恋よ、前進せよ 07

もうずっと、スペインとロマーノの距離はおかしかった。外に出かけた時も、自身の国民たちに見られていようがお構いなく、スペインはロマーノの手を繋いだり、店の席では当然のように隣に座ってロマーノの腰や肩を抱いた。最初は真っ赤になって慌てていたロマーノも、次第に慣れてしまって恥ずかしそうにはしていても、それが当然という風になっている。
家の中でも二人はほとんどくっついていて、寝る時まで一緒だ。ロマーノが抵抗したって、スペインはどこ吹く風で離れようとしない。スキンシップを図っているスペインはいつも嬉しそうで、赤くなってたじたじになっているのはロマーノの方である。ロマーノはそんな状況に不満があった。
「……納得いかねえ!」
ダンっと音を立ててロマーノが拳を叩きつけると、テーブルの上にあった食器たちが一斉に飛び跳ねた。ガシャンと耳障りの悪い音がして、隣に座っていたスペインはやれやれといった様子でロマーノの背を撫でる。
「なんやなんや。もう酔っぱらってもうたん?」
「酔ってねえクソハゲ!」
「酔ってるやつはみんなそう言うねん」
ロマーノからグラスを取り上げてしまったスペイン自身、顔が赤くなっている。酔い潰れてはいないが、多少は酔っていた。そんなスペインを睨みつけて、ロマーノは舌打ちした後、テーブルにあったワインボトルを手に取った。
「ケッ。お前の方がずっと悪酔いしやがるくせに」
「ああ〜……それはあかん〜……」
ボトルに直接口を付けて飲み始めるロマーノに、スペインはため息をついた。スペインが強かに酔っぱらうと、惨事が引き起こされるのは有名な話で、ロマーノは一度その場に居合わせた際、二度とスペインは酔っぱらわせないと決めていた。
少なくともロマーノがいる前ではかっこ悪いところは見せられないと思っており、自制心が働いて無茶な飲み方はしないので、そんな悲劇は起きない。大概は酔っぱらったロマーノの介抱をスペインが担っており、ロマーノの方がスペインに迷惑をかけている状態だ。今だってロマーノはもう目が据わっており、いつ寝落ちてもおかしくない状態である。
水のようにワインを流し込むロマーノから、スペインは慌ててボトルも取り上げた。
「こんな飲み方したらあかんやんか。明日帰られへんくなるで」
「……ンだよ。帰ってほしいのかよ」
拗ねた様に唇を突き出し、顔を背けるロマーノにスペインは苦笑した。ボトルとグラスをテーブルに置き、ロマーノの体を抱きしめて、熱を持った頬を擦り合わせる。
「そんなこと言われたら帰したくなくなるやんかあ」
ぎゅうぎゅうとロマーノの体を抱きしめ、頬ずりを続けるスペインの体をロマーノが遠ざけた。距離が出来たスペインの顔をロマーノが睨みつけても、スペインはあまりよくわかっていない様子で、変わらず笑っている。
「……やっぱ納得いかねえ」
「さっきから言うてるけど、何が納得せえへんの」
「お前だ、お前」
「俺?」
ロマーノが覚束ない手でスペインを指差した。スペインは身に覚えがないという表情で、首を傾げる。それにロマーノは眉を吊り上げて頷いた。
「お前、俺のこと好きだったんじゃねえのかよ」
「え、うん。好きやで」
「なのになんでお前、そんな普通なんだ」
「普通って?」
意味がわからないといった様子のスペインに、ロマーノは腕を伸ばしてその体を抱きしめた。腰に回した腕に力を込めてぎゅうっと抱きしめると、スペインは途端嬉しそうに顔を綻ばせてすぐロマーノを抱きしめ返した。スペインの首筋にすりっとロマーノが頬をすり寄せ、すぐ体を離してスペインの顔を見る。
「やっぱり……」
「なに? なにがやっぱり?」
「お前……俺のこと好きじゃないだろ」
「……え? なんのやっぱりやったん?」
今のロマーノとスペインの行動で、何を納得したのかわからない。スペインは混乱して固まったが、そうしている間にロマーノの目に涙が滲んだ。悲しそうに眉を下げて唇を噛む姿が痛々しく、スペインはロマーノの赤い頬を手で包む。
「なんや、急にどないしたん?」
「……スペインのバカ野郎! 鈍感の勘違い野郎!」
「ええー……なんで急にそないな話に……」
戸惑いつつ、スペインは今にも泣きだしそうなロマーノを抱きしめた。抵抗もせず腕の中に納まっているロマーノは、スペインの肩に顔を押し付ける。逃げないのならばと、スペインはロマーノの腰に回す腕に力を込めた。
酔って感情的になっているのかと、ひとまず落ち着かせるように頭を撫でる。抵抗もなく、しばらく二人の間に沈黙が流れ、点けっぱなしのテレビの音だけが騒がしかった。
「……俺ばっかり」
「ん?」
やっと落ち着きを取り戻したのか、呟いたロマーノの声ははっきりとしていた。ゆっくりと体を離したロマーノは、スペインの顔を見ようとせず、視線はずっと下に向けられている。
「お前が抱き着いてきたり、お前にキスされたりしたら、俺……すげードキドキして、おかしくなっちまう……」
「ああ、かわええよなあ」
「なのにお前はずーっとへらへら……へらへらへらへらへらへらしやがって!」
「へらへら多ない? そんなに?」
先ほどまでしょんぼりしていたかと思うと、今度はまた怒りの表情に変化する。忙しないロマーノの顔を見ながら、スペインはロマーノが強かに酔っぱらっていることを確信した。そうでなければ素直にドキドキしているなどと、ロマーノが口にするはずがない。
「本当はお前が恋人になりたいって泣きついてくるまで、振り回す予定だったのに……」
「そ、そんなこと考えてたんか……」
「なのにお前はいつも通りだし! なんでか俺の方がお前に振り回されてばっかだし! お前はなんかずっとニヤニヤへらへらしてるし!」
「なあ、俺そんなひどい顔してるん?」
「スペインの事全然振り回せないぞ、日本ちくしょー!」
喚くロマーノから遠いアジアの国の名前が出てきて、スペインは目を丸めた。二人でゲームをしていたことをはスペインも知っていたが、こんな時に名前が飛び出してくるほど、交流を深めているとは知らなかった。
ロマーノがスペインのことを振り回そうとしていたことも、日本に相談していたことも予想外だったが、スペインはすぐ笑みを深めた。
「結構振り回されとると思うねんけどなあ」
「どこがだ! ケ・バッレ! いっつも余裕そうな顔しやがって!」
「余裕かあ……」
ロマーノからはスペインがいつもと変わっていないように映っている。いつものように笑って、ロマーノを甘やかして、反応するロマーノをへらへら眺めているのだ。けれどスペイン自身の内情は違った。少なくとも、恋心を自覚する前とは雲泥の差だ。
以前であれば、真っ赤になっているロマーノに対して追い打ちをかけるように、更にスキンシップなどしなかった。宥めるように頭を撫でて、落ち着くまでそばにいるだけでよかったのだ。そういうことが我慢出来なくなって、慌てているロマーノにもっと触れてしまう。そんなスペインのどこに、余裕があるというのか。
「どうせ俺のことなんか、大して好きじゃないんだお前は……」
「俺のこと信じてくれへんの? ひどいわあ」
「お前の方がひどい……」
「んもう。泣かんでよ」
ついに涙を溢れさせるロマーノの目元を、スペインは優しく拭った。それでも謝ることはしなかった。謝ってしまうと、ロマーノの言う「大して好きじゃない」を認めてしまうような気がしたのだ。
まだ溢れる涙を指で拭って、熱を持った頬に唇を落とすと、ロマーノはやっと涙で濡れた目をスペインへと向けた。近い距離で見つめ合うが、不思議とどちらも視線は外さなかった。手を動かして、涙で濡れた指でロマーノの唇をなぞる。それでもロマーノはじいっとスペインを見つめて、ゆっくりとまばたきをするだけ。
その目に促されるように、スペインはゆっくりと顔を近付けて、ロマーノにキスをした。ただ唇が触れるだけの優しいキスだったが、それでも離れるのが名残惜しくて、スペインはゆっくりと顔を離した。
伏せていた目蓋を開き、近い距離でロマーノを見つめる。ロマーノは離れろと騒ぐこともなく、ただじっとしていた。それにスペインは笑って、鼻先を触れ合わせてロマーノの頬を撫でる。
「……よけへんねや」
そのスペインの呟きに、ロマーノがむっとわかりやすく顔を歪めた。スペインはもう一度キスをしたいなと思っていたが、ロマーノを怒らせてしまっては恐らく、もう一度なんて出来ないだろう。自身の失言を残念に思いつつ、スペインは顔を離した。触れあっていた鼻先から、熱が失われたことに少しの寂しさを思う。
熱いロマーノの頬を未練たらしく撫で、手も離した。そろそろ寝ようと提案しようとしたところで、ロマーノの手が伸びてスペインの胸倉を掴む。
「舐めんなよ」
低く吐くと、ロマーノはスペインを引き寄せてキスをした。突然のことに、スペインは目を見開いて固まってしまう。
「……俺の方が先に好きだったんだからな」
唇を離してそう言い切ったロマーノの言葉に、スペインは胸が熱くなるのを感じた。しばらく呆然と固まっているスペインに、ロマーノは「なんとか言えこの野郎」と文句を飛ばしている。スペインからしたキスよりずっと乱暴で、押し付けるような雑さであったそれが、スペインはたまらなく嬉しかった。
じわじわと広がる喜びが溢れ、まだ目の前で文句を言っているロマーノに手を伸ばす。うなじを掴み、ロマーノをぐっと引き寄せて、さっきよりずっと深く唇を合わせた。
「んっ……」
小さくロマーノが声を漏らし、スペインの服を掴んできても、止まれなかった。まるで味わうように唇を柔く食んだ後、舌を差し込んだ。一気にアルコールの匂いが濃くなったが、気にせず逃げ惑う舌を捕まえると、ロマーノは観念したようにスペインの動きに応える。たどたどしい動きが、よりいっそスペインを煽った。
ロマーノがスペインのことをずっと好きで、スペイン以外知らないのだと思うと、無知で魅力的なこの体に全て教えこみたいという欲が湧いてくる。
(あかんな……これ……)
夢中でキスをしている間に、スペインはほとんどロマーノをソファに押し倒しているような形になっていた。ソファのアームレストに頭を預けているロマーノは、ほぼ無抵抗にスペインを受け入れ、腕を首と背中に回して続きを促しているほどだ。
しかし問題がある。ロマーノは素面ではない。意識がはっきりとしていないぐらいには、強かに酔っぱらっていた。そんな相手を無理矢理抱くつもりは、スペインにはなかった。少なくとも、ロマーノに対してそのような付き合いはしない。真剣であればこそ。
名残惜しくもスペインが顔を上げてキスを止めると、呼吸を思い出したようにロマーノが空気を吸った。はあはあと荒く息をしながら、ロマーノの目がゆっくりと開かれる。
熱に浮かされたようなその目を見ていられなくて、スペインはぎゅうっとロマーノを抱きしめた。腕の中に閉じ込めて、湧き上がる熱が過ぎ去るのをじっと待つ。
(ああ……ベッドに連れて行ってしまいたいわあ……)
ベッドに連れて行っても、ただ大人しく眠るだけでは済まないだろう。それぐらいスペインの欲望は高まっていた。腕の中の存在も逃げないのだから、いよいよスペインの理性が試されている。
静まる様に念じながら強く抱きしめ続けていると、少しして腕の中からすうすうと静かな寝息が聞こえてきた。スペインはまさかと思いつつ、腕をゆるめてゆっくりとロマーノを見る。すると予想通り、ロマーノはスペインの腕の中で気持ちよさそうに眠っていた。
「き、期待を裏切らん子やなあ……」
がっくりと肩を落としつつ、スペインはため息をついて笑った。好きだと告げている男の前で酔い潰れ、キスまで許して眠ってしまうなんて、ロマーノの危機管理が心配になる。しかしその無防備さのせいで、今回に限って救われたのはスペインの方であった。
完全に手を出してしまわなくてよかった。酔っぱらって前後不覚になっている相手を無理矢理暴くだなんて、恋人になりたい人にすることではない。スペインは改めてそう思い、また安堵のため息をつく。
「……ベッド連れて行こ」
そこにやましい意味はない。少し切ない気持ちを抱えつつ、スペインは重いロマーノを抱き上げて、自身の寝室へと連れて行くのであった。



「……昨日俺、何言った? やった?」
翌朝、目を覚ましたロマーノが開口一番にそう口にした。その顔色は悪く、明らかに昨夜のアルコールがまだ残っているのがよくわかる。
「おはよう。覚えてないん?」
「……おはよう」
質問には答えず、律儀に挨拶を返すロマーノは、ベッドの上に座って頭を抱えている。その姿に笑いつつ、スペインも上体を起こしてロマーノに寄り添った。
「……何もなかったことだけはわかる」
いっそそう願っているようなロマーノの口ぶりに、スペインは確かにと頷きかけた。ベッドの上では確かに何もなかった。二人は健全に眠っただけだ。しかしソファの上で聞いた言葉や起こった出来事を、なかったことにはしたくない。
スペインは手を伸ばし、尻に近い腰のラインをすっと撫でた。
「ひどいわあ。ヤることヤッといて、何もなかったやなんて」
ぶるっと体を震わせ、ロマーノは弾かれた様に顔を上げた。その顔は昨夜を思い出させるほど赤くなっている。
「キスしかてねえだろ!」
「やっぱり覚えてるやん」
「だ、騙しやがったな……!?」
「ロマーノが嘘つくからやで」
ロマーノは唇を噛んで悔しそうに眉を吊り上げる。まるで子供のように感情を全て表に出すロマーノの頭を、スペインは優しく撫でた。しかしロマーノはそんなスペインの手を素早く叩き落とす。
「何もなかった! し、俺は何も覚えてねえ!」
顔を背けてロマーノはそう啖呵を切った。しかし赤い耳の淵や首筋を見て、スペインは頬がゆるむのを止められない。つんつんと赤い頬を指で突いた。
「照れ屋な恋人で困るわあ」
「いつ恋人になったんだよ! ヴァッファンクーロ!」
また怒鳴って、ロマーノは逃げるようにベッドから飛び降りようとした。しかしすかさずスペインがロマーノの腕を掴んで引き寄せる。
「待って」
驚いた様子で振り返ったロマーノの頬を、スペインが撫でた。二人の脳裏に昨夜の情事が思い起こされ、ロマーノはぎくりとして肩を強張らせる。けれどスペインは頬を撫でるのを止めず、顔を近付けた。
「俺、起きたらキスしたい派やねん」
了承も拒否も聞かないまま、スペインはロマーノに口づけた。軽く触れてすぐに離れると、ロマーノは顔を赤くしてどうすればいいかわからない、といった様子であった。明らかに困っている表情に苦笑しつつ、頬にも口づける。顔が近付くたび、面白いほどロマーノの体はびくびくと反応した。
「今まで……しなかっただろ……!」
「あ、してよかったん?」
「そういうことを言ってんじゃねえんだよ……!」
もう今にも泣きだしそうになっているロマーノの顔を、両手で包み込む。真っ直ぐに目を見つめて、朝から表情も反応も忙しいロマーノが愛おしく感じ、スペインは目を細めた。
「これからはいっぱいしよな」
「俺の意見なんか聞く気ねえだろ……!?」
「そんなことないで」
ロマーノが嫌だと言えば、スペインだってキスもスキンシップもしない。でもロマーノは恥ずかしがって戸惑うだけで、今まで一度も嫌だと言ったことはないのだ。場所によっては抵抗されることはあるが、二人だけの空間でロマーノはスペインを拒絶しない。
いつだってスペインはロマーノの言葉に耳を傾けている。ロマーノが思っている通りに全てを受け取れないことは多々あれど、ロマーノが望まないことを無理強いすることはない。ロマーノ自身に自覚はないようだが、ロマーノはスペインとのキスを受け入れている。
「ロマーノ」
真剣みを帯びた声色で名前を呼ばれると、ロマーノはびくりと体を揺らして固まってしまう。スペインがゆっくりと顔を近付けても、逃げる素振りもなければ手は抵抗することなくじっとしていた。近付いてくるスペインを見つめている目に、期待が混じっているように見えるのは、何もスペインの願望がそう見せているだけではないのだろう。
スペインは期待していた。いつかロマーノが、昨夜のように自らスペインを求めてくれることを。ロマーノから手を伸ばされたなら、スペインはいくらその後ロマーノが否定しても、もう二度とその手を離さないだろう。
(けどロマーノは俺のこと振り回したいみたいやから、まだまだ先かなあ……)
振り回されるのも、それはそれで楽しい。少しだけそう思う自身がいて、にやけつつスペインはまたロマーノの唇に吸い付いた。
「浮気はせんといてな」
唇を離し、息が触れるような近い距離でスペインはそう囁いた。まるで秘密事を打ち明けるような潜められた声であったが、ロマーノは聞き逃すことなく、不思議そうにまばたきする。
「……浮気したらどうなる?」
何か期待したような、少し楽しそうな声色だった。丸められている瞳に喜色が滲んでいる気がして、スペインは苦笑した。
「怒る」
「ふうん……怒るのか」
確かめるように口にして、ロマーノはもう一度「ふうん」と頷いた。その口元がにやけていて、スペインは小さく息をつく。
「……んもう。悪い子やなあ」
「は……んぅ」
ロマーノが何か言う前に、スペインはまたキスをする。角度を変えて何度も唇を合わせていると、ロマーノは身を委ねるように体から力を抜き、スペインの腕に縋った。
寄りかかってくる体を愛しく思いながらも、スペインは喜びとも怒りとも言えない感情をぶつけるように、キスを深くしていく。脳裏に先ほど嬉しそうににやけていたロマーノの顔が浮かんでいた。
浮気に対して怒ると言ったスペインのことが、ロマーノは嬉しそうであった。そして何かを企むように細められた目は、確実にスペインを振り回す算段を立てるはずである。これからスペインは、気持ちを確かめようとするロマーノに振り回されなければならないのだ。
スペインの気持ちを信用されていないことが悔しいし、腹立たしい。しかしスペインの気持ちに触れた時の、ロマーノの嬉しそうな顔がかわいかった。相反する気持ちが胸の内にあって、スペインはただただロマーノの望むように、振り回される覚悟を決めなければならない。
「まっ……しつ、けぇ……!」
縋りついていた手でスペインの体を押したロマーノは、口元を拭いながらスペインを睨みつけた。しかしそんな赤い顔で睨みつけられたって、スペインの気持ちが治まる訳ではない。
「……まだ」
有無を言わさぬようにもう一度口づけ抱きしめる。ロマーノが無抵抗なのをいいことに、帰ってしまうまでいっぱいキスしようとスペインは勝手に決心した。



一輪のバラを片手に、ロマーノは石畳の上を鼻歌交じりに軽くスキップする。革靴の底が当たって軽快な音を立て、まるで音楽を奏でているような陽気さだった。会議後のロマーノにしては珍しいことで、路地を進むロマーノの表情はいつもよりゆるやかである。
人が溢れる広場まで辿り着き、やっと足を止めたロマーノは、辺りを見回した。
「……ひとりのベッラいねえかなあ」
きょろきょろと辺りを見回すロマーノの目は、男のことはスルーして女性にばかり向けられる。二人連れや恋人といる女性、家族らしき人たちといる女性しか見当たらず、ロマーノは壁に寄りかかってひとりきりの女性が現れるまで待つことにした。
あまり見つからないようだと、せっかく買ったバラが今頃仕事に追われているだろう男に送ることになってしまうので、どうにかロマーノはナンパするベッラを見つけたいところだった。
本来であれば、今頃ロマーノと共にこの街を歩いていただろう男のことを思い出し、ロマーノの口元がゆるむ。
『書類ミスしとって、修正するまで帰ったらあかんってドイツが言うねん! せやけどすぐ終わらせるから、どっかで時間潰して待っとって! 絶対やで!』
さもドイツが悪いような口ぶりで、スペインはドイツに引きずられていった。会議の後にスペインとデートする予定だったロマーノは、すっかり手持ち無沙汰になってしまったのである。
今までであれば、文句を言いながらも会議場から離れず待っているか、すぐ近くのカフェでコーヒーでも飲んで時間を潰していただろう。しかし今回のロマーノは違った。
街へ繰り出し、仕事中のスペインに広場付近にいることだけメッセージで伝え、ナンパに勤しむことにしたのだ。良いチャンスが巡ってきたとロマーノがほくそ笑んだことを、当然スペインは知らない。
「浮気してやる」
ロマーノがそんな決意を立てたのは、以前スペインの家に行った帰りだった。好き放題にキスやスキンシップをされ、ただ翻弄されるばかりだったロマーノは、現状に不満を持っていた。
スペインにキスされること、触れられることは嬉しい。しかしそうされることでいっぱいいっぱいになるロマーノを、スペインは楽しんでいる節がある。それが気に食わなかった。
そんなスペインを一泡吹かせたい。ロマーノの目論見はそれである。わざわざ口に出して言うあたり、スペインは本気でロマーノに浮気されたくないのだろう。浮気しているロマーノを見て、慌てふためくスペインが見たい。スペインが怒る姿なんてあまり想像つかなかったが、いっそ怒っているスペインを見てみたかった。
怒られたい訳ではないけれど、浮気したことに怒るということは、嫉妬しているということだ。そういう感情は、本当にスペインがロマーノのことを好きなのだと感じる。
今更スペインの好意を疑っている訳ではない。けれどスペインからロマーノに向けられる感情は、圧倒的に親愛が強いのだ。そんなスペインから嫉妬という、今まで見せたことがない感情が現れると、確かに自分のたちの関係に変化が生まれたのだと実感出来る。ロマーノはそれが見たいし、そういうことがいちいち嬉しかった。
本当に恋愛という意味で好かれているのだという実感を、味わいたい。スペインも同じだけの熱量で、ロマーノに恋をしてほしかった。
だからロマーノがベッラをナンパして、お茶しているところにスペインが駆けつけてくれたら、ロマーノの目標は達成される。
ロマーノの前を横切ったひとりきりの女性を見つけ、ロマーノは一輪のバラを差し出した。
「……チャオ! ベッラ!」
しかし世の中はそんなに甘くなかった。
ロマーノは恋に浮かれすっかり忘れていたのだ。自身のナンパの成功率の低さを。
過ぎ行く女性の何人にも声を掛け、そのたび振られるロマーノは、綺麗にラッピングされたバラを見て肩を落とす。この広場に来てからもう随分と時間が経っており、振り回され続けたバラはどこか元気をなくしていて、まるでロマーノそのもののようだった。
「こんなにナンパに成功しない俺って……ついでにこんなに時間が経っても来ないスペインこの野郎め……」
今頃必死で資料の修正に勤しんでいるスペインが、仮に今ここでナンパしたらどうなるのだろうか。普通に成功するような予感がして、ロマーノは舌打ちする。
顔だってよくてファッションに気を遣っていて、女性には圧倒的に優しいというのに、どうしてスペインの方がモテるのだろう。疲れがピークに達したロマーノは、ついにそんなことまで考え始めた。
(中身? 性格? ナンパで……?)
花を握り締めながら真剣に考え込んでいたせいで、ロマーノはしばらくすぐそばに立つ人の存在に気付かなかった。
「お兄さん」
肩を叩かれ、ロマーノははっと我に返った。触れられた側へ振り返ると、呆れた表情の女性が立っている。長いブロンドヘヤーの女性は、寒さのせいか頬を赤く染めていた。それが白い肌のによく映える。
「さっきから必死過ぎない?」
ロマーノの手にある花を見て、女性は笑った。目尻に皺が出来て、そんな顔がかわいいなとロマーノは素直に思った。
「見てた? どこにいたの?」
「あそこのテラス席」
「ひとりでいた?」
「ううん。友達といたのよ。あなたのこと、必死そうって笑ってたわ」
彼女が指さしたのは、広場に面しているカフェだった。いくつかあるテラス席に座っていたようだが、ロマーノは端からおひとり様を探していたので、彼女の姿に覚えはない。当然笑われていたことも知らなかった。
「その友達は?」
「帰っちゃったのよ」
「ということは、時間ある?」
期待を込めた目をロマーノが向けると、彼女は肩を竦めて「そういうことになるわね」と頷いた。
「勘違いしないでほしいんだけど、あなたに一声かけたくなっただけなの。なんというか、見ていられなかったから……」
「俺に興味があったってこと?」
「まあ、色んな意味でね」
多分に同情が含まれた言い回しだったが、それでもロマーノは構わなかった。出会いというものはタイミングで、きっかけや理由なんてなんでもいいのだ。始まることが大事である。
ロマーノは手に持っていたバラを彼女に差し出した。それを見て、彼女は迷うように視線を下げて笑う。
「かわいそうに思うなら、俺のこと拾ってよ」
「チャラそう。ダメ」
「君と出会えた素晴らしい奇跡を、逃したくないんだ。君、すごく素敵だから」
「……うーん」
まだ悩んでいるような素振りは見せつつ、上げられた探るような視線は、もう迷っているようには見えなかった。一度、見定めるように頭から足まで視線を動かし、もう一度ロマーノの顔を見て、彼女は笑った。
ロマーノが差し出しているバラに彼女が手を伸ばそうとしたところで、すごい勢いで近付いてくる足音に二人は固まる。導かれるように振り返った二人に向かって、一直線で向かってくる影が見えた。
「お待たせ! ロマーノ!」
二人が驚いている間に近付いてきた人物は、バラを差し出しているロマーノの腕を掴んだ。
「スッ……!?」
名前を叫びかけたロマーノは、慌てて口を閉ざした。隠している訳でもないのだが、街中では普段使っている人名で呼び合っている。なんと声をかけるかロマーノが迷っている間に、スペインが顔を上げた。
肩で息をしているスペインは、真冬だというのに汗が頬を伝っている。それを軽く手の甲で拭った後、スペインはロマーノと彼女を交互に見た。そして掴んだ腕の先にある一輪のバラを見て苦笑する。
「あはは……予想した通りやな」
「は? 予想?」
「なに? 知り合い?」
困惑するロマーノと女性をよそに、ふうっと深呼吸したスペインは、やっと落ち着きを取り戻してきた。掴んだままだったロマーノの手からバラを奪い取り、それを彼女に差し出して握らせる。
「これ、貰ったって。よお似合ってて素敵やで」
にこりと笑ってリップサービスを口にするスペインを、ロマーノは睨みつけた。しかしさっきまでロマーノと良い雰囲気だった女性は、それだけで赤かった頬を更に赤くしてはにかむ。
「あ、ありがとう……」
「でもごめんな。こいつは俺のやねん」
「え?」
驚いたように声を上げたのは、女性とロマーノだった。きょとんと目を見開いたロマーノの腕を引いて、スペインはそのままロマーノに口付ける。冷たい風を切って走ってきたスペインの唇は冷たくて、ロマーノはびくっと肩を震わせた。
触れた唇はすぐ離れ、スペインはそのまま女性に振り返る。バラを握ったままぽかんと固まっている女性に笑いかけ、ひらひらと手を振った。
「ほな」
返事も聞かないまま、スペインは固まっているロマーノの腕を引いて歩き出した。足早に進むスペインに、ロマーノは躓きつつ引きずられていく。
賑やかな広場を抜け、少しずつ空が色を変えてきた街を進んだ。茜色に染まる街の中、無言で突き進むスペインの背中を見て、怒ってるのかなと少しだけロマーノは不安になった。
しばらく歩き続けた二人は、少し静けさがある路地に辿り着く。建物と建物の間の狭い路地の端に寄り、ようやく足を止めたスペインがロマーノへ振り返った。何か言いたげな様子で顔を顰めているスペインが、じいっとロマーノを見つめる。
「……なんだよ」
「浮気はあかんって言うたやろ」
視線に冷や冷やしつつ、ロマーノは果たして自身は本当に浮気したのだろうかと考える。ナンパはしていたがほとんどの女性に振られ、やっと成功しそうだった相手と出会えた瞬間、スペインに邪魔されてそれも終わった。
「まず付き合ってねえだろ」
そもそも二人は恋人ではないのだ。至極当然の事実をロマーノが口にすると、スペインははあっとわざとらしくため息をつく。
「まだそんなこと言うん」
「まだっていうかずっとそうだけど」
ロマーノがそう言うと、掴んでいた腕を離し、スペインはロマーノに手を伸ばした。冷たい指先が熱を持ったロマーノの頬に触れ、そのままキスをする。頬に触れていた手が移動し、うなじを指先が撫でる。
「恋人じゃない相手に、こんなこと許すんやな」
「……お前だって。恋人じゃない相手にこんなことすんだろ」
「俺は恋人やと思っとるけど」
そんな事実はロマーノの知るところではない。身に覚えのない恋人というワードに顔を顰めつつ、きゅっと唇を噛みしめる。うっかりにやけてしまいそうだった口元を窘めた。
スペインはそんなロマーノに笑い、頬にキスを落とす。
「次したらほんまに許さんで」
耳元で囁いて、頬を擦り合わせて離れる。それだけでずっと外でナンパし、冷たくかじかんでいたロマーノの体が、少しずつあたたかくなっていく。
どうしてかロマーノは、体が熱くなっていることを悟られたくなくて、ついでに喜んでいると思われたくなくて、つんっと唇を突き出した。生意気そうな顔をしても、スペインはそんなロマーノがいいのだという。ロマーノは不思議だった。
「……許さなかったらどうなる?」
何かを期待するように、ロマーノはじっとスペインの目を見つめた。スペインの背後に続く路地の向こうで、夕陽が沈んでいくのが視界の端に映る。夕陽を背負いながら、スペインは笑みを深めた。
「怒る」
「浮気の時と一緒じゃねえか」
期待外れの答えに、ロマーノの顔が歪む。するとスペインはロマーノの手を取って、顔を近付けた。鼻先が触れそうな距離で、スペインは真っ直ぐロマーノの目だけを見つめている。
「次したら、エッチなことするから」
「……えっ」
何を言われたのかわからなくて、ロマーノは目を瞠った。丸くなった目が揺れても、スペインは視線を逸らさない。逃げないように、ぐっとロマーノの手を強く握りしめた。
唇を震わせながら、ロマーノは恐る恐る口を開く。
「え、えっちな、こと……?」
「お前が泣いて嫌がっても絶対やめへんからな。覚悟しいや」
嘘や冗談で言っている響きはない。狭い路地の中で逃げ場を失っているロマーノは、しかし追い込まれているのが嘘のように、目を輝かせている。期待するようなその眼差しは、かつてスペインの家で初めてキスをした時のそれによく似ていた。
「……ちなみにエッチなことって、どんなことだ?」
「ここじゃ言われへんようなこと」
「ふうん……」
神妙な面持ちで頷くロマーノを、スペインが抱きしめる。ロマーノは抵抗することなく、スペインの背に腕を回した。抱きしめる腕に力が込められ、息苦しさを感じつつも、ロマーノはついぞ離れろと言うことが出来なかった。
ロマーノの予想とは方向性が違ったが、当初の目論見は成功したと言えるだろう。ただ嫉妬してほしいだけだったが、思わぬ収穫があった。抱きしめられる腕の中で大人しくしつつ、ロマーノはにやりと企みのある笑みを浮かべたのだが、当然スペインは気付いていない。
「そろそろご飯行こか」
スペインがそう言って体を離したが、その頃にはロマーノの含みのある笑みは消えていた。何でもない風を装って、当たり前のように手を繋ぎ、賑わいのある夜の街へと歩き出していく。