ミッシング・ユニバース 07
ロマーノがスペインの家に滞在して、ちょうど一週間になる。ついに今年最後の日となった。その間二人はずっと一緒で、家の掃除をしたり、料理をしたりセックスをしたりと、のんびりすごしている。人の多いスペインの観光地に、寒い中足を向けようとは互いに思わなかった。その間、ロマーノの体調は頗るよかった。改めて、ロマーノは自身にとっての、スペインの存在の大きさを思い知らされる。
「俺もなあ、ロマーノと会われへんかったひと月、なんか調子悪かってん」
「へえ……」
葡萄の皮を剥きながら、ロマーノはスペインの言葉を聞き流す。調子が悪かったのはロマーノに会えないからというよりも、仕事を詰めすぎたからだろうと、ロマーノは勝手に解釈した。
「もうお前がおらなあかんみたいやわ、俺」
「ふうん……」
こういう言葉に、ロマーノはいちいち舞い上がって、すぐ期待してはダメだと自身を律していた。スペインのこういう言葉に、あまり深い意味はない。間違いなく本心ではあるのだが、スペインがロマーノを求める心は、恋愛としてではなく、家族としてでしかない。
「年末年始一緒におれるって、めっちゃええよな!」
「ほお……」
無心に徹して、葡萄の皮にかりかりと爪を引っかける。十二時までに間に合うか不安になり、ロマーノはちらっと時計を見たが、あと十分ぐらいの余裕はあった。
「クリスマスも一緒におれたし……」
「はあ……」
「……もお!」
必死に葡萄を剥いていたロマーノの体に、スペインがどんっと強く体当たりをした。その衝撃で、剥いてる途中だった葡萄が、ころころとテーブルの上を転がっていく。せっかく人が集中してるのにと、葡萄が飛んで行った元凶であるスペインを、ロマーノは強く睨みつけた。
「何しやがんだコノヤロー!」
怒っているのはロマーノだというのに、何故かスペインも不機嫌そうな顔をして、唇を突き出している。鬱陶しいことこの上なく、ロマーノは手を伸ばして転がった葡萄を掴み、また皮むきに戻った。
「ロマーノこそ! 俺の話ちゃんと聞いてるん!?」
「うるせーな! こっちは皮剥くのに集中してんだよ! 邪魔すんなハゲ!」
葡萄の皮を剥いている間、スペインはずっとべらべらと喋っていたが、ロマーノが確認するにスペインはもうあとひとつを残して、全て皮むきを終えている。しかも剥かれた皮の残骸を見るに、ロマーノのように皮がボロボロになっておらず、綺麗に繋がって剥けているのがわかる。
「皮剥くのになんでそんな時間かかんねん……ほんま不器用やな」
「アア!? そう言うんならテメェが剥けよ! 大体俺ん家は年越しの時に葡萄食う習慣なんかねーんだよ! 言わばお前の為に剥いてやってんだぞコンチクショーが! 文句言ってんじゃねーよクソ野郎!」
「それはお前が食べる分の葡萄やんか。もう、しゃあないなあ……」
苦笑しながら、スペインは残りひとつだった自分の葡萄の皮を素早く剥き、ロマーノの葡萄に手を伸ばした。あまり悠長にしている時間もないので、素早く皮を剥いていくスペインに、ロマーノは小さく舌打ちした。改めて自身の不器用さを突き付けられた気になった。
スペインには新年を迎える瞬間、マドリードのプエルタ・デル・ソルの時計台の鐘の音に合わせて、十二粒の葡萄を食べる風習がある。ロマーノとスペインが年越しを共に過ごすのは珍しいことではないのだが、年によって年を越す場所が違い、時にはイタリアであったり、ドイツであったりと様々で、二人で葡萄を食べるのは随分久しぶりだった。
「そういやイタちゃんから聞いてんけど」
集中したいというのに、スペインは黙っていられないのか、またしても口を開く。それにイライラしつつ、ロマーノは「なんだよ」と苛立った様子で答えた。
「イタリア人は赤いパンツ履いて年越すってほんま?」
ロマーノは葡萄を剥く手を止め、スペインを見た。いつの間にかスペインはロマーノの残りの葡萄全ての皮を剥き終え、用意していたカヴァのコルク栓を抜こうとしていた。残りの葡萄は、ロマーノが今剥いているもののみとなっている。
「お前は葡萄の皮むき職人にでもなりたいのか?」
「いや、単純にお前が遅いだけや……いた!」
隣に座っているスペインの足を蹴り、ロマーノは最後の葡萄の皮むきを終えた。時計を見ると、あと数分で時計の針が十二時を指そうとしていた。その横で、ポンっと間抜けな音を立てて、カヴァのコルクが外れた音がする。
「で、どうなん? 赤パン履くん?」
終わったと思っていた話は、どうやらまだ終わっていなかったらしい。興奮気味にロマーノに顔を近付けて尋ねるスペインに、ロマーノはあからさまに顔を歪めた。男のパンツの色がどうしてそこまで気になるんだと、軽蔑の眼差しを向けている。
「まあ、そういう習慣はあるな」
「お前は? 今履いてるん?」
うんざりしたように目を細め、ロマーノはスペインを睨みつけた。けれどスペインは期待するように目をきらきらさせているだけで、ロマーノの睨みなど気にした様子もない。ロマーノはグラスをスペインに差し出して、カヴァをグラス一杯に注がせた。
「お前、俺を誰だと思ってんだよ」
「不器用な俺の元子分」
「南イタリア様だ、コノヤロー。イタリアの国体が、国の習慣を無視する訳ないだろハゲ」
「へえ、そうなん……」
カヴァのボトルをスペインから奪い、今度はロマーノがスペインのグラスに、カヴァを注いだ。その間、スペインがずっとロマーノの股間を凝視しており、苛立ちと恥ずかしさからロマーノの顔が赤くなる。グラスに注ぎ終えると、ボトルをテーブルに置いて即座にスペインの頭を叩いた。
「何見てやがんだヴァッファンクーロ!」
「え、えへ……」
照れたように頬を掻くスペインに、ロマーノは舌打ちした。好青年のような見た目をしているスペインは、その見た目通り普段は鷹揚で明るい男だが、その奥に変態の性があることを、ロマーノは知っていた。そもそも変態を体現しているようなフランスと仲が良い時点で、お察しである。
「赤い下着は魔除けとか、そういう意味だけど……人から送られたものじゃなきゃダメだっていうのもあって、毎年バカ弟と送り合ってんだよ」
「そうやったんか……」
送られるから仕方なく履いてるんだと、頬を赤く染めながら言うロマーノを、スペインは目を丸めて見ていた。赤い下着がロマーノの趣味ではない。もちろん好きな色であるのは確かだが。
まだロマーノが何か言い訳をしようと口を開いたとき、テレビの中が歓声に包まれた。テレビはちょうどプエルタ・デル・ソルの広場を中継で映しており、現地にいなくても鐘の音に合わせて葡萄が食べられるようになっている。ライトアップされている時計の針が、もう十二の文字に差し掛かろうとしていた。
「あ、十二時なるやん! 葡萄用意やで!」
「してるだろ」
二人とも、葡萄の入った皿を引き寄せて、テレビを見た。十二時になった瞬間に鐘の音が響き、二人は顔を見合わせて葡萄を口にしていく。十二回鳴る音に合わせて食べるのだが、その間隔が短いので意外と大変で、二人は話す余裕もない。
十二回鐘が鳴り終え、口の中の葡萄を飲み込んでやっと、ロマーノは息をついた。スペインはまだテレビを見ており、広場で楽しそうに新年を迎えている国民を、嬉しそうに眺めている。そういう感情を、ロマーノはとてもよく理解できる。ロマーノ以外であっても、国体ならば皆わかることだろう。自身の国民が楽しそうにしている姿を見るのは、やはり嬉しかった。
ロマーノはテーブルにある二人分のグラスを手に持ち、ひとつをスペインの前に差し出す。するとはっとした様子でロマーノを振り返ったスペインは、照れたように目を細めて笑いながら、グラスを受け取った。
「あけましておめでとう」
そう言ってロマーノがグラスを傾けると、一瞬目を見開いたスペインは、すぐ満面の笑みを浮かべた。
「おめでとう! 今年もよろしくな!」
カンっと音を立ててグラスを合わせ、乾杯した。諍いもなく年を無事終えたこと、楽しく新年を迎えられたこと。幸せなその瞬間に、共にいられたことに。声に出さず、胸の中で唱えてからロマーノはカヴァを口にした。辛口の炭酸が喉を通ると、芳醇な葡萄の香りが鼻を抜けていく。
「これは良い一年になるな〜!」
「ほんとかよ」
適当なことを言っているスペインに、ロマーノは破顔した。そのまま二人でだらだらと喋りながらカヴァを飲み、互いに一杯を空けたところで、スペインがロマーノに寄りかかった。眠くなったのかとロマーノが顔を覗くと、頬を赤くしてスペインは目を閉じている。けれど満足そうに口元が笑っているので、眠っていないことは一目でわかった。
「おい、眠いんならベッド行けよ。重い」
「親分の体も支えられへんなんて、ロマーノはひ弱ちゃんやね……」
「ああ? 今すぐ床に落とされたいのかテメェ」
くすくすとスペインが笑うたび、ロマーノの首元にスペインの柔らかいくせ髪が触れてこそばゆい。服の下で鳥肌を立てながら、声が出るのをじっと我慢していたロマーノに、スペインが突然キスをした。触れるだけの軽いキスはすぐ終わり、スペインはまたロマーノの肩に頭を戻して、上目遣いでロマーノを見た。エメラルドのような、深く明るい緑の目が、明るい室内のお陰でよく見える。
「親分、赤いパンツ見たいわぁ……」
「……ネットで検索すれば」
「生の……人が履いてるの、見たいわぁ……」
逃げ場がなくなって言葉が詰まったロマーノを、スペインはにやにやと楽しそうに見上げている。その間にスペインの不埒な手が、ロマーノの腰を撫でた。ズボンの隙間から指を差し込み、あたたかい肌を誘うように撫でると、ロマーノは顔を赤くしてスペインを睨みつける。
「……最ッ悪の誘い文句だぞ、コノヤロウ」
「ええ〜? お前のやから見たいんやで」
「嘘つけよ……」
「ほんまやって」
どうせヴェネチアーノがいたら、二人の赤パンツが見たいと大興奮で騒ぐに違いない。その姿が容易に想像出来て、ひとりでにロマーノはイラっとしたが、スペインがまたもキスをしてロマーノをソファに押し倒した。大人三人でも余裕に座れるほどの大きさがあるソファは、当然のようにスペインとロマーノ、二人分の体重を受け止める。
舌を絡ませ合いながら、スペインはロマーノが着ていたセーターとインナーを、一気に胸元までたくし上げた。肌寒さに鳥肌が立つことも無視して、スペインの手はロマーノのわき腹を撫で、そのまま乳首を指で撫でる。途端にびくんっとロマーノの体が反応した。
「んっ……」
まだ終わらないキスに応えながら、ロマーノもスペインのパーカーの裾から手を忍ばせ、浮き出た背骨を手で撫でた。互いの肌に触れあっているだけで、ひどく感じる部分にはまだ触れあっていないのに、すっかり体は熱を持っている。
舌を絡め、唾液を飲み込んで、逃げないように吸い上げて……一通り堪能した後、スペインはロマーノから口を離した。垂れる銀糸を見ていられないといった様子で、ロマーノは顔を赤くして目を細める。その反応がかわいくて、スペインは唾液で濡れた唇を一度舐め、ロマーノの頬にキスを落とした。
「かわええな、ロマーノは」
「それ嬉しくねーんだよ……」
「だってほんまのことやもん」
男なのだから、かわいいよりかっこいいと言われたい。けれど悲しいかな、今まで長く生きてきた中、かっこいいよりかわいいと言われた回数の方がロマーノは多かった。
睨みつけてくるロマーノに笑いながら、スペインはロマーノのズボンのチャックに指をかけた。休みの日は、外に出ない限りベルトを着けないので、脱がしやすくて良い。スペインは許可を取ることもなく、ロマーノのズボンを脱がしてしまう。
「赤パンツ……!」
「……いや、赤いだけのただのパンツだろ? なんでそんな嬉しそうなのお前……」
「だってロマーノがこんな派手な色のパンツ履いてんの、珍しいやん」
確かに普段は黒やグレーなど、派手にならない色の下着をロマーノは好んで履いていた。派手なものといえば、スペインからプレゼントされたトマト柄のパンツぐらいだろう。だからといって、そこまで興奮するものなのか、ロマーノには理解出来なかった。
脱がしたズボンをソファの下に落とし、赤いパンツをじっくりと眺めながら、スペインはロマーノの太ももを撫でた。はあっと熱い息を吐くスペインは、ロマーノに興奮しているというより、赤いパンツに興奮しているように見え、ロマーノは一人複雑な気持ちになる。
太ももを這っていたスペインの手が、ついにパンツに到達し、パンツの上からロマーノの性器に触れた。途端、ロマーノは息を詰まらせて体をびくりと跳ねさせる。
「もう反応してるやん」
「悪いのかよ……」
「いや? 感度ええのは嬉しいなあ。ええことやと思うで」
良いことと言われた途端、ロマーノはぞくぞくと体を震わせた。それだけで、褒められた気になって、Sub性が反応したのだ。更に性器が硬さを増したことに気が付いて、スペインは嬉しそうに笑って唇を舐めた。
「……ええ子やな、ロマーノ」
「……あ、あっ……」
褒められるたび、ロマーノは体を震わせた。スペインがわざと言っているのもわかっているのに、それに抗う術をロマーノは持たない。もっと褒められたいと思ってしまう。
体を震わせるロマーノを見ながら、スペインはパンツの上から握っていた性器を扱いた。普通に触られるだけでも気持ちいいが、布越しに擦られると、更に刺激が増してロマーノは高い嬌声を上げた。
「やぁ……! あ、あ、あ」
「気持ちええ?」
「う、ん……いい、いいっ」
その言葉通り、ロマーノの下着が濡れてくる。性器の先から黒いしみが広がっていき、先走りが溢れているのがすぐにわかった。スペインは扱くのを止め、パンツのゴムに指をかける。
「あかんわ……汚してもうた」
ゴムを引いてパンツを軽く脱がすと、パンツと性器の先から糸が引く。ロマーノはそれを見て、慌てて目を逸らした。
「別に、いい……すぐ捨てるから」
「え、そうなん?」
完全にパンツを脱がせようとゴムを引っ張っていくと、ロマーノが手伝うように腰を浮かせ、足を曲げた。するすると脱がし終えたパンツを持って、スペインは首を傾げる。
「年越したら、すぐ捨てるっていうのまでが、一応習慣なんだよ」
「なんや、もったいないなあ……」
どう見てもまだまだ履けそうに見えるパンツを、もう捨ててしまうと言う。スペインはどちらかというと、ずっと同じものを使い続けるタイプなので、どうしても勿体ないと思ってしまう。風習ばかりは仕方がないことだが。
そんなことを考えながら、濡れたパンツをスペインがじいっと眺めていると、顔を赤くしたロマーノが「いい加減にしろっ」と、スペインのわき腹を蹴った。痛みに呻きながら、しぶしぶスペインはパンツを床に落とす。ついでに脱がし終えてなかったルームシューズも床に落とし、不機嫌そうな顔をしているロマーノに、スペインは宥めるようなキスを送った。
しばらくロマーノの顔にキスをしていて、急にスペインはハッと目を開いて、ロマーノから顔を離した。
「ええこと思いついた!」
「……何」
明らかに面倒くさそうな顔をして、ロマーノは仕方なさそうに声をかける。待ってましたと言わんばかりに、スペインはうきうきした様子で頷いた。
「来年から俺が赤いパンツ送ってもええ?」
嬉しそうなスペインの提案に、ロマーノはきょとんと目を見開いた。
「なんで?」
「ちゃんとイタちゃんの分も俺が用意するから」
質問の答えになっていない。ましてやセックスの最中に、他の男の名前を出すなんて、ベッドのマナーがなっていない。ロマーノは途端に不機嫌そうに眉を寄せ、顔を歪める。しかしロマーノは、そんなスペインを怒る権利を持ち合わせていない。なんたってスペインとロマーノは、恋人ではないからだ。
面白くはないが仕方ないことだと、怒りを鎮めるためにロマーノは長く息を吐いた。依然眉間の皺は深いが、怒鳴るほどの怒りの沸点は遠ざかった。
「だから、なんでだよ」
先程聞き流されてしまった質問をくどく繰り返すと、スペインは珍しく眉間に皺を作って難しい表情を取った。苦いものを口にしたようなその様子に、素直にロマーノは驚いていた。無神経なことでもすぐ口にするスペインにしては、言い辛そうにしているのも珍しい。
「……他のヤツから送られたパンツ履いとるロマーノとエッチするの、嫌やなあって」
少し待って、やっとスペインが口にした言葉に、ロマーノはうっかり言葉を失ってしまった。それほど驚いていた。
スペインに初めてSubだとバレた時、ロマーノはレオナルドとセックスしようとしていた。あの時スペインが怒ったのは、簡単に見ず知らずの男と寝ようとしていることを、親心で怒っていた。ロマーノはそう捉えていたし、その説明でもおかしくはないと思っている。
しかし今、スペインが言った言葉はまるで、別の男に嫉妬しているように聞こえる。下着を贈るなんて、その下着を脱がせたいと言っているようなもので、他人から送られた下着を恋人がつけていたら、確かに嫌だろう。しかし二人はパートナーであり、恋人ではなかったはずだ。
不機嫌そうにしながらも、真っ直ぐにロマーノを見つめる真剣な緑の瞳に、ぐらぐらと心が揺れる。期待などしないと固めていた虚栄心が、簡単にはがれていくのを感じた。
「……他のヤツって、ヴェネチアーノだろ」
「それでも嫌や」
すぐ様切り返してきたスペインの言葉に、ロマーノはぐっと下唇を噛んだ。ぴりっとした痛みを感じ、今が夢でないことを悟る。それを確認しても、ロマーノはしばらく唇を噛んで黙っていた。そうしなければ、口元がゆるんでニヤけてしまいそうだった。
「……好きにしろよ」
スペインから目を逸らして、ぶっきらぼうにロマーノは答えた。けれど不機嫌そうな顔も、体も真っ赤にして、隠すのは口元だけでは足りなかったのだが、それにロマーノは気付いていない。トマトのようなロマーノに、スペインは目を細めてくすくすと笑った。ロマーノはいつだって、最後はスペインに全てを預けてくる。
「たまらんなあ……」
ため息をつくように吐き出して、スペインはロマーノに口付けた。絡む舌の動きに、中断された行為の続きを感じて、ロマーノは目を閉じてスペインの首に腕を回す。強請るように、受け入れるように。
熱くなっていく体に反して、何故かロマーノの頭の中は冷静だった。
「はっ、あ……す、ぺいん……」
体を這う熱い手を感じながら、思う。スペインは容易く、未来の話をする。疑うこともなく、素直に、純粋にその未来があることを、信じている。
来年の今、今日と同じように一緒に葡萄を食べ、カヴァを飲んで、貰った赤いパンツを穿いて、広いソファで体を重ねている未来なんて、ロマーノには全く想像出来なかった。ロマーノはずっと、このつぎはぎだらけのようなパートナーの関係が、いつ終わってしまうのだろうと怯えている。朝目が覚めたら、全て夢だったんじゃないかと、いつも思う。
いっそ、早く終わってくれたらこんな苦しみも終わるのに。そう思いほどに、ロマーノにとってスペインとのパートナーの関係は愛しくて、大切で、辛いものだった。
それでも、自らは手放せない。それほどスペインはロマーノの体を開いて、奥まで入り込んでいる。痛いほどに。
ロマーノがイタリアに帰るのは、三日の予定だった。そんな中、スペインが「最後の夜は豪華なディナー作ったる!」と言い出したのは、二日の朝のことだ。ロマーノは三日の昼にはもう空港に着いていなければいけないので、ディナーを共に出来るのは、今日だけだ。
「豪華? ロマネ・コンティでも用意してくれんのか?」
「そういう方向とちゃうねん」
ソファに腰かけるロマーノの前に立ち、わかっていないとわざとらしく肩を竦めてため息をつくスペインを、ロマーノは睨みつけた。けれどスペインは気にした様子もない。
「ならどういう方向なんだよ」
高級すぎるワインなど初めから全く期待などしていなかったが、ロマーノはとりあえず話を促した。ここで無視したところで、話を聞くまで永遠あとを着いてくるので、この時点でロマーノには話を聞く以外の選択肢は与えられていない。
「親分がいっぱいご飯作ったる!」
「高級な?」
「豪華な!」
「何が違うんだよ」
「そもそも根本が違うやろ! 高いワイン一本と普通のワインいっぱいの差や!」
「そこは高いワインいっぱいって言えよ……」
力説するスペインに、ロマーノはため息をついた。最初から期待などしていないが、わざわざ説明されると切ないものがある。互いの懐事情など知れたものなので、ロマーノはそれ以上何も言わなかった。実際、高級なものを与えてほしくて、ロマーノはスペインと一緒にいる訳ではない。
「せやから、買い物行こ」
「はあ? 俺も?」
ソファに身を預けているロマーノの手を、スペインが引いた。ご馳走される側がどうして一緒に買い物に行かなきゃいけないんだとロマーノが文句を言うと、スペインは満面の笑みでそれを迎え撃つ。
「デートやん!」
「デッ…………」
驚いて言葉を詰まらせたロマーノを気にした様子もなく、スペインは手を引いてロマーノを立ち上がらせた。ぽかんとしながらされるがままになっているロマーノは、その間にコートを着せられても何も言えず、先程スペインが言った「デート」という言葉を頭の中で繰り返している。
(どういうつもりで……むしろ何も考えてないのか……いやでも……まてまて期待するなスペインだぞ……)
脳内で期待したいロマーノと期待したくないロマーノが議論している間に、スペインはロマーノの手を引いて家を出た。暖房のあたたかさがなくなった途端、冬の寒さが二人を襲い、そこでやっとロマーノは我に返る。
「寒っ! いや俺行くって言ってねーぞ!」
「ほらほら寝言いってやんとはよ行くで」
「寝ぼけてねーよ!」
体よくあしらわれつつ、ロマーノは結局車に乗り込んで、スペインの運転で共に買い物に出かけることとなった。スペインの運転はお世辞にも安全なものとは評価されないが、慣れてしまっているロマーノにとって、荒い運転で困ることはない。たまに頭を窓にぶつけるのが痛いというだけだ。
市場の近くの駐車場に車を停め、二人で人が多い市場を練り歩くこととなった。
「だから嫌だったんだよ……」
ごった返す人波に押され、時に肩をぶつけながらロマーノはぶつぶつと文句を言った。基本的に、ロマーノは人混みが好きではない。遠くからそれを眺めている分にはいいのだが、自身がその中に入るのは嫌だった。観光地のひとつにもなっているスペインの市場は、あまり立ち寄りたいものではない。昼前なので当然のように人が多い。
「ほら、ロマーノ」
どこかのバルにでも入って、買い物が終わるまで待ってようかとすら思っていたロマーノの手を、スペインが掴んだ。
「はぐれたあかんで」
手を引かれ、ロマーノはスペインの隣に立った。すぐ近くにいるというのに、スペインはロマーノの手を離さず、そのまま人の波をかき分けて市場の中を進んでいく。壁に並んだ生ハムの原木を見ては頭をひねり、並んだ料理を見てどれがいいかとスペインが尋ねている間も、ロマーノは繋がった手にばかり意識がいって、それになんと返したかあまり覚えていない。
手を繋いだことなどいくらでもあるというのに、ロマーノは今繋がっているその手が、何か特別な意味があるのではないかと期待している。スペインを見ても、頬を赤くして笑っているのは照れているせいではなく、寒さのせいだとわかるのに、違う理由を探してしまう。
「ロマーノ? 聞いとる?」
ぼうっとしていたロマーノの肩に、スペインの肩がぶつかった。隣を見ると、すぐ近くにスペインの顔があり、ロマーノは固まって更に言葉を失った。スペインが指さしているのはショーケースの中にあるピンチョスで、カラフルなそれらにやっとロマーノは気が付いた。
「俺は……どれでも」
「えー? ほんまに? なら全種類買うで?」
「お前そんな金あんの?」
「これ全種類一本ずつ買う金ぐらいあるわ」
失礼やなと言いながら、スペインは宣言通り店頭の全種類のピンチョスを一本ずつ買った。既にスペインは、ロマーノがぼんやりしている間に生ハムとトマトを買っていて、スペインの今朝の発言が本気だったのかもしれないと、今になってロマーノは思った。スペインは今、高級ではないけれど、豪華で贅沢な夕飯にするために、食材を買い込んでいるのだろう。
ピンチョスが入った袋をロマーノに手渡したスペインは、空いているロマーノの手を握って、買い物を続けた。スペインのもう片方の手は、生ハムとトマトが入った袋で塞がっているので、手を繋ぐためにピンチョスをロマーノに持たせたのかもしれない。そう思うと、ロマーノは自然と頬が赤くなった。
手を振り払って、ピンチョスが入った袋をスペインに押し付け「お前が持て!」と言えば、スペインは大人しくそうするだろう。けれどロマーノはどうしても、それが言い出せなかった。大人しくスペインに手を引かれながら、後を着いて行く。
「あとはサーモンとエビと……バケットも買わな!」
ひとりで楽しそうに買い物をしているスペインから目を逸らし、ロマーノは賑わう市場の中を見回した。周りから、手を繋いでいる男同士はどう見られているのだろう思ったが、みんな商品に夢中になっており、二人を見ている人など誰もいなかった。
二人が国であることも、片方がSubであることも、男同士であることも、誰も気付いていないし見てもいない。ロマーノは自身がずっと引け目に感じていたことが、随分とちっぽけなことのように感じた。
「あっ、牡蠣やん! めっちゃ頭から抜けとったわ! ロマーノも牡蠣好きやんな? 買おうや!」
それにロマーノが答える前に、スペインは既に店員に話しかけ、牡蠣を買うところだった。そのスペインの自由さに、苛立たされることも多々あるが、羨ましいと思うことの方が多かった。何も考えず、手を握れるようなその自由さは、ロマーノにはない。牡蠣を買うためにスペインの手が離れるのを、ロマーノは名残惜しそうに見つめている。
変わらなければいけないのかもしれないと、ロマーノは思い始めていた。パートナーになれた時は、それだけで十分だと思っていたし、本物の恋人なんて望みすぎだとすら思った。けれどスペインが語る未来に、当たり前のように存在していられる存在になりたい。家の中であろうと、外であろうと繋ぎたいと思った時に手を繋いでいたいし、それが嬉しいのだと言えるようになりたかった。
本物の恋人になりたいと言ったら、スペインはどんな反応をするのだろうか。嬉しそうに商品を受け取るスペインの背を見ながら、ロマーノはそんなことを考えていた。
夜はスペイン料理三昧だから昼はスペイン料理以外でとスペインが言い、二人は久しぶりに中華を食べた。大体家でお互いの国の料理を振る舞うことが多いので、わざわざ外食をするのは久しぶりで、本当にデートみたいだと考え、ロマーノは一人で照れて赤くなった。
買い物はとても多くなり、盗難を防ぐために重い荷物を持って店に行き、また駐車場まで重い荷物を持って歩いている。明らかにスペインの方が荷物の量は多かったが、スペインは文句も言わず、むしろ自身から軽い荷物をロマーノに託してきた。普段なら荷物なんて絶対に持たないロマーノですら、あまりの多さに受け取らざる得なかった。すっかり二人の両手は荷物で塞がっている。
「何日分の食糧だよ……」
「今夜の二人分のご飯やん」
「絶対こんなに食わねえだろ……」
腐りやすいものから消化しなければと、荷物の中身を思い出しながらロマーノが一人で考えていると、ふいに「アントーニョ!」と声がした。決して珍しくない名前であり、本来なら二人とも無視するところだったが、スペインは普段人の前では『アントーニョ』と名乗っているので、思わず二人は足を止めて振り返った。
「やっぱり! アントーニョやんか!」
車道を挟んで反対側の歩道から、二人に向かって手を振っている女性がいた。アントーニョと名前を呼ぶぐらいなので、スペインの知り合いなのだろうと、ロマーノは隣にいるスペインを見た。しかし当のスペインはきょとんとした様子で女性を見ており、相手が誰かわかっていない様子だ。ロマーノがそんなスペインに呆れていると、車が途切れたのを見計らって、女性が道路を渡ってきた。
「アントーニョ! 久しぶりやなぁ」
「え? あー……久しぶり」
どうやら相手のことを忘れているらしいスペインは、気まずそうな笑みを張り付けた。しかし彼女は目ざとくそれに気が付いたのか、スペイン人らしいエキゾチックな顔を歪め、スペインを見上げた。
「さては……うちのこと覚えてへんやろ」
ダークブラウンの瞳が、非難するようにスペインに向けられる。途端にスペインの笑顔が引きつり、嫌でも彼女の言葉が事実だと悟らせた。
「ちゃ、ちゃうねん……え、えーっと……」
「ルシア! 忘れてるとかほんまひどいわ」
頬を膨らませて怒る彼女を見て、スペインはやっと彼女のことを思い出したようで、ああっと大きく声を上げた。
「ほんまや! ルシアやん! 久しぶりやんな〜!」
「ほんまに忘れとったんや……ひどいわぁ」
「ちゃうねん。ルシアいっつも髪上げとったやん? せやから今日はいつもと雰囲気ちゃうくて、気付かんかってん」
「ほんまかいな……」
これを言っているのが他の男であれば、適当なことを言ってる野郎がいるなと思ったが、スペインの場合は本気の可能性もあった。髪型が変わった程度でわからなくなる訳がないし、本当はとても失礼な言い方だとは思うのだが、スペインは不思議と本気で気付かなかったのだろうと思わせる雰囲気があった。とてつもなくアホだと思われているだけの場合もあるが、ルシアは呆れたようなため息をついて、スペインを許したようだった。
「まあ別にええけど……アントーニョらしいわ」
肩を竦めて笑ったルシアは、次にダークブラウンの瞳をロマーノに向けた。すっかり傍観者になっていたロマーノは、その視線でハッと我に返った。
「で? このイケメンさんはアントーニョの友達?」
「せやで〜! これがロヴィーノやねん」
「ああ……かわいい子分のロヴィーノくんな」
「……あ!?」
今までずっと蚊帳の外だったロマーノは、信じがたいことを耳にして声を上げた。スペインを見ると、嬉しそうに笑ってルシアに頷いているので、間違いなく彼女に変な印象を植え付けたのはスペインだ。
「おいコラテメェ、かわいいってなんだこの野郎」
「え? やって事実やん」
「事実じゃねーよバカ! かっこいいって言っとけよハゲ!」
殴りたくとも両手が塞がっているので、ただ睨みつけるだけに終わる。けれどそんなロマーノを見ても、スペインは「かわええなあ」と頬を緩ませるばかりだ。そんな二人のやり取りを見て、ルシアは声を出して笑った。
「うち、ロヴィーノくんのこともうちょっと知ってるで」
「え?」
「素直じゃないかっこつけの女好きで、ちっさい頃はおねしょしたのをリスのせいにしてたって……」
「テメェェェエエ!」
「えー! それこそ事実や……いたぁ!」
顔を真っ赤にして怒ったロマーノは、スペインの足を蹴り飛ばした。スペインは涙目になって痛がっているが、ルシアは相変わらずそんな二人のやり取りを楽しそうに見ている。恥ずかしくなって、ロマーノは拗ねたような顔つきで、ルシアを見た。
「そもそも、二人はどういう知り合いなん?」
ロマーノが流暢なスペイン語で尋ねると、ルシアはああと頷いて、まだ涙目を浮かべているアントーニョを見た。
「アントーニョが、うちの働いてるバルの常連さんやってん」
「はあ? お前こんな美人おんのに、なんでそのバル俺に黙っててん」
「うう……貴重なロヴィーノのスペイン語やのに、なんか胸に刺さるわあ……」
嘘泣きをするスペインを見て、ロマーノはわざとらしく大きな舌打ちをした。ロマーノがスペインの前で、こんなにスペイン語を話すのは随分久しぶりだ。スペインはロマーノがスペイン語を話すと大層喜ぶのだが、それが妙に気恥ずかしくて、意識してスペインの前では使わないようにしている。しかしかわいい女の子が目の前にいれば、それは別の話だ。
「でも最近はアントーニョが全然店に来ぉへんから、どうしたんやろって心配しとってん」
「そうなん?」
スペインに行きつけのバルがあることも知らなかったロマーノは、どうしてだという視線をスペインに向けた。するとスペインは、苦笑を浮かべて肩を竦める。
「堪忍なあ。最近色々忙しかってん」
「ほんまに?」
どこか不安そうにスペインを見つめるルシアに、ロマーノはおやっと目を見開いた。先程まではどちらかというと強気な様子で、楽しそうに話をしていたというのに、彼女は途端に態度を急変させた。まるで今までそれを閉じ込めていたようにすら見える。不安そうに揺れるダークブラウンの瞳は、ロマーノの中に嫌な予感を芽生えさせた。
「うちの事が嫌いになったからとちゃうん?」
「ええ? そんな訳ないやん」
「だって、前会った時……」
不自然に言葉を区切ったルシアは、隠すように顔を伏せた。そんな彼女の様子を見て、スペインはハッとして目を見開き、その場に固まってしまう。何も話さなくなった二人を見て、さっきロマーノの中で芽生えた嫌な予感が、確信に変わっていくのを感じていた。
黙り込んだ二人を、どうしたものかとしばらくロマーノは眺めていたが、ルシアが走ってきた方から、彼女を呼ぶ声がした。反対側の歩道へ顔を向けると、そこにはルシアの友達らしき女性たちが手を振っているのが見える。顔を上げたルシアは、慌てた様子でロマーノとスペインに振り返った。
「せ、せや! 友達待たせとったんやったわ! うち、もう行くな!」
道路を渡ろうと、二人に背を向けて車の流れを見るルシアの背中が心細そうに見えて、思わずロマーノは荷物を置いて彼女に駆け寄りたくなった。しかしロマーノがそうする前に、スペインが彼女へ一歩踏み出した。
「……ルシア」
優しくスペインが声をかけると、ルシアの肩が揺れた。振り返らなかったが、彼女に声は届いていたようだ。
「また店来たってや。店長も、常連のみんなも寂しがっとるから」
ブルネットの髪を揺らして、ルシアはゆっくりと振り返った。頬と鼻の頭を赤くして笑う彼女は、間違いなく綺麗という言葉を体現していて、それがスペインにだけ向けられていることが、ロマーノは気に食わなかった。
「……絶対やで」
そう言って、ルシアは車が途切れた道路を走って、友達のところに戻っていった。話しながら去っていく彼女たちを、スペインはぼうっと突っ立って見送った。背中が見えなくなってもまだ動こうとしないスペインを、ロマーノは睨みつけて、その尻を蹴り上げる。
「……いたぁ!」
「いつまでぼーっとしてんだハゲ! さっさと帰んぞ! 重いんだよヴァッファンクーロ!」
ずっと荷物を持ったままになっている手は、もう限界を迎えている。ロマーノが文句を言うと、スペインは我に返ったようで、慌てて頷いた。
「せ、せやね。はよ帰ろ。遅なってまう」
止めていた足を動かして、駐車場へと向かった。スペインもロマーノの隣に並んで歩き出したが、先程とは打って変わって二人の間に言葉はなかった。スペインがロマーノに気を遣っているという訳ではなく、スペインは先程のルシアのことで頭がいっぱいで、今はロマーノの優先順位が下がったというだけの話だ。
スペインは考え込むと周りのことが見えなくなる節がある。こうなってしまうと、スペインの中で解決しない限り、ぼうっとしたままになる。慣れてはいるが、なんともやりきれない気持ちに、ロマーノは小さくため息をついた。
(あんなベッラが泣いてたら、そりゃあそれ以外考えられないよな……)
関係ないロマーノですら、先程別れたルシアのことが忘れられなかった。涙は見せなかったが、彼女の赤くなった目と鼻先を思うと、恐らく顔を伏せている間に涙が浮かんできたのだろうということは、想像がついた。それでもスペインに涙を見せないのだから、良い女性であったことは間違いない。ぼうっとしていたスペインの尻をロマーノが蹴ったのは、ベッラを泣かせたからだ。あれは許せなかったし、単純な嫉妬でもあった。
昔のロマーノなら、きっと今頃は癇癪を起してスペインの気を引いただろう。ナンパに失敗ばかりしているロマーノと違って、素敵な女性と出会っているスペインに嫉妬もするし、スペインと親密になった素敵なルシアにだって、嫉妬する。あまりに複雑な自身の感情が抱えきれなくなって、泣いて喚いて、スペインに怒鳴り散らして、抱きしめられるのを待ったことだろう。
けれど、今のロマーノにそんなことは出来なかった。大人になったからではない。姿が大きくなった今でも、許せなければロマーノは怒鳴るし、泣き喚くし、理不尽にスペインへ八つ当たりもする。でも今回のことで、ロマーノにはそれが出来なかった。
ルシアを泣かせた一因を、ロマーノも担っている。それに気づいてしまった。だからロマーノは、ベッラを泣かせたスペインを一発しか蹴らなかった。本来なら荷物を投げつけて、頭突きもして、彼女の本当の笑顔を引き出せるまで帰って来るなと、追いかけさせていただろう。それが出来なかったのは、ロマーノの中に芽生えた罪悪感が邪魔をしたからだ。
ルシアはどんな顔で泣くのだろう。考えるべきではないのに、ロマーノはそのことばかりが頭を占めていて、どんどん胸が痛くなった。
荷物が多くてよかった。スペインと手を繋いでいなくて、本当によかった。ロマーノは、そう思うことで、少しだけ胸の痛みを和らげている。
家に帰った後、ロマーノはシエスタをして一時間程度眠った。最初はスペインも同じベッドで横になっていたが、眠れなかったのかすぐ起き上がって、部屋を出て行ったことをロマーノは確認したが、追いかけなかった。追いかけたところで、かける言葉もない。
ロマーノが起きてリビングに向かうと、スペインはキッチンに立って夕食の準備をしていた。買ってきたものでも相当な量だが、更にまだ料理を追加するようだ。ロマーノに気付かず、手際よく料理を続けるスペインの後ろ姿を見て、ロマーノは顔を歪めた。
「何作ってんだ……」
声をかけながらロマーノが近付くと、スペインは肩を揺らして、後ろに振り返った。
「ロマーノ! 起きたんか」
「ああ……お前、全く寝なかったのか?」
「うん。ちょお目冴えてもうて……」
ぽりぽりと頬を掻いて苦笑するスペインに、ロマーノは興味なさげに「ふうん」と頷いて、キッチン台を見た。見覚えのある大きな鍋と、並んだ食材を見て、ロマーノの頭にとある料理が浮かぶ。
「パエージャ?」
「そうそう。パエージャだけは親分が作ろうと思っとってん!」
「まあ……お前のパエージャ、そこらの店より普通にうまいしな」
長年スペインお手製のパエージャを食べてきたロマーノは、店で食べるとどうしても物足りなく感じて、パエージャだけはあまり外では食べない。ロマーノもスペインから作り方を学び、同じ食材で何度か作っているが、どうしても同じ味にはならなかった。
「ロマーノ!」
「ちぎっ」
突然大きな声を上げて、スペインはロマーノをぎゅうっと抱きしめた。驚いてされるがままになっているロマーノは、シエスタでぼんやりとしていた頭が、今の大きな声でようやく覚めてきた。
「うるっせえな! 急に抱きつくなカッツォ!」
「やってロマーノが嬉しいこと言うんやもん!」
ぎゅうぎゅうと腕ごと強い力で抱きしめられて、ロマーノは完全に抑え込まれ、抵抗出来ない。首元にぐりぐりと額を摺り寄せてくるスペインの髪がロマーノの首にふれ、こしょばさにロマーノの背が震えた。
「う、嬉しいって、何が」
こしょばさに言葉が途切れながらもそう尋ねると、やっとスペインは顔を上げた。何故か頬が赤くなって、嬉しそうに眉が下がっている。
「親分のパエージャが世界で一番うまいって……」
「世界で一番とは言ってねえ!」
「そう聞こえたんや〜!」
「ついに耳までおかしくなったのかハゲ!」
実際、ロマーノが今まで食べた中で、スペインのパエージャが一番うまいと思っているので、今のところ世界で一番なのは間違いない。けれど素直でないロマーノが頷くわけもなく、首を振って否定しても、もうスペインは聞く耳を持たない。
「はりきって作らんとあかんなあ! なんたって世界一やしな!」
「言ってねえ!」
「ロマーノは座って待っとってや!」
やっと抱きしめていた腕を離したスペインは、子供にするみたいに、ロマーノの頭を撫でた。いつもなら子供扱いするなと手を払いのけるところだが、ご機嫌なスペインは大体何を言っても、暖簾に腕押し状態になる。ロマーノは無駄な労力は使うまいと、スペインの好きなようにさせることにした。
「手伝わなくていいのか」
「ええねん。明日にはロマーノ帰ってまうし、最後の夜ぐらい親分のご飯食べてもらいたいねん」
最後の夜、という言葉にロマーノはドキリとして、スペインを見た。いつも以上にニコニコとしているスペインが、何か深い意味を持ってその言葉を口にした様子はない。ただ単純に、長い休暇の最終日という意味合いしか、含まれていないようにロマーノは感じた。
「……そうかよ。せいぜい俺の為に働けよな、親分」
「えっ!? 待って今のもっかい言ってくれへん!?」
親分と呼ばれたことが嬉しいのか、スペインはまたもロマーノに抱きつきそうな勢いで顔を近付ける。ロマーノがスペインを親分と呼んだことなど、今まであったかどうかという程度で、非常に貴重なことだった。
「うるせー! さっさと飯作れこの野郎!」
そう怒鳴って、ロマーノはキッチンと繋がっているリビングへ足を向けた。ソファに座って、特に当てもなくテレビをつける。キッチンからはスペインのご機嫌そうな鼻歌が聞こえてきて、とにかく機嫌がいいのがよくわかった。
暇なのでこれなら手伝っている方が良かったとすら思うが、しばらくすると食欲をくすぐるような匂いがキッチンの方から流れてくる。テレビに集中出来なくなってきたぐらいに、スペインからロマーノを呼ぶ声がした。
「あともうちょいで出来るから、皿出すの手伝ってや」
返事もせず立ち上がって、ロマーノは早足でキッチンへ向かった。既に買ってきたものを皿に移し終えたものを渡されて、ロマーノは文句も言わずにまたリビングへと戻った。何度か往復して料理を移動し終える頃に、湯気が立っているパエージャを、スペインがテーブルの真ん中に置いた。
それなりに広いテーブルだったが、全てスペイン料理で埋め尽くされており、見れば見るほど二人分の量ではない。スペインがキッチンへ戻った間に、ロマーノはテーブルを携帯のカメラで写真に収めた。
「食べよか〜」
リビングに戻ってきたスペインの手には、グラスが二つとワインが握られていた。ロマーノはスペインの手からすぐワインボトルを奪い取り、ラベルを確認する。そこに並んだ文字に、ロマーノはぎょっとしてスペインを見た。
「おまっ、マジかよ! 普通に上等なワインじゃねえか!」
「せやで〜。今日の為に奮発してん」
貧乏性という訳ではないが、スペインは一時期貧乏な時があり、それ以来あまり衝動的に大きな買い物をしなくなった。ロマーノが今手にしてるワインも、庶民が手を出せないほど高価なものではなかったが、それでも気安く人に振る舞うような安さではない。ロマーノであったら、上等なワインは一人でゆっくり飲んで楽しむために取っておくだろう。それをざわざ、ロマーノに振る舞う為にスペインは買ったのだと言う。
「……お前、どうした?」
「え? なんで?」
「いや、だって……」
テーブルに並んだ料理と、手の中にあるワインを見て、ロマーノは言葉に詰まった。スペインがロマーノに尽くすのは、別に今に始まったことではない。南イタリアがスペインに統治されていた頃は、特にロマーノはかわいがられていたし、独立した後でもスペインはロマーノの前で親分ぶった。だから今のようにスペインがロマーノをかわいがるのは、特におかしなことでもなかった。けれど何故か、ロマーノは今のスペインに違和感がある。
どうして特別な日でも何でもないのに、スペインがここまでのものを用意したのか。互いの国の記念日であったり、クリスマスなどの行事ごとで、料理が豪華になることや高いワインを開けることはある。けれど今日は、何でもない日だ。ただ休みが終わる少し前の夜というだけ。
何故こんなフルコースを用意したのか。ロマーノにはその理由がわからなくて、言葉が出てこなかった。けれどスペインはそんなロマーノの背中を優しく叩く。
「ええからええから。ほら、冷めてまうで。はよ食べようや」
肩を押して、スペインはロマーノをソファに座らせた。ワインボトルをロマーノから奪い、スペインはボトルの栓を抜いて、グラスにワインを注いでいく。ロマーノは腑に落ちない気持ちを抱えながら、いっそ黒に近い赤ワインがグラスに注がれていくのを、眺めていた。
「ほら、ロマーノ」
半分ほどグラスに注がれたワインを受け取って、ロマーノはスペインを見る。嬉しそうに目を細めてロマーノを見るスペインに、妙な後ろめたさを感じて、少し視線をずらしてワインを見つめた。
「乾杯」
傾けられたグラスに、ロマーノも同じようにグラスを傾け、淵を軽くぶつけた。チンっと甲高い音が二人の間に落ちる。
「……何にだよ」
笑ってロマーノが答えると、スペインは肩を竦めた。
「ええやん、何でも。強いて言うならこの佳き日に、やな」
何もめでたいことなどなかったが、スペインは楽しそうにそんなことを言った。でたらめなことを言うスペインを無視して、ロマーノはグラスに口をつける。良いワインであるはずなのに、不思議なぐらいあまり味がしなかった。そこでようやく、ロマーノは自身が緊張していることに気が付いた。
「うまいな〜! 久しぶりに飲んだけど、やっぱ値段は嘘つかへんわ。なあ、ロマーノ」
お前もそう思うだろう。
あまり味を感じていないロマーノの隣で、ワインを絶賛していたスペインは、そう尋ねてきた。ロマーノはどう答えるか迷い、何も言わずただ頷く。それぐらいしか、出来そうになかった。