ミッシング・ユニバース 09

イタリアに戻ってから、ロマーノはよく働いた。休暇明けということで仕事は溜まっていたし、何より仕事をしていると、余計なことを考えなくて済んだ。ロマーノは仕事をサボって、のんびりひなたぼっこをしながら眠るのが好きだが、最近はぼうっとする時間を極力なくすようにしている。
時間があると、スペインのことを考えてしまう。あれからスペインは、毎日のようにロマーノに連絡を寄こした。しかしロマーノがそれに応えたことはない。メッセージだけは目を通しているが、そのどれもが返信を期待するものばかりだった。話がしたい、返事をくれと願う文字を見つめ、ロマーノは罪悪感に苛まれつつ、端末の電源を落とした。電話がかかってくるとうるさくて眠れないので、睡眠前は電源を落としている。
着信拒否にしないのは、スペインとの繋がりを絶ってしまいたくないからだ。ロマーノからスペインの手を振り払ったが、いざスペインがロマーノに興味をなくして離れてしまうのを、恐れている。パートナーでいられなくなっても、せめて元親分子分という関係だけでも、繋げていきたいと思っていた。
ロマーノにはスペインしかいない。それを寂しく思う気持ちもあるが、ロマーノはそれでいいとも思っていた。スペインは相変わらず鈍感な男だったが、結局ロマーノのことを理解して受け入れてくれる相手など、スペインしかいなかった。それはこれから先も、きっと変わらない。だからロマーノは、スペインと距離を取ることがあっても、その関係を完全に断ち切ることは出来なかった。
しばらくスペインと距離を置いて、その間に新しいパートナーでも作っていれば、二人は前の関係に戻れるかもしれない。新しいパートナーなんてどうやって探せばいいか、ロマーノは見当もついていないが、ひとまず新しいパートナー探しを始める予定だった。
相手は女でも男でも、正直誰でもよかった。ロマーノはもうスペインに体を慣らされていて、セックスならどちらとも出来るようになっている。セックスすることが全てではないが、パートナーになるのにセックスなしで、というのを了承してくれる相手がいる気もしない。なので多少相手は見極めるが、ひとまずロマーノはもう誰でもいいかな、と思い始めていた。
だからといって、積極的に相手を探している訳でもなかった。Dom/Sub性は相手を見ただけでわかる訳ではないし、行政管理のマッチングアプリなども存在するようだが、面倒で登録もしていない。どうやって出会えばいいのかわからず、スペインと別れてから二週間が経過した今でも、ロマーノは相手らしい相手を見つけられないでいた。最悪、またプロのDomと契約すればいいか、程度の感覚だった。ただスペインと距離が置ければ、それでよかったのだ。
「ねえ、兄ちゃん」
ソファに座ってぼんやりとしていると、ヴェネチアーノがロマーノに声をかけてきた。その手には大きめのバッグがあり、出かけるのだというのは察しが付く。どうせまたドイツのところだろうなと、ロマーノは予想した。
「今日どこも出かけないよね?」
ソファに近付いて、ヴェネチアーノは首を傾げてそう尋ねた。
「いや、出かけるけど」
「えっ」
驚いた声を上げて目を丸めるヴェネチアーノに、ロマーノはむっとして顔を歪める。休日なのにどうして出かけないと思われているのか、納得出来ない。確かにロマーノは友人が多い訳ではないが、飲み友達だって普通にいる。むしろ国というしがらみがない方が、一緒にいて楽だと感じて、自身の態度が軟化するぐらいだ。
「どこいくの?」
「買い物」
「誰と?」
「ひとりでだよ! 悪かったなコンチクショー!」
「別に悪くはないけどさ……」
言い辛そうにしつつ、ヴェネチアーノは携帯を気にしていた。その意味がわからず、ロマーノは怪訝な表情のまま、首を傾げる。
「なんだよ。まさかじゃがいも野郎を家に呼んでんのか?」
「ち、違うよ。俺、今からドイツの家に遊びに行こうと思ってて……」
「おう。好きにしろよ」
ヴェネチアーノのドイツ好きには理解しかねるが、休日なのだから好きにすればいい。そう言って、ロマーノは立ち上がった。ヴェネチアーノが家を出るなら、昼も外で済ませるつもりだったのだ。
「俺もう出るけど、戸締りちゃんとしろよ」
振り返ることもなく、ロマーノは車の鍵を手に取って、玄関へ向かった。
「あ、うん……って、兄ちゃん! ちょっ……!」
どうせ空港まで送ってくれないのか、という文句だと思い、ロマーノは無視して外に出て、足早にガレージを目指した。迷うことなく愛車に乗り込み、逃げるように車を発進させる。ロマーノに、わざわざドイツに遊びに行くヴェネチアーノを、空港まで送ってあげるという優しさはない。
「ケッ。乗り遅れろバカ弟め」
実際本当に飛行機に乗り遅れて、ドイツに行けなくなったとしたら、それはそれで後味が悪いのだが、ロマーノの知ったところではない。そもそもヴェネチアーノも、初めからロマーノが送ってくれるなどと思っていないだろうから、ちゃんと飛行機に乗り遅れないように準備をしているはずだ。気にせず、ロマーノは車を走らせて、たいして遠くもないローマ市内を目指した。
平日は仕事があるのでいいが、休日になって何もすることがなくなると、ロマーノはよく外へ出た。前は家で何もせずゴロゴロしているのも好きだったが、今は家にいるより外の雑踏に紛れている方が、気分が楽になる。
賑やかな観光地から少し離れたところに車を停め、ロマーノは市街地へと足を向けた。パニーニを買って、食べながらショウウインドウを眺め、街を歩く。特に何が買いたいと言う訳ではないので、人の波に紛れながら、ロマーノはぼんやりと商品を眺めた。どれもよく見えるし、どれも必要ではないように思う。結局買うまでには至らず、ローマ市内をぶらぶらして、何も買わないまま体力を使うだけに終わった。
「疲れた……」
カフェのテラス席に座って、そう呟きながらカプチーノを口にする。今日は天気がよく、風もなくて外を歩き回っていても、寒すぎると感じることはなかったが、落ち着いて飲むあたたかいコーヒーは格別だった。ほっと白い息を吐きだして、イスに背を預けながら、行きかう人の波に目を向ける。
観光地が多く存在するローマ市街は、観光客で溢れ、賑わっている。普段はあまり市街に行きたいと思うこともないロマーノだが、今のように何も考えたくない時は、この騒がしさに救われている。
カプチーノを半分ほど飲み終えたところで、通路の向こう側に立っていた女性と、ロマーノは目が合った。ブラウンの瞳が、じいっとロマーノだけを一直線に見つめている。女性は瞳と同じ色で、ゆるいウェーブのかかった肩までの長さの髪を耳にかけ、腕を組んで壁にもたれている。すぐ隣には男がいて、必死に彼女へ声をかけていたが、まるでその相手が見えていないかのように無視していた。お世辞なく綺麗な女性は、長いまつげを数度揺らして瞬きした後、すらっと伸びる長い足を動かしてロマーノの方へ歩いてきた。
普段、女性からナンパをされることなど、ほとんどないロマーノは、近付いてきた女性が何を考えているのかいまいちわからなかった。見ていないで、ナンパしてくる鬱陶しい男をどうにかしろと文句でも言われるのだろうかと思いながら、どんどん近付いてくる彼女をぼんやりと見つめている。
「ねえ、あなた」
ついにテーブルまでやってきたその女性は、口元に笑みを作りながら、目を細めてロマーノに声をかけた。座っているロマーノのすぐ隣に立ち、テーブルに手をついて、ロマーノの顔を覗き込んでくる。丸いブラウンの瞳は、間違いなくロマーノを捕えていた。
「……こんな素敵な女性に声をかけられるとは、今日は最高に良い日だな」
心の声が、そのまま声となって形になった。女性は更に笑みを深めて、楽しそうにロマーノを見つめている。
「それなら、これからもっと良いことが起こるかもよ」
「それは嬉しいな」
女性はロマーノに許可を取ることなく、空いているイスを引き寄せて、ロマーノのすぐ隣に座った。その間も彼女はずっとロマーノの顔を見つめていて、目を離す気配はない。そんな彼女に笑顔で答えつつ、内心ロマーノは怪しいなあと訝しんでいた。
自身があまりモテないというのもあり、積極的に声をかけられると、何か裏があるのではと勘ぐってしまう。ローマとて、決して治安がいい場所ばかりとは限らない。こんな観光地で、明らかな現地人のロマーノを狙うのも謎だが、美人局ならありえない話ではない。綺麗な女性なら騙されたってかまわないとは思っているが、女性についていってムサイおっさんばかりに囲まれるのは、ご遠慮したいところだった。
「それで、君みたいなベッラが俺に何か用?」
「女に声をかけられて用を聞くなんて、野暮ね……って言いたいけど、そうね。用ならあるわ」
彼女は長い指を伸ばし、ロマーノの首をすうっと撫でた。爪が肌に食い込む感覚に、ロマーノは目を細める。首元を触られるのは、いくら綺麗な女性であろうと、緊張する。
「首輪、してないの?」
「……え?」
聞き間違いかと思い、ロマーノは聞き返した。けれど彼女は動じることなく、また口を開く。
「首輪。あなた、Subでしょ?」
尋ねている風ではあったが、彼女は確信を持ってロマーノをSubだと断言しているように思えた。そうでなければここまで遠慮なく近付いてこないだろうし、首にだって触れない。
言い当てられたことに目を瞠りつつ、あくまで冷静を装って、大袈裟に騒ぐことは避けた。
「どうして……?」
「見てればわかるわ。あなた、すごく物欲しそうな目をしてるもの」
どんな目なのか全く想像はつかないが、少なくともロマーノは彼女の言葉に、ひどく傷ついていた。全く見知らぬ他人から言い当てられるほど、物欲しそうな顔をしていたのなら、あまりに屈辱的だ。
「満たされてないSubは、みんな同じ目をしてるのよ。愛されたくて、支配されたくて、全身を欲で満たしてほしいって……あなたは特にわかりやすかったけどね」
言葉が出てこなかった。まるでこの場の空気を支配されたような感覚に陥って、指を動かすことも出来ない。そこでふと、ロマーノの頭の隅に、彼女はDomなのかもしれないという予感が生まれた。
彼女の自信にあふれた眼差し。迷うことのないその視線は、ロマーノを支配したくて仕方ないと、疼いているように見える。そもそもそうでなければ、Subと気付いても、ロマーノに声をかける理由がない。わざわざ男のSubであるロマーノをレイプしようなどと、下衆な考えが働かない限りは。
「ねえ、名前を教えて」
首にあった指先が移動して、カップを掴むロマーノの手に重ねられた。真冬のはずなのに、触れた彼女の手は興奮しているように熱を持っている。そして同時に、ロマーノの体も熱を持った。彼女がロマーノに、命令を下したからだ。
「私ね、今パートナーがいないの。だから……試してみましょうよ」
そっと彼女はロマーノの耳元に顔を近付けた。ローズ系の甘い香水のかおりが鼻をくすぐり、更に体は動けなくなる。ロマーノは目だけを動かし、まだ残っているカプチーノに視線を落とした。
「もし相性が良かったら……私の下僕にしてあげるわ」
耳朶に触れそうなほど近くで、彼女は囁いた。支配を与えるその言葉に、ロマーノの背が震える。体は確かに興奮を覚えていた。けれど頭では、これじゃないと拒否を訴えている。
美しい女性で、間違いなくロマーノの好みの女性なのだが、頭はそんな彼女を強く拒否した。この声ではない、この手ではない、この熱ではない。この支配ではないと頭が拒否するが、体は間違いなく興奮していて、そのちぐはぐさにロマーノは息を詰まらせた。呼吸がし辛くなり、視界がわずかにぼやける。
このままが続くと、ロマーノの意識が途切れてしまう。焦りを覚えた、その瞬間。
「ロマーノ!」
大きな声と、テーブルを強く叩く音がその場に響く。手に持っていたカップとソーサーも揺れ、すっかり冷たくなったカプチーノの残りが、テーブルに零れた。
そんなことを気にすることもなく、ロマーノは耳に馴染んだその声に反応し、はじかれるように顔を上げた。そこには、予想通りスペインがいる。真冬だというのに玉の汗が浮かんでおり、肩で息をしているスペインが、テーブルを叩いた体勢のまま、ロマーノを睨んでいた。
「ス……お前、なんでここに」
ロマーノと呼ばれたことで、反射的にスペインと呼んでしまいそうになったのを、慌てて修正する。スペインは息を整えつつ、服の袖で流れる汗を拭った。一度深く息を吐きだした後、やっと落ち着いたのか、改めてスペインはロマーノと向き合った。
「俺、今日行くって言うたやん!」
「……いや、聞いてねえけど」
「あ、せや……イタちゃんに言うてん。そしたらロマーノが家出たって聞いて、それで……」
ふと、家を出る時に慌てていたヴェネチアーノのことを、ロマーノは思い出した。送ってほしかったのではなく、家にいてスペインと鉢合わせたかったのだと、やっと気が付いた。
話している途中で、スペインはロマーノのすぐ隣に座っている女性を一度見た。複雑な表情になった後、またロマーノに視線を戻したスペインは、眉を吊り上げてロマーノを睨みつけている。
「帰るで、ロマーノ」
歩み寄ってきたスペインは、有無を言わさずロマーノの腕を引っ張り上げた。ヴェネチアーノからも、スペインからも、何も伝えられていないロマーノは、当然腹立たしいと感じている。けれど体も頭も、帰るというスペインの命令に安堵していた。待っていたのはこれだと、全身で感じていた。
「ちょっと」
スペインが掴んでいるのとは逆の腕を、放置されていた女性が掴んだ。引っ張られて、ロマーノの足が止まる。当然スペインも止められて、怪訝な表情でスペインは振り返った。
「何が起こってるの」
状況が掴めない彼女は、困惑した様子でロマーノとスペインを見ていた。正直なところ、ロマーノ自身何が起きているのかいまいちわかっておらず、どうしたものかとスペインを見る。ロマーノだって、どうしてスペインがイタリアにいるのか、理由はわからないままだった。
スペインは二人の視線を受け、少し迷ったように視線を彷徨わせていた。だがロマーノの腕を掴んだ彼女の手を見て、大きなため息をつく。スペインは手を伸ばして、彼女の手を離させると、そのままロマーノを抱きしめた。公衆の面前で。
「俺、こいつのパートナーなんだ! だから悪いけど、他当たって! ほんとにごめん!」
わざわざイタリア語で、周りの人たちにも聞こえるような声の大きさを持って、スペインは叫んだ。当然周りにいた人たちもロマーノたちのテーブルに注目する。スペインの腕に収まりながら、ロマーノは今起こった事態を飲み込むのに精一杯だった。
固まっている俺たち三人の沈黙を破るかのように、外野からヒューっと囃し立てる指笛が鳴る。それを皮切りに、周りから祝いの声や、女性を悲しませるなというヤジが飛ぶ。ロマーノは恥ずかしくて顔を上げられなくなってしまったが、男に男を奪われた女性は、更に辛い気持ちになっているのではないか。そう考え、スペインの腕を引き剥がして、顔を上げた。彼女の周りにはいつのまにか女や男が群がって、彼女を慰めている。中心にいる彼女は、不愉快そうに顔を歪めなら、ロマーノとスペインを睨みつけていた。
鋭い視線に震えているロマーノの腕を、スペインがまた掴んだ。人が集まり始めているその中から逃げ出すために、スペインはロマーノの手を引いて走り出す。
「ほんとにごめんなさい!」
走りながら謝罪を述べたスペインの背中に、またしても指笛が鳴る。誰が言ったのかわからないが、どこからか「幸せになれよー!」と声がした。応えることも出来ないまま、ロマーノはスペインに引っ張られるままに走った。逃げ足は速くとも、持久力のないロマーノは、スペインに着いて行くのがやっとだった。
しばらく走って、もう店の姿なんて全く見えなくなったところで、スペインはやっと足を止めた。荒い息を漏らしつつ、スペインはスプレーで落書きされた壁に背を預け、息を整えている。その間も、ロマーノの腕を離そうとはしなかった。
ロマーノは仕方なく、スペインのそばに立ちながら、膝に手をついて息を整える。さっき駆け付けたスペインと同じように、ロマーノの頬にも玉のような汗が流れ落ちていた。道の脇で息を整えている二人を、通り過ぎる人たちは不思議そうに見ていたが、声をかけてくる者はいない。
しばらくしてやっと落ち着いたスペインは、バッグからペットボトルの水を取り出した。それをロマーノに向かって、無言で差し出してくる。ロマーノは意味が分からず、スペインとペットボトルを交互に見てから、首を横に振った。
「いや、いらねえけど……」
「ん」
「だから……」
「ん!」
「…………」
ぐいぐいとペットボトルを押し付けてくるスペインは、ロマーノの顔を見ようともしない。あからさまに怒っているポーズを取るくせに、水を飲ませようとしてくるのだから、結局甘いよなとロマーノは思う。仕方なくペットボトルを受け取って、二口だけ飲んだ。
「ほら、飲んだぞ」
怒ると口数が少なくなるのは、スペインの特徴だった。特に今は街中だから、言い合いをするわけにもいかないと思っているのだろう。スペインは大人しく蓋が開いたままのペットボトルを受け取り、一気にそれを飲み干した。その勢いを見ると、もしかしたらスペインはロマーノを探し回っていたのかもしれないと思いつく。当然のように携帯の電源は落としているので、スペインから連絡があったのだとしても、ロマーノは気付かなかった。
「車、どこに停めたん」
近くにあったゴミ箱にペットボトルを捨てると、スペインはロマーノの顔を見ずにそう聞いた。ロマーノもぶっきらぼうな物言いで場所を答えると、スペインは何も言わずに、ロマーノの腕を引いて歩き出す。その足取りに迷いはない。スペインもよくローマに遊びに来るので、今更市街で迷うことなどなかった。
ロマーノは腕を引かれつつ、無言で進んでいくスペインの背中を見つめた。そうしていると、ロマーノの目に涙が滲む。怒っているスペインが怖いからではない。
新しいパートナーを探すロマーノにとって、さっき出会った女性は、まさしく理想だった。Domの女性で、ロマーノに興味を持っていたのだ。出会い方がわからなかったロマーノにとったら、最高のタイミングだった。
なのにロマーノは、それを拒否してしまった。抱きしめられた時、スペインの腕を払って、彼女の手を取ることだって出来たはずなのに、ロマーノは抱きしめられる腕の心地良さに身を預けた。この腕の中にいたいと、思ってしまった。
スペインから離れると決意したはずなのに、自身の意志の弱さに涙が出る。嫌悪感を出だしてしまった彼女への申し訳なさと、まだパートナーだと呼んでくれるスペインへの安堵感で、ロマーノの心の中はぐちゃぐちゃだ。
腕を引かれながら、ロマーノは声を押し殺して泣いた。ロマーノが袖で涙を拭うたび、腕を掴むスペインの手に力が込められたが、スペインがロマーノに振り返ることは一度もなかった。



帰りの運転をしたのはスペインだった。お互い国際免許を持っていることもあり、自国でなくとも運転することは可能だ。特にスペインはイタリアでの運転はたまにしており、荒いイタリア人の運転に負けず劣らずの運転で、道路を走り抜ける。ロマーノもスペインの運転には慣れているが、愛車が傷だらけにされるのではと、運転中はずっとハラハラしていた。
一時間もかからず家に帰ってきて、駐車ですら荒いスペインに促され、ロマーノは車を降りた。車のロックをかけると、スペインはすかさずロマーノの腕を掴んで、玄関まで引っ張っていく。逃げない為にだろうが、ロマーノの腕を掴むスペインの手の力は強い。
ロマーノはデジャヴを感じていた。数か月前もローマでスペインと会い、怒ったスペインに腕を掴まれたまま家に連れていかれ、Subになったと告白した。二人がパートナーとなった夜のことだ。家の鍵を開けつつ、ロマーノは同じことを繰り返している自分たちがおかしくて、笑った。
「……なに笑ってんの」
「前にも同じようなことがあったなあって思ってな」
玄関のドアを開きつつ、ロマーノは腕を掴んでいるスペインを振り返った。笑ったことが気に食わないという様子で、顔を顰めているスペインに、中へ入るようを勧めた。スペインは納得していない様子ではあったが、文句なく家の中へと入った。ロマーノが後ろ手にドアと鍵を閉める音を聞いて、リビングへと続く廊下を歩くスペインに、ロマーノは着いて行った。
リビングに着き、ソファにバッグを投げたスペインは、やっとロマーノに振り返った。スペインからは表情が抜け落ち、細められた目が冷たくロマーノを睨みつけている。
スペインが怒った時、それが表情に出ている時はまだいい。怒っているというポーズを取って、喧しく騒いで満足すると、すぐ機嫌がなおる。しかし今のように無表情になるのは、本気で怒っている時だけだ。振り返ったスペインが無表情だったことに、ロマーノはわずかな焦りを覚える。
「お前に……」
しばらく二人の間に漂っていた沈黙を破ったのは、スペインの硬い声だった。ロマーノの肩がびくりと揺れ、それに反応してスペインは一度言葉を区切った後、また口を開いた。
「お前に言いたいことも、聞きたいこともいっぱいあんねんけど……これだけは先言うとくわ」
腕を掴む手に力がこもる。痛むはずなのに、ロマーノはスペインから目を逸らせなかった。
「お前のパートナー、絶対やめへんから!」
眉を寄せ、少し声を荒げたスペインの顔は、まるで泣くのを我慢しているように見える。無表情が崩れて見えたその表情に、ロマーノは言葉を失ってしまった。
(お前がそんな顔、するなよ……)
まるで捨てられた子供のような、寂しそうな顔。そんな姿を、今までスペインがロマーノに見せたことはなかった。ロマーノはたまらなくなって、掴まれていない方の手を伸ばして、スペインを抱き寄せた。スペインは抵抗せず、されるがままになっている。
柔らかいくせ毛に指を通し、まるで子供をあやすようにロマーノがスペインの頭を撫でると、スペインは鼻先をロマーノ首元に摺り寄せる。しばらくそこでじっとしていたが、急にスペインはロマーノの首元に嚙みついた。
「痛っ……! なに、すんだ!」
撫でるのを止め、ロマーノはスペインの髪を引っ張って、引き離そうとした。けれどスペインは離れず、更に歯を食い込ませる。痛みに顔を歪めつつ、足元がふらついて、ロマーノは後ろにあったソファに座り込んだ。それでもスペインはまだ、嚙みつくのをやめない。
「ス、ペイン……やめ、ろ……!」
歯を押し当てられているその真下に、恐らく太い血管がある。そこを押さえられたことによって、どくどくと耳元で鳴っているのではないかと思うほど大きく、脈打つ音がする。ロマーノは息苦しくなりながら、首を引きちぎられるのではと、ぎゅっと目を閉じて震えていた。
しばらくして、痛みが和らんだ。ロマーノが目を開くと、首から口を離したスペインが、忌々しそうに噛みついた部分を見つめていた。わずかに唇が赤く濡れていることに気付いて、ロマーノは自身の首から血が出ているのだと察しがつく。途端に、噛まれた部分がズキズキと痛んだ。
「あの子、首触っとったやろ」
ぽつりと零したスペインの言葉に、ロマーノはぼんやりする頭で、先程会った女性のことを思い出した。スペインが噛んだ場所は、確かに彼女の指が触れた場所だった。
「……だったらなんだよ」
「他にどこ触られたん」
「どこも触られてねえ……痛っ」
スペインが耳たぶを噛んだ。痛みに声を上げつつ、彼女が耳元で囁いていたことを思い出した。首と違って、耳たぶは噛んだだけで、すぐ離れていく。ロマーノを見下ろすスペインは、怒っている様子はなかったが、にこりと場の空気に似つかわしくない笑顔を浮かべている。
「嘘はあかんなあ。他にもあるやろ?」
続きを促すように、スペインの指がロマーノの唇を撫でた。ロマーノは必死になって、彼女とのやり取りを遡った。首以外に触れられたところがあっただろうか。必死に考え、やっと思い出した。ロマーノは結局、抑えられたことによって、カプチーノを全て飲むことが出来なかったのだ。
「……手」
正解だと言うように笑みを深めたスペインは、腕を掴んでいた手を解き、代わりにロマーノの手を握った。そのまま、ロマーノの指にキスを落とす。まるで忠誠を誓うようなその態度に、ロマーノの頬に熱が灯った。
「ロマーノ、あの子に命令されたん?」
ロマーノは何も答えなかった。彼女に命令はされた。しかしロマーノはそれに応えられなかった。体が拒否していた。だが実際に命令はされていたので、どう答えるべきか迷って、言葉にならない。
「……あかん子やね」
叱るような口ぶりではあったが、それでもスペインは笑ったままだった。握っていたロマーノの手に指を通し、しっかりと繋ぎ合わせる。スペインはそれを見て更に満足そうに笑い、ロマーノを見た。
「おしおきや、ロマーノ」
ぶるっとロマーノの体が震えた。緑の目に見つめられると、ロマーノの息が乱れる。これからされることが怖いどころか、想像をすると、ロマーノの体は簡単に熱を灯す。寝室へと導くスペインに、ロマーノは従順に頷いた。