恋よ、前進せよ 06
もう一度ロマーノを振り向かせると宣言しただけあって、スペインの行動に遠慮が無くなった。気が向くと電話がかかってきて、そのたびに次会える日程を確認してきては、予定がなければイタリアかスペインのどちらかで会う約束をする。スペインが仕事でイタリアに赴いた際、短い時間だけでも会いたいと汗を光らせて、ロマーノの前に現れた時は不覚にもロマーノの胸がときめいた。それに加えロマーノの顔を見るや否や、本当に嬉しそうに笑うものだから、ときめきはさらに加速する。ロマーノは大の女好きであり、ましてやもう見飽きたスペインの顔だというのに、どうしてか胸を打つ鼓動の音は激しくなるのだ。
恋ってものは盲目だ。ロマーノはつくづくそう思う。スペインの容姿が良くないということではなく、容姿で好きになったはずではなかったのに、恋をしてしまえば仕草ひとつで胸が跳ねてしまう。
「なんだかな〜……」
手に持ったスプーンを揺らしながら、ロマーノはひとりごちた。対面に座っているスペインは当然それを聞き逃すことなく、不思議そうに首を傾げた。
「なにが?」
訪ねるスペインは少し身を乗り出して、真っ直ぐロマーノを見つめている。首を傾げることで少し幼く見えるその仕草ひとつでも、かわいく感じてしまうのだから重症だ。生粋のイタリアっ子が大の男を捕まえてかわいいだなんて、口が裂けても言えないし、そう思ってしまった事実を口にするのも嫌だった。
ロマーノは「なんでもない」と首を振り、皿に残っていたパエージャを全て食べきってしまう。食事の最中とは思えない仏頂面で咀嚼しているロマーノだったが、スペインはそんな姿を見てもにこりと笑って嬉しそうだった。
「なんもないならええわ」
優しいその微笑みに、不覚にもロマーノの頬が赤く染まった。しかしスペインは気にした様子もなく、食事を再開する。ロマーノはそっとスペインから目を逸らし、何を見るでもなく周りのテラス席に視線を流した。
テラス席を見ていると、ちらちらとこちらに投げかけられる視線がいくつかある。そのどれもが女性のものだった。それにロマーノは内心、チッと舌打ちする。彼女たちの視線の先は、残念ながらロマーノにではなく、能天気そうな笑顔で食事を続けているスペインに向けられている。それは合流した空港からそうであった。
お互いに予定がない休日に、ロマーノはスペインの地へ降り立った。前もって約束を取り付けていたので、スペインが空港までロマーノを迎えに来るという好待遇である。
しかし待ち合わせ場所に辿り着いたロマーノが目にしたのは、女性二人からナンパされているスペインだった。
『お兄さん、スペイン詳しいなら案内してよ』
『スペインを案内させたら俺の右に出るヤツはおらんで! けどごめんなあ。予定あんねん』
『え〜……夜もダメ?』
『悪いけど……って、あ! ロマーノ!』
ロマーノを視界に捉えたスペインは、満面の笑顔で手を振りながらロマーノに駆け寄ってくる。置き去りにされた女性たちは、その姿を見るや否や「ゲイか」「時間無駄にしたね」と言いあいながら、踵を返して去ってしまった。四人でスペイン観光というロマーノのささやかな夢はあっさり砕け散ったのだった。
しかし問題はそこではない。空港内を移動している間も、ロマーノにずっと話しかけ続けているスペインに、いくつか視線が寄せられていた。その事実に気付いたロマーノは、いつものようにスペインと話し込むことも出来ず、スペインが色んな女性、たまに混じる男からの視線を集めていることに愕然としていた。
(スペインがモテている……)
そもそもスペインの人当たりの良さは人を惹きつけるが、あまりファッションに頓着しない性質だったので、見た目だけで今ほど人を寄せ付けることはなかった。
しかし今のスペインは、ロマーノにかっこいいと思われたいがために、最大限にオシャレをしている。そのせいで、スペインの元来からあるかっこよさが引き立っているのだ。ついでにスペインの鷹揚な態度に惹かれ、空港からバルに移動する間、ずっと色んな視線がスペインを見つめていた。
普段からもう少しオシャレに気を遣えばいいのにと思っていたロマーノは、今回の変化は自身にとってもいいことだと思っていた。しかしここにきて、たくさんの弊害が生まれている。
(面白くねえぞ、こんちくしょーが……)
ロマーノの仏頂面の理由はそれである。ただただスペインがモテるのが面白くない。それはかわいい女性たちの視線を独り占めしていることも腹立たしいが、スペインのことを周りがちやほやすることも許しがたい。しかしスペインは最近、ロマーノと会う時は必ずオシャレをしてくるのだ。
「……お前さあ、最近ずっとそういう格好してるよな」
「そういう格好?」
ついに完食したスペインは、不思議そうにしつつ自身の体を見下ろした。今日は水色のワイシャツにネイビーのニットを重ね着しており、生意気にもニットはロマーノも知っているブランドのロゴが入っている。
今までブランド物などこだわりを持っていなかっただろうがと、そのロゴがロマーノの苛立ちを加速させる。加えて絶対に持っていたなかったベージュのコートが、またよく似合っているのだから腹が立つ。
「気取った格好だっつってんだ。カッツォ」
「ああ……かっこええ?」
しかも理由がこれである。ただロマーノにかっこいいと思われたいがために、今まで興味がなかったはずのオシャレを勉強したというのだ。それを嬉しいと思っているからこそ、ロマーノはもういてもたってもいられない。
(俺の為にかっこつけてんのに、他のヤツにまでモテてどーすんだ! ふっざけんなスペインコノヤロー! かっこよくなってんじゃねえ!)
と、素直に叫べたら楽でいいが、そういう訳にもいかない。ロマーノにも体裁というものがある。モテているのが羨ましいと喚くことの、なんと格好悪いことか。
「お前がかっこいいかどうかはさて置き」
「ええ、置かんといてよ」
「お前はなんでかっこいいと思われたいんだ」
「え? お前に好きになってほしいからやん」
今更何を言っているんだといいたげな様子のスペインに、ロマーノはぽっと頬を赤くした。スペインが格好つけたい理由は当然知っていたが、惜しげもなく好きになってほしいと伝えられたことに、ロマーノは少し照れていた。
照れ隠しで不機嫌そうな表情になっているロマーノを見て、スペインは首を傾げる。今の答えに何か不機嫌になるところがあっただろうかと。
「……わかってねえな」
低くそう呟いたあと、ロマーノは鋭くスペインを睨みつけた。しかしそれにスペインが怯むこともない。
「なにが?」
不思議そうに問いかけられ、ロマーノはふんぞり返って腕を組んだ。その頬は相変わらず赤いが、スペインを見る目は鋭いままである。
「俺がお前に好きだって言ってた頃、今みたいに俺の前でかっこつけてたか?」
じっとロマーノがスペインを見つめる。スペインは目を丸めてまばたきをした後、何かを思い出すように明後日の方へ視線を向けた。
「……つけてないなあ」
「そうだコノヤロー。今更かっこつけたって手遅れなんだよ」
いわゆる黄金期と呼ばれた頃のスペインは、その名に相応しい華美な恰好をしていた。それはスペインが好んでしていたというより、当然の嗜みであった為だ。
それを理由に、生活が苦しくなるとスペインはあっさりと、見た目を着飾るだけのものを脱ぎ去ってしまった。自身のことより子分のロマーノを優先するのだ。親分のスペインが着古した襤褸い服を纏っている横で、ロマーノが新しく服を仕立ててもらっていたこともある。
そういうスペインであったから、ロマーノはスペインの元から独立しても、彼をどうでもいいと思えない。そしてそういう優しさを持つスペインであったから、好きになってしまったのだ。
「お前の見た目なんてどうだっていいんだよ、こっちは。わかったかハゲ」
外見だけで好きになった訳ではない。外見も性格も共に歩んできた時間、全て何もかも含めて、ロマーノはスペインを好きになった。だから見た目がかっこよくなろうが、本当にハゲてしまったって、今更ロマーノの気持ちは揺るがないのだ。
「それって……」
どこか呆然として、スペインは呟いた。その様子にロマーノが怪訝そうに顔を顰めると、スペインはガタっと音を立てながら勢いをつけて立ち上がった。
「どんな親分でも好きってこと……!?」
「そっ、そうは言ってねえだろアホ!」
慌てて訂正するが、まるで図星を指されている気がして、ロマーノの顔は真っ赤に染まった。それを見て、スペインは更に嬉しそうな笑顔になる。
「俺も、どんなお前でも好きやで」
「も……!? も、って、おま、お前……!」
一度もロマーノは好きだと言っていない。だというのに、スペインはまるで想いが成就したかのように、目を細めて微笑んでいる。ロマーノはそんなスペインが見ていられなくなり、勢いよく立ち上がった。
「か……帰るぞ!」
「えー? まだコーヒー飲み終わってないやん」
「知るか!」
文句を言うスペインに振り向かず、ロマーノはひとり席から離れた。スペインは慌てて残りのコーヒーを飲み干して、近くを通ったスタッフに金だけ渡してロマーノを追った。
足早にスペインの街を進むロマーノに追いつき、スペインは浚うようにロマーノの手を取る。
「うっ……!」
手を掴まれたことに呻き声をあげ、ロマーノはぴたりと足を止めた。相変わらず赤い顔のまま、手を掴んだスペインを睨みつける。しかしスペインは変わらず笑いながら、掴んだ手をまるで恋人がするような手繋ぎにしてしまう。
「じゃあ帰ろか」
「お、おまっ、お前! これ、このっ……手!」
繋がれた手をぶんぶんと振っているが、スペインの手が離れる気配はない。ロマーノが意地になって手を振っても、スペインは腕を揺らしているだけだ。
「ええやん。繋いで帰ろ」
「よくねー!」
「ほら、行くで!」
手を引っぱられ、ロマーノはつんのめりながらスペインに引かれていく。離せやめろとロマーノが騒いでも、聞く耳も持たずスペインはご機嫌な様子でバス停まで向かっていた。ロマーノは、繋がれた手と嬉しそうなスペインの横顔を交互に見つめ、ついに抵抗することをやめてしまう。
今も周りからの視線を感じるが、スペインがナンパされるぐらいなら、恋人だと勘違いされている方がよかった。それはロマーノの小さな独占欲である。
せめてバス停まではと思いつつ、ロマーノはほんの少しだけ、繋がれた手に力を込めるのであった。
昼食を食べてから、ずっとスペインは上機嫌であった。ロマーノの「どんなスペインでも好き」という言葉をずっと喜んでいる。
そんなことを言った覚えのないロマーノは、上機嫌なスペインに「そんなこと言ってない!」とずっと否定していたが、最早スペインはそんなこと右から左である。嫌なことはスルー出来るし、嬉しい方に聞き間違えられるのだから、随分とスペインに都合のいい耳である。
家に着いてからも上機嫌なスペインは、シエスタするのもぴったりロマーノに引っ付いて、寝る気があるのか不思議に思うほどニコニコしていた。目が覚めた時は珍しくスペインの方が早く起きており、ロマーノの寝顔をこれまた嬉しそうに眺めていたのだ。
「……気色悪いんだよ!」
「なんでや〜見てただけやん」
「逆のこと考えてみろよ! 目が覚めて、俺がお前の寝顔をニヤニヤしながら見てたら嫌だろ!?」
飛び起きたロマーノはベッドから降り、スペインから距離を取って罵った。寝顔を眺められているなんて考えると、恥ずかしすぎて居ても立っても居られない。
体を起こしたスペインは、ベッドの上に座りながら考えるように首を捻った。
「めっちゃ嬉しいけど?」
「……この変態!」
「なんでや。目ぇ覚めて最初に好きな人の顔見れたら、めっちゃ嬉しない?」
「すっ……!」
怒鳴ろうとしたロマーノが、息を詰まらせて固まった。スペインは今のように、ロマーノを好きであることを隠すことなく、はっきりと言葉に出来る男であった。そう言われるたび、どうしてかロマーノの方が照れてしまう。
どんどん顔を赤くしたロマーノは、見られまいと顔を伏せる。そんなロマーノに笑みを深め、スペインは手を伸ばしてロマーノの腕を掴んだ。はっとするロマーノの腕を引き、ベッドに引き戻す。
「う、わっ……!」
バランスを崩したロマーノの体を抱き止め、スペインはロマーノの体を後ろから抱きしめる。膝の上にロマーノを乗せ、首筋に顔を埋めながら回した腕に力を込めると、ロマーノはびくっと体を固くした。
「なっ、なに、なにを……!?」
首筋にスペインの息が触れる度、ロマーノの体はびくびくと跳ねる。その反応に気付きつつ、スペインはロマーノが大人しいのをいいことに、耳に唇を寄せた。リップ音を立てながらキスをすると、ロマーノは背筋を伸ばしながら「ひっ」と短い悲鳴を上げる。気にせずスペインは届く範囲に唇を落としていった。
「ちょ、ま……まっ、まって……」
言葉だけが助けを求めている。体はひたすら混乱していて、壊れたみたいに心臓の音が激しく鳴り、固まっているだけでロマーノは逃げることも出来ない。どうすればいいかもわからず、ひたすらキスされているこの状況に、だんだんロマーノの目には涙が浮かんできた。
「はあ〜……ほんま好き」
しばらくして満足したスペインは、ため息をついて腕の中の体を強く抱きしめた。結局強い拒絶も抵抗も出来なかったロマーノは、涙を滲ませながらキスの雨が止むのを、じっと耐えるしか出来なかったのである。
ちらっとスペインがロマーノの顔を覗き見ると、涙が浮かんでいることに気付いて苦笑する。顔を近付けて、優しく頬ずりした。
「泣かんといてやあ。俺くっつくの好きやねん」
「な、泣いてねーよ!」
「ほんま? ならもっとしてもええ?」
「も、もっと……!?」
ぎくりとして、ロマーノは肩を強張らせた。今でも十分ロマーノの許容を越えているが、スペインは更にロマーノをどうにかしたいと言う。
ロマーノは恐る恐るといった様子で、スペインに問いかける。
「もっとって……何するんだ……?」
伺うようにスペインの方へロマーノが振り返ると、すぐそばにあったスペインの顔が更に近づいた。驚いて「ひっ」と小さく悲鳴を上げたロマーノの頬に、スペインがキスをする。軽く吸い付いてすぐに離れると、スペインは子供のような無邪気な顔で笑った。
「ロマ、びびりやなあ。ほっぺのキスなんか、いっつもやっとるやん」
「そ、そ、そりゃ、そう、だけど……!」
キスされた頬を手で押さえ、逃げるようにまたロマーノは顔を背ける。そうしているとスペインはまた首筋に唇を落とし、ロマーノはまた小さく悲鳴を上げた。
いちいち敏感に反応するロマーノに、スペインは喉を鳴らして愉快そうに笑う。おちょくられている現状に怒りこそ湧くのだが、それでもロマーノはそんなスペインを怒鳴りつけることが出来なかった。
(嬉しいとか思ってる自分自身が、一番恥ずかしすぎるぞちくしょー……)
恋人のような触れ合い方をしてくるスペインに戸惑うのに、ずっと片想いをしていたロマーノはそんなことが嬉しくて、拒絶出来ない。拒絶されないのならと、スペインは遠慮なしにロマーノを抱きしめたりキスしたりと、好き放題だ。もういっそ、恋人でないことが不思議に思える距離感である。
「真っ赤になって。かわええなあ」
嬉しい。けれど恥ずかしくもある。だけど拒絶したくない。
相反する気持ちを抱えつつ、じっとスペインの接触を甘受していたロマーノの赤い頬を、スペインが指で突いた。つんつんと頬の弾力を味わうような指の動きは、ロマーノがまだ小さかった頃に何度もされた記憶がある。つい昔のことを思い出してしまい、条件反射のようにロマーノはスペインへ振り返った。
「なにしやがんだこのヤロ……うっ!」
振り返ったその瞬間、またしてもスペインがロマーノの頬にキスをした。さっきのようにびくっと大げさに反応するロマーノに、スペインはにこにこと笑うばかり。そしてそんな笑顔を見るたび、やっぱり好きだとロマーノは思い知らされた。
(泣きそうなぐらい幸せだ……)
今起こっていることは全てロマーノの夢だと言われた方が、まだ納得がいく。それぐらいロマーノにとって想定外のことで、一生叶わないものだと思っていた。けれどロマーノに触れてくるスペインのあたたかい手は、間違いなく現実そのもので、本物なのだと実感するたびロマーノの目にじわりと涙が滲んだ。
スペインは勘違いしているが、ロマーノが泣くのは驚いているからでも、怖いからでもない。この現実が嬉しすぎて、自然と涙が溢れてくるのだ。
(そうだ……数か月前の俺は、こんな未来があるなんて信じられなかった)
現実逃避をするようにゲームに没頭して、恋という感情からずっと目を逸らす道を選んだ。日本という友人とゲームを楽しんでいれば、悲しいことや苦しいことは自然と薄れて、楽になれると思っていた。
そんなロマーノを現実に引き戻したのは、他の誰でもないスペイン自身であった。寝不足で痛む頭を押さえつつ、鼻息荒くナポリの家を訪ねてきたスペインを迎えいれた日のことが、ロマーノの頭に浮かんだ。
『お疲れ様でした、ロマーノくん……』
疲労の色を滲ませた日本の声に、ロマーノも同じように疲労困憊を隠さず返事をして、通話を切った。
手に持っていたコントローラーを雑にテーブルへ投げ、腕を天井に向けて伸びをする。首を左右に動かすと、数回骨が悲鳴を上げた。そんなロマーノの目は赤く血走り、目の下は隈がうっすら浮かんで、疲れ切った顔つきである。
週末に日本とゲームをすることはすっかり恒例になっている。しかし今のように疲労が最高潮に達するまでゲームをすることは滅多にないのだが、時に二人は睡眠を削ってまでゲームに齧りつきになる時がある。
期間限定のイベントというものが始まった時だ。その期間限定のイベントとは、決められた期間の間にゲーム内でイベントが始まり、それに参加することでキャラクターの衣装や武器、装備品などを無償で手に入れることが出来るのだ。イベントに参加してストーリーを楽しむだけであれば何も苦しくはないのだが、武器や装備を全て手に入れようと思うと、苦しい戦いの火蓋が切って落とされる。
ロマーノはそのゲームのフレンドは日本しかおらず、イベントが始まると二人で協力してなんとかイベントを完走していた。しかし二人の合う時間は週末の休みの日しかないので、平日の遅れを取り戻すように週末は徹夜してイベントを終わらせるのだ。
「……人間だったら死んでんじゃねえの、俺」
今回は三徹であった。ただの徹夜であれば今ほど辛くはないのだが、ずっとモニターを見ているせいか目は乾いて痛み、血走っている。ずっと頭痛はしているし、ボタンを操作しすぎて親指も赤くなって、鈍い痛みを訴えていた。
ゲーム自身は楽しいし、イベントで貰えるアイテムだってほしい。しかしゲームにどうしてここまで疲れなければならないのだろう。イベントが終わるたび、痛む頭を押さえながらロマーノはいつもそう思うのであった。
本当ならシャワーを浴びてスッキリしてからベッドに入りたかったが、そんなことよりロマーノは今すぐ寝たかった。テーブルと床に転がるエナジードリンクの缶や、インスタントのゴミなどを見つつ、ロマーノはため息をつく。ダメ人間の部屋だが、片付ける気力もなかった。立ち上がってベッドに行くのすら面倒くさい始末である。
そんな怠惰を背負うロマーノの耳に、チャイムの音が届いた。ソファに腰かけながら、玄関の方へちらっと顔を向ける。玄関まで行くのが面倒くさくて、立ち去ってくれるのを待っていたが、そうしている間にもう一度チャイムが鳴った。それをもう一度無視すと、またしてもチャイムが鳴らされる。
ここまでくるとよほど急ぎの用事で、上司が家にやってきたとしか思えなかった。ロマーノは深くため息をつき、目元を指で揉んで立ち上がる。とてつもなく出たくなかったが、渋っていても永遠にチャイムを鳴らされる予感がした。
ロマーノはゆっくりした歩調で玄関までの短い廊下を進み、もう一度鳴ったチャイムに返事をしながらドアを開いた。
「へいへい。休みですよこんちくしょー……が?」
ドアを開けた先にいる相手を目にして、ロマーノは片眉を跳ねさせながら固まった。
「ロマーノ! 久しぶりやな!」
笑顔で片手を上げたスペインを見て、ロマーノはごしごしと目を擦った。しかし霞んだ視界の先には、さっきと変わらずスペインが立っている。
「……うわ、幻覚じゃねえ」
「げ、幻覚? というかお前、どないしたん?」
様子を伺うように顔を覗きこみ、スペインはロマーノの頬を撫でた。急に撫でられたことにびくっと肩を跳ねさせつつ、あたたかいスペインの手の平に、ロマーノは目を細めた。三徹して緊張していた体が、自然とほぐれていく。
「えらい疲れてるやん……隈まで作って……」
親指が隈をなぞる様に、目の淵を撫でた。それにほっとしつつ、ロマーノはスペインの心配した声色を聞いて、なんと答えるか動きの悪い頭を捻って考える。馬鹿正直にゲームをしていたと答えれば、体調を崩すまでゲームなんかするなと、尤もなことを口うるさく言われるに違いなかった。
「まあ……色々と忙しかったんだよ」
しばらく考えて、ロマーノはひとまず曖昧に答えを濁した。するとスペインは更に心配したように眉を下げ、労わる様にロマーノの肩を撫でる。
「そうなんや……聞いてた話とちゃうやん……」
「なんだって?」
「いやいや。なんでもないで」
慌ててスペインは首を横に振る。ヴェネチアーノに、ロマーノは忙しくないはずと聞き及んでいたからナポリまで来たが、スペインの目の前にいるロマーノは随分とやつれていた。
「で? お前、何しに来たんだ」
「ロマーノの顔見に来てんけど……」
「あー……」
会いに来るなら連絡を寄こせと、今まで散々ロマーノは言ってきたが、またしてもスペインはアポなしである。しかしこの三日、まともに携帯を触った記憶がないので、もしかすると連絡があったのかもしれない。そう思うと強く出れず、ロマーノは自身の部屋を振り返った。
「ここ三日間ぐらい碌に寝てなくて、今から寝ようと思ってたんだよな……それに部屋も散らかってるし……」
「ええよええよ! お前の部屋が汚いのはいつものことやし、親分が代わりに片付けとくから、ロマーノは寝とき」
「いつもは余計だこの野郎」
スペインの言う通りなのだが、ロマーノはスペインを睨みつけて足を軽く蹴った。それでも変わらずヤル気を見せるスペインに、ロマーノはため息をつく。わざわざ遊びに来た相手に部屋の片付けをさせるのもと思うのだが、相手はスペインなので、そんなことは今更である。
「……俺、マジで寝るけどいいんだな」
「ええよ。いっぱい寝えや」
「じゃあいいや。入れよ」
そう言葉をかけ、ロマーノは背を向けて部屋の中へ戻った。スペインは勝手知ったる様子で家の中に入り、鍵を閉めてロマーノの背を追う。ヴェネチアーノとスペインと上司ぐらいしか教えていないこのナポリのアパートに、スペインは何度も足を運んでいるので、わざわざ説明する必要もなかった。
物が少ないのでローマの家ほど散らかってはいないが、雑然とした家の中を見てスペインは苦笑する。ロマーノはそんなスペインを尻目に、寝室へと一直線だ。わざわざナポリまで来たスペインに悪いなという気持ちと、ただただ疲れていて眠いという気持ちを秤にかけ、疲れと眠気が勝った。勝手に来たスペインが悪いという気持ちが手伝った。
ほとんどベッドに埋め尽くされた寝室のドアを閉め、ロマーノはベッドに倒れこんだ。カーテンの隙間から差し込む日差しから顔を背けた。外からは車のエンジン音や人の声が届く。昼時のナポリの喧騒がまるで眠りに誘うようで、ロマーノは抵抗することなくゆっくりと目蓋と閉じていった。
匂いにつられるようにしてロマーノが目を覚ましたのは、日が沈もうとしている頃だった。カーテンを開いて外を確認すると、まるで葡萄が染み出していくように、少しずつオレンジの空が色を変えていく。ナポリの美しい街並みが、稜線の向こうに沈む夕日を見送った。
ロマーノは一度伸びをした後、起きる原因となった匂いの元を辿る。寝室のドアを開けてリビングを見ると、キッチンの前に立つスペインの背が見えた。
暢気に鼻歌でリズムを取りながら、それでも手元は器用に包丁を扱っている。ロマーノが散らかした部屋はすっかり整頓されており、貯めていた洗濯物まで綺麗に畳まれていた。
何でも器用にこなす男に視線を戻し、ロマーノは懐かしい気持ちに包まれた。スペインと共に暮らしていた時によく感じていた気持ちが蘇り、スペインと会うのが随分と久しぶりだということをやっと実感した。ずっと考えないようにしていたので、どれほど時間が空いたのか記憶になかったが、スペインの存在をそばで感じて初めて、何かが足りないと感じていたことをロマーノは思い知った。
静かに寝室から出たロマーノだったが、ドアが閉まる音に気付いたスペインは、すぐ振り返ってロマーノに気が付いた。
「ロマーノ! 起きたんか」
鍋の火を止めてロマーノに駆け寄ったスペインは、ロマーノの顔見てうんうんと頷いて笑った。
「ちょっとはマシな顔色になったなあ。よかったわ」
何も言わないロマーノの頭を遠慮なくぐりぐりと撫でる。されるがままになっていたロマーノは、乱れた髪を手櫛でさっと整えた。
「シャワーでも浴びといで。朝まで起きてこやんかと思って、スープしか作ってないねん。今からパスタでも茹でるわ。お腹すいとるやろ?」
まるで返事をするように、ロマーノの腹の虫が声を上げた。それに顔を赤くしてロマーノは腹部を押さえたが、スペインはそんなロマーノを見て、肩を揺らして笑う。
「元気そうでよかったわ」
朗らかに微笑むスペインを見て、ロマーノは考えないようにしていた感情が湧き上がるのを感じた。スペインに会わず、違う何かに没頭していれば一時的にもその感情は忘れることが出来た。なくなったのではとすら思えたのに、笑顔ひとつ向けられただけで、あっさり恋心は浮上する。
けれど以前とは決定的に違うところがあった。それは親分子分という今の関係のままが一番いいと確信しているところである。純粋にロマーノのことを子分として愛して、甘やかしてくれるスペインの気持ちを裏切らず、今の関係を続けることがきっと、どちらにとっても幸せなのだ。
ロマーノがスペインを好きでなくなる日はきっとこない。けれどいつか、穏やかに朽ちていく恋の感情を見送って、向けられているのと同じ愛情だけを返せる日がくる。そんな予感がロマーノにはあった。
その時にはスペインの恋を応援しながら、共に酒を飲む夜だってくるのだろう。今はまだ辛くとも、少しスペインから距離を取って、違う何かに目を向けてみてやっと、ロマーノはそういう境地に辿り着いた。
「スペイン」
名前を呼ぶと、スペインは笑顔のまま首を傾げた。そんな笑顔が、ただ好きだな、とロマーノは思った。それが少し切なくなって、誤魔化すようにロマーノは微笑む。
「……ありがとな」
「………………へっ」
短くスペインが息を呑むのを聞いたが、ロマーノはそのまま踵を返してシャワールームへと逃げ込んだ。あのままじっとしていれば、テンションが上がったスペインにもみくちゃにされる未来は見えている。
服を乱雑に脱ぎ捨て、頭からシャワーを浴びながら顔を手で覆った。少しずつ熱くなっていくシャワーのうるさい音が、まるでロマーノの気持ちを急き立てているようだ。
しばらく会っていないことなどなかったように、会いに来てくれるとこが好きだ。顔を見ただけでロマーノの不調に気が付いて、心配してくれるところが好きだ。怒ることもなくロマーノの部屋を片付けて、支えてくれるところが好きだ。起きた時に帰っておらず、まだいてくれるところが好きだ。何もかもわかっていて、好物を作ってくれるところが好きだ。深く聞かずに甘やかしてくれるところが好きだ。気遣っていない風で、大切にしてくれるところが好きだ。いつも笑顔を向けてくれるところが好きだ。本当の愛情で愛してくれるところが一番好きだ。
今日だけでこんなにもスペインのことが好きだと思い知ることが、ロマーノは苦しかった。何よりこんなに好きなのに、以前のように振り向かせたいと思っていない自分自身が、一番苦しいのだ。
ロマーノは諦めたのだ。想い続けるだけなのは苦しいが、親分子分として続いていく関係の方がずっと大事だと気が付いたから。物理的に距離を置いたことで、ロマーノはそう思えるようになったし、その事実に気付いた。
想い続けるだけでよかった。ただそれだけでよかったのだ。スペインにも同じように恋をしてほしいだとか、恋人になりたいだなんて望みすぎたことだった。
そうやって思いを新たにしたロマーノの前に、目を爛々とさせたスペインが立ち塞がる。
「ロマーノッ! なんか親分にしてほしいこととかないか!?」
「は……? ないけど……」
「ほんまにないん!? なんでもええねんで!?」
「……どうしたのお前」
何かしてほしいことはないのか、何でも言ってくれて構わない、いくらでも頼ってくれといったことを、スペインは何度も繰り返した。最初は戸惑っていたロマーノも、しばらくするとうんざりして買い物や掃除など、色んな雑用をスペインに押し付けたが、スペインはまるで水を得た魚ように喜んで何でも応えてみせた。
ロマーノからすると、スペインが嬉しそうにしている意味はわからなかったが、スペインがロマーノに尽くしたいというのなら任せない手はない。ロマーノはそれから意味もなくスペインをナポリに呼びつけて世話をさせたり、時にはロマーノがスペインの家に行って観光に付き合わせたりと、自由勝手に振舞った。しかし何をしてもスペインは嬉しそうだったのだ。
自ら積極的に尽くそうとするスペインの行動は謎であったが、ロマーノはその間よくスペインと会えていたので、理由はわからなくとも楽しく過ごしていた。何よりロマーノにとって嫌なことがない。楽できるし、スペインに会えるしで良いこと尽くめである。
このパシリごっこもおそらくスペインの気まぐれで、飽きたら終わるだろう。ロマーノはそう考えていた。だからまさか、想像もしていなかったのだ。スペインがロマーノに恋をしているから、ロマーノに尽くしていたんだということに。
「……ぃ、たっ」
首筋に柔い痛みが走り、ロマーノは思わず背を逸らした。慌てて後ろへ振り返ると、どこか不服そうに目を細めているスペインがいる。
「テメェ、噛みやがったな……!?」
歯型も残らないような弱さではあったが、ロマーノは首筋を噛まれたことが信じられなくて、顔を赤くしながら体を震わせた。
「やって、ぼーっとして全然反応なかってんもん」
「だからって噛むなハゲ! 犬かテメェは!」
「全然痛くなかったやろ?」
「そういう問題じゃねえんだよ! カッツォ!」
ロマーノは文句を続けようとしたが、それを遮る様にスペインがまたロマーノの首筋に顔を埋めた。そして先ほど歯を立てたところを、まるで労わる様に舌を這わせる。首筋の濡れた感覚に、ロマーノは短い悲鳴を上げて鳥肌を立てた。
「ごめんな?」
「……ゆ、ゆ、許してやってもいい」
固まってしまったロマーノの顔を覗きこみ、スペインが首を傾げて謝った。それだけで、もうロマーノは何の文句も浮かんでこない。
顔を真っ赤にして頷くロマーノに、スペインは満足げに笑った。そうしてまたロマーノにぴたりとくっついて、好きなようにスキンシップを始めるのだ。