせず話した。スペインが聞いていないのならそれはそれでよかったのだ。ロマーノにとって一番恐ろしかったのは、スペインに軽蔑した返答をされることだ。
返答もないまま一方的にロマーノが全て話し終えると、その場に沈黙が落ちる。慣れた己の家だというのに、ロマーノは居心地の悪さを感じた。二人でいる時の沈黙ほど、互いの関係を表すものはない。
スペインと二人でいる時、長い時間沈黙になろうと、ロマーノは今までそれを苦痛と感じることはなかった。今逃げ出したいと思ってしまうのは、それだけ二人の心の距離が離れているせいだと、気付かされてしまう。
「ロマーノはあの男のことが好きなん?」
しばらくしてやっと口を開いたスペインの言葉に、自然とロマーノの表情が歪む。その顔つきのままロマーノが顔を上げてスペインを見ると、彼は意外にも真剣な表情だった。
「はあ? お前、俺の話聞いてたのかよ。仕方なくだって言っただろうが。欲が満たせねえと、また体調が悪くなるから……だから……」
仕方なく、セックスをしようとした。
その言葉を口にすることが、ロマーノには出来なかった。改めて言葉にしてみて、また自分を情けなく思ってしまったからだ。今更遅いとわかっているけれど、言葉にしてしまうと、更にスペインに軽蔑される気がした。
「欲を満たす……」
ぽつりと、言葉をなぞる様にスペインが呟いた。何かを考えこむように、スペインの目は明後日のほうへ向かった。
「それって、相手は絶対Domやないとあかんの?」
「別に、絶対そうじゃないといけないって訳じゃない……はずだ。Domの方が色々と、楽ってだけで」
医師やレオナルドから聞かされた話であって、ロマーノが身をもって体験したわけではない。あくまでそう言われている、というだけだ。何かを考えているらしいスペインの聞きたいことがいまいちわからないまま、ロマーノは問われたことに答えた。
スペインはロマーノの答えを聞いて、ひとりでにうんと頷いてみせた。そうして今まで明後日へと向いていたスペインの目が、真っ直ぐロマーノへ向けられる。真剣な顔つきをしているスペインと向き合う形になり、ロマーノの心臓がどくりと音を立てて速く動き出した。緊張で口が渇くことなど知らず、スペインは掴んだままだったロマーノの腕を強く握りしめた。
「なら俺がそのパートナーになるわ」
言い切ったスペインの言葉に、ロマーノは目を見開いて固まった。聞き間違いかと思い、何度か先程のスペインの言葉を脳内で繰り返してみたが、同じ言葉が何度も繰り返されるだけだった。
「は?」
「せやから、俺がロマーノのパートナーになるで」
まるで夕食を共にしようと誘う時のような軽さで、スペインは同じ言葉を繰り返した。先程は表情こそ真剣だったようだが、二回目は優しく笑んで答えた。
ロマーノはただただ今の状況に頭が着いてこず、ぼんやりとしたまま笑っているスペインの顔を見つめていた。
「……お前、言ってる意味わかってんのか?」
なんとか絞り出されたロマーノの言葉にも、スペインは優しく笑ったまま頷くだけだ。
「わかっとるよ」
スペインの声は穏やかで、本当に何もかも理解しているような素振りだった。そんな態度にロマーノは訳もなく泣き喚きたくなり、ぐっと下唇を噛む。腹の底からふつふつとわいてくる熱は、間違いなく怒りだった。
「……簡単に言いやがって。ふざけんなよ」
「ふざけてへんで。本気や」
ロマーノはついに怒りで肩が震えた。まるでロマーノがSubであったことなど、大した問題ではないといった様子のスペインに、怒りが収まらなかった。その怒りをぶつけるように、ロマーノはスペインに掴まれていた手を強く振りほどいた。
「嘘つけ! パートナーって、一緒に過ごすだけとか、手を繋ぐだけとか、そんな簡単なことだけじゃねえんだぞ! セックスだ! パートナーとはセックスすることも含まれてんだよ! それを……!」
そこまで一気に捲し立てて、ロマーノは言葉を詰まらせた。スペインは相変わらず涼しい顔をしている。やましいことなど何もないような、綺麗な緑色の瞳を見ていられなくなり、ロマーノはソファに視線を落とした。
こんなのは八つ当たりだとわかっている。スペインはロマーノを思って、パートナーになろうと提案しているのだ。スペインはいつだって、どんな時だって、ロマーノの親分という態度を崩さない。それが尚のこと、ロマーノを惨めにさせるなんてこと、きっと気付きもしないで。
「やからやん」
黙り込んだロマーノの肩に手を置いて、スペインは変わらない声でそう言った。いつの間にか、スペインから怒気は完全に失われている。
「は?」
意味が分からず、ロマーノは目を開いて顔を上げた。するとスペインは少し困ったように眉を下げて笑い、ロマーノの肩を優しく撫でる。
「そんなことするのに、大事なロマーノをあんな見ず知らずの男に預けられる訳ないやんか」
相変わらず、スペインは面倒見の良い言葉を並べた。スペインからすればレオナルドは見ず知らずの男だろうが、ロマーノからすれば知らない相手ではない。そんな心配をされること自体、見当違いなのだ。結局のところ、ロマーノがどこかの誰かとセックスをすることにスペインが怒るのも、危険な行為から遠ざけたい親心なだけだ。ロマーノはそんなこと望んでいない。
「ロマーノが好きになった相手ならええと思うで。でも今日会ったばっかりの……どこの馬の骨かもわからんやつ……絶対あかん」
「……あいつとはもう何度も会ってる」
「でも好きやないんやろ?」
スペインの問いに、ロマーノは答えられなかった。レオナルドのことを、ロマーノは嫌っていなかった。むしろ好感を抱いていたほどで、仮にロマーノに好きな相手がいなければ、恋愛対象として好きになっていた可能性だって、ありえたかもしれない。
(好きになる訳ねーだろ。俺はお前が好きなのに……)
言いたい言葉は、胸の中でしか形にならない。伝えられないから、好きでもない相手に抱かれようとしているロマーノの気持ちなど、スペインにわかるはずがない。
「なあ、ロマーノは親分やと嫌?」
首を傾げて、スペインはロマーノの顔を覗き込んだ。自然と上目遣いになり、いい歳の見た目をした男の上目遣いなどかわいいはずもないのに、ロマーノの頬は熱を持つ。かわいいはずもないはずなのに、そういったあざとらしいスペインの態度に、絆されてしまいそうになる己がいることが、恥ずかしかった。
「嫌っていうか……」
「っていうか?」
繰り返すスペインから咄嗟に目を逸らし、意味もなく部屋の隅にある観葉植物を見る。
ロマーノはどう言えばいいか迷っていた。本心なら、一時的であってもスペインとパートナーになれるのは嬉しいことだ。セックスを含めて、大歓迎である。しかし問題はロマーノより、スペインだ。
「お、お前は……どうなんだよ。元子分の俺を抱けるって言うのか」
「当たり前やん」
戸惑いがちに問いかけたロマーノの言葉に、スペインは迷うことなく即答した。驚いて目を瞠りながらスペインを見たロマーノに、スペインは怪訝な表情を返す。
「俺から提案してんのに、いざ無理でしたとか俺最低やん」
「それは、そうだけど……」
スペインの返答が信じられず、ロマーノは目を丸めたまま固まる。答えているスペインが嘘を言っているようには見えない。
今までスペインは、ロマーノのことを子分としか見ていないと思っていた。実際に今でもそうなのかもしれない。けれど子供のように可愛がっていた、恋愛感情すら抱いていない相手を、何の躊躇いもなく抱けるものだろうか。ロマーノは一度も誰かの親という立場になったことがないから、それがわからなかった。
しかし少し立場を置き換えるなら、ロマーノにとって身内となるヴェネチアーノを抱けるかと聞かれているのと、同じことだろう。ロマーノには、例え弟がSubになってセックスしなければ体調が悪くなると言われても、出来ないだろう。そのままプロのDomとうまくやればいいと思う。
(何考えてんだ、こいつ……)
今までロマーノは、スペインは比較的わかりやすい男だと思っていた。少なくとも、ロマーノにはわかりやすく接していたのだろう。スペインに対して、何を考えているかわからない、得も言われぬ恐怖を覚えたことは一度だってなかった。
ロマーノにとって、今のスペインが少しだけ恐ろしい。いつだって泣いて名前を呼べばすっ飛んで助けに来てくれるはずの親分が、恐ろしいなどと。
「お前の為やったら、なんでもしてやりたいねん」
そう言って、スペインはロマーノの頬に手を添えた。同時に「してやりたい」と言われた瞬間、背が震えた。間違いなくロマーノのSubの本能が反応している。尽くそうとしているスペインに、何かが満たされるのを感じる。
自然とロマーノの目尻が下がった。まだ頬に触れられただけで、ロマーノの体は熱を持つ。それに気付いたのか、スペインは目を細めて笑い、そっとロマーノに顔を近付けた。言葉にされずともその先の行為がわかり、ロマーノも目を細めて顔を少し傾けた。
言葉なく二人は唇を重ねた。最初は少し触れるだけで離れ、角度を変えてスペインはロマーノの唇を啄む。繰り返されるキスに、ロマーノは肩から力が抜けていった。もしかしたら今は夢の中にいるのかもしれない。そんなことを思いながら、離れることを恐れるように、ロマーノはスペインの服の裾を掴んだ。
「ロマーノ」
名前を呼ばれ、ロマーノは薄く目を開いた。両手をロマーノの頬に添えているスペインは、幸せそうに目尻を下げて笑っている。まるでキスが出来たことを喜んでいるような、そんなスペインの笑顔を見て、ロマーノは今にも涙が零れてしまいになるのをぐっと堪えた。
またスペインが顔を近付けてきたことに気付き、ロマーノは少し口を開いて彼を迎えた。それを待っていたかのように、スペインは舌を差し出しロマーノの舌と絡める。唾液と舌が交わる音が、静かなリビングの中で場違いに、卑猥に響いている。
キスが深まっていく中で、ロマーノは満たされていく己の体と心に、今度こそ耐えきれなくなって目尻から涙を零した。スペインに触れられることで、さっきまであった少しの恐怖心や躊躇いが、どんどん剥がれ落ちていくのを感じる。
スペインがロマーノを抱くのは、大事な子分が困っているからであって、そこに恋愛感情はない。他の誰かに触れさせないのもただの庇護欲であって、性欲ではないし嫉妬心でもない。ロマーノはそう思っているし、きっとそれで間違いではないはずだ。それでもロマーノがSubにならなければ、きっと一生こんな状況にはならなかったことだろう。こんな体質なってしまったことは到底喜ばしいことではないが、それでもロマーノはずっと恋しく思っていたスペインに触れられることが、ただただ嬉しかった。
「……ま、まてっ!」
キスに夢中になっていたロマーノだったが、ふいに服の袖から熱いスペインの指先が侵入してきたことに気付き、慌てて顔を離した。急だったせいで、二人の間には名残のように、銀糸が紡がれる。それが途切れるまで目で追ってしまい、ロマーノは一人で照れて顔を真っ赤に染めた。
「どうしたん? やっぱり嫌?」
「そ、そうじゃ……ねえけど……」
「けど?」
続きを促すようにスペインが顔を近付け、こつんと優しい音を立てて、スペインの丸い額がロマーノの額に触れる。
「……準備してねえから、ちょっと待て」
あまりに恥ずかしくて、ロマーノはスペインの顔を見ていられず、とても近い距離だというのに、視線はずっとスペインの太ももに降り注いでいた。
ロマーノが何も言えずにいると、しばらくあってから、スペインはロマーノを抱きしめた。驚きに声を上げるロマーノを無視して、抱きしめたままスペインはロマーノの尾骨あたりをそっと撫でる。それだけで、ロマーノの体が震えた。おそらく、驚きと悦びで。
「それは……最後までしてええってことなん?」
抱きしめられていることで、スペインの声が耳のすぐそばでした。話すたび息が肩に触れて、ロマーノはどうしていいかわからず、ただスペインの腕の中で震えることしか出来ない。
スペインの言う最後というのがどこまでのことを言っているのか、ロマーノにはわからなかった。しかし男同士の体でセックスをする時、挿入するのなら、使用できる穴はひとつしかない。ロマーノの言う準備は、後ろの穴を使うのには必ず必要なことだった。
「最後……」
「ロマーノは後ろの経験、あるん?」
「うしろ……!? あっ、ある訳ねーだろ!」
明け透けなく聞かれたことに、ロマーノは体を真っ赤にして首を横に振った。くすぐったいのか、スペインはロマーノの首元に顔を埋めてくすくすと、嬉しそうに笑う。間違いなくロマーノの反応を見て楽しんでいるのだと気が付いたが、ロマーノは現状でいっぱいいっぱいで、そんなスペインに頭突きを食らわせる余裕もない。
「ほんなら、俺の挿れるんは流石に無理かもしれんなあ」
「で、でも……ちゃんと慣らせば……いけんじゃねえの」
「ロマーノ、痛いの我慢出来る?」
「い、痛いのは嫌だぞコンチクショー!」
「せやろ。親分もロマーノが痛い思いすんの、嫌や」
そう言いながら、スペインはロマーノの頬にキスをした。優しいキスに、慌てていたロマーノの心が少しだけ穏やかになる。
「ゆっくりでええから、慣らしていこな。そんでいつか親分の受け入れたって」
笑うスペインに押され、ロマーノは言葉なく頷いた。本当はこれっきりになるかもしれないからと、多少痛くても最後までしたいという気持ちはある。けれどスペインは間違いなく、これから先のことを見越して、ゆっくり慣らしていけばいいと言った。スペインはロマーノの体調を安定させるために仕方なくロマーノを抱くのではなく、本気でパートナーとしてこれから関係を続けていくつもりなのだ。それを聞いて、ロマーノは途端に今日全てを終わらせる必要はないと思い直した。痛みが伴うのなら、尚のこと。
時間をかけて、何度もスペインに触れたい。もしかしたらスペインが嘘をついているだけで、これっきりで終わってしまうかもしれないけれど。それでもロマーノは、きっとこれから続くであろうスペインとのパートナーの生活を、少しでも夢見たかったのだ。
もしかしたら、これは夢かもしれない。
もしかしたら、スペインの心までは手に入らないかもしれない。
もしかしたら、スペインにとって体のいい性欲処理かもしれない。
それでもロマーノはずっと触れたかった体に、ゆっくりと手を伸ばして、スペインの体を抱きしめ返した。どうか離れないでほしいと、願うように。