失踪する子分
休日にトマト畑の世話をするのがスペインの趣味だった。かつては広大な敷地に大きな屋敷と大きな畑を持っていたが、今は一人で住んでいるので、全てが人並みとなった。けれどそれに不満も持っておらず、細々と小さな畑を可愛がっている。畑の世話をして昼前に家へ戻ってきたスペインは、昼食を済ませてシエスタのために寝室へ向かった。しかしドアを開く前に家の電話が鳴り、スペインは電話の相手に聞こえるはずもないのに「はいはい」と返事をして、リビングへ戻る。
「オラ〜」
携帯電話の普及ですっかり使用回数が減った電話の受話器を手に取って、スペインはいつもと変わらぬ陽気な挨拶を贈った。
『スペイン兄ちゃん!』
どうせ上司か、昔から付き合いのある近所のおやじだろうと思っていたスペインは、受話器から聞こえた声に驚いて目を見開く。
「イタちゃん?どないしたん?」
携帯電話の方で連絡を取り合うことならたまにあったが、家の電話でやりとりをするのは、随分と久しぶりのことだ。ましてや電話口のヴェネチアーノは随分と慌てた様子でスペインの名を呼ぶので、必然とスペインは眉間に皺が寄った。
『どうしたじゃないよ!なんで携帯出てくれないのさ!』
「あ、もしかしてそっちに連絡くれてたん?」
『もう何十回もかけてるよ!』
「ごめんなあ。携帯……たぶん、仕事の鞄に入れっぱなしやわ……」
昨日仕事を終えて帰ってきた後、携帯を触った記憶がない。鞄を放り出して食事を摂った後、充電もせずにスペインはそのまま寝てしまった。きっと鞄の中で充電がなんとか持ちこたえているか、切れているかのどちらかだろう。
頬を掻きながらスペインが謝ると、ヴェネチアーノは「そんなことより」とまたしても焦った声を出した。
『兄ちゃんそっちに来てない?』
「ロマーノ?」
受話器を耳に当てつつ、スペインはリビングを見渡した。ロマーノには合い鍵を預けているので、勝手に家に入り込んでいる可能性はあるが、腹が減ったら黙っていられない子だ。昼飯時まで黙って隠れているはずがない。
「来てへんけど……うちに来るって言うてた?」
そんなことは聞いていないが、スペインが何も言わずにイタリアへ行くように、ロマーノもいきなりやってきてスペインの家で寛いでいるなんてよくあることだ。どこかで寄り道をしていて、まだ家に着いていないだけかもしれない。
『ううん、何も……』
ロマーノがいないとわかったせいか、途端に電話口の声が沈んだ。いつも陽気なヴェネチアーノの珍しいその反応に驚きつつ、スペインは心配げにヴェネチアーノへ声をかけた。
「どないしたん?ロマーノとケンカしてもうたん?」
イタリアが統一してから、ロマーノとヴェネチアーノは兄弟共に暮らしている。しかし職場と家でずっと顔を合わせるせいなのか、この兄弟は時にぶつかり、大体ロマーノがスペインの家に逃げてきて愚痴をこぼすのだ。スペインとしては、ロマーノが頼ってくれることは嬉しいが、世話をしてきた兄弟が仲良く暮らしてくれている方が、安心するというのも事実だ。
また言い合いにでもなって、ヴェネチアーノが落ち込んでいるのかと思ったが、ヴェネチアーノ「ううん」と否定した。
『ケンカはしてないよ……』
「そうなん?じゃあなんでそない慌ててるん?」
『兄ちゃんが三日……もう四日になるんだけど、家に帰らないんだ』
ロマーノは気まぐれなので、仕事を熱心にしている時もあれば、家にも帰らずフラフラ遊び歩いていることもある。なのでロマーノが家に帰らないことなど、それほど珍しいことではないはずだ。
「連絡ないん?」
『携帯、置いてってるみたいで……』
携帯まで持ち歩かないのは珍しいが、ロマーノはおっちょこちょいなところがあるので、単純に忘れただけだろう。安心させるように、スペインは大丈夫だといいながら笑った。
「確かに連絡つけへんのは心配やけど、大丈夫やろ。ひょっこり帰って……」
『違うんだ!』
スペインの言葉を遮る様に、ヴェネチアーノは大きな声を上げた。受話器を耳にくっつけていたスペインは、耳鳴りに顔を顰めて慌てて受話器を遠ざける。突然の大きな声に驚いて黙っていると、ヴェネチアーノは「違うんだよ……」と、今度は弱々しい声を続けた。
「違うって、何が?」
『……兄ちゃんが、わかんない』
「わからんって……」
いまいち要領を得ないヴェネチアーノの話し方に、スペインは眉間の皺を深くする。電話でやり取りしているより、イタリアまで行って直接話した方が早いのではとスペインは考えた。それほどヴェネチアーノが混乱しているように感じる。
『俺と兄ちゃんは別の存在だけど、同じイタリアなせいか、そばにいなくても兄ちゃんの存在は感じられてたんだ。どこにいるかまではわからなくても、存在してるって、今まではちゃんと……』
震える声が告げるその言葉を聞いて、途端にスペインの体に嫌なものが走り抜けた。受話器を持つ手にぐっと力を込め、生唾を飲み込む。
「今までは?」
『……今、兄ちゃんがどこにいるのか、全然わからない。何も、感じられない』
いっそ感情が全てこそげ落ちたような声色で、ヴェネチアーノが言った。その言葉が信じられなくて、スペインの口角がひくひくと痙攣する。
「それ、どういう意味?」
頭の中の混乱に反し、声はずっと冷静だった。むしろ責めるような色を含んでいたが、それを改めるほどの余裕は、すっかり消え失せている。
『兄ちゃんの存在が、感じられないんだよぉ……!』
今まで我慢していたのか、途端にヴェネチアーノは電話口で泣き始めた。嗚咽に交じって兄を呼ぶ声を聞きながら、スペインは頭が真っ白になり、ヴェネチアーノを慰めることも出来ない。
(ロマーノが消滅した?)
その可能性が頭を過り、足元がふらついてスペインは壁に手をついて体を支えた。その間もスペインの頭の中はロマーノのことでいっぱいで、電話口のヴェネチアーノ声が遠くに聞こえている。
最後にロマーノに会ったのはいつだったか。お互い時間を見つけたら家に遊びに行くような仲なので、わざわざ約束を取り付けて会うことは少ない。しばらくスペインは仕事が立て込んでいてイタリアに出向いていなかったが、そういえばロマーノがこの家の合い鍵を最後に使ったのはいつだったろうか。
そこまで考えてふと、そういえば最近ロマーノが家に来ていないことに気が付いた。無精なスペインは他人と連絡も碌に取らないが、ロマーノとはたまに連絡をすることもあった。だがそれすらもすっかり減っていることに、今更気が付く。
スペインとロマーノは、互いに明言したことはなかったが、世間でいうところの恋人のような関係だった。国である以上、情勢によって会えなくなったり、他の国と婚姻関係になることもあり、恋人ですと言いふらす国はいないが、それでも二人は互いに想い合っている。それだけは確かだった。
スペインはロマーノを優先したし、逆も然りだ。スペインはもうずっとキスもセックスもロマーノとしかしていない。ナンパが大好きなロマーノが同じかはわからなかったが、恋人や家族と過ごすようなイベントの日は、必ずスペインの隣にいた。二人は間違いなく、互いが互いに特別な相手だったのだ。
そんなロマーノの存在が、消滅したかもしれない。その事実に、スペインは声も出せなくなっていた。
『兄ちゃんね、置き手紙だけ残して、どっか行っちゃったんだ……』
突然、ヴェネチアーノが嗚咽交じりに話し始めた。それにハッと我に返ったスペインは、壁に体を預けながら話に意識を戻す。
「置き手紙?」
『そう。四日前にね、なんだかすごく嫌な予感がして、仕事切り上げて家に帰ったんだ。そしたらテーブルに置き手紙があって、しばらく留守にするって……いつもは置き手紙なんかしないで、黙ってどっか行っちゃうのにさ』
確かに置き手紙なんて、ロマーノらしくなかった。ロマーノがスペインの家にいた時だって、勝手にどこかへ行っていつもスペインがロマーノを探していた。大体いる場所は決まっているのだが、中々見つからない時は肝を冷やしたものだ。
『多分だけど、上司も何か知ってと思う』
「え、そうなん?」
『うん。俺が兄ちゃんを探そうとしたら、何かと邪魔してくるんだ。何か知ってますよねって聞いても、何も答えてくれないけど』
ロマーノと上司が一緒になって何かを隠そうとしているらしい。国体が消滅するとなれば、流石に上司たちも焦りそうなものだが、普通に仕事をしているということは、それほど心配する事態ではないのではないか。話を聞きながらそう考えていたスペインの耳に、ヴェネチアーノのすすり泣く音が聞こえた。
『俺、こんなこと初めてなんだ……別々で支配されてた時ですら、兄ちゃんを感じれなくなったことなんてなかったのに……』
不安そうなヴェネチアーノの声を聞くと、一度安心しかけたスペインの気持ちは簡単に揺らいだ。ロマーノとヴェネチアーノは、スペインとロマーノにはない特別な繋がりがある。普通なら別の国の存在など感じられるものではないが、ヴェネチアーノが嘘をついているとも思えない。しかしヴェネチアーノの言うことが事実であれば、少なくともロマーノの身に何かがあったということになる。
『もし、兄ちゃんに何かあったら……どうしよ……兄ちゃん……』
泣いてロマーノを呼ぶヴェネチアーノの声を聞いていると、居ても立っても居られなくなり、スペインは受話器を強く叩きつけて電話を切った。そして改めて、さっきと何も変わっていないリビングを見渡した。
「ロマーノ!」
大きな声で名前を呼んだが、当然返事はない。スペインはロマーノの名前を呼びながら、家の中を探し回った。全ての部屋のドアを開け、小さな畑がある庭にも出たが、探している上向きくるんは見当たらない。
スペインは舌打ちをし、鍵もしないまま家を飛び出した。街中を走り抜け、よくロマーノと行くバルや店にも行ったが、姿はない。店員に聞いても、みんな口を揃えて今日は来ていないと答えた。
それでもスペインは近場をくまなく探し、汗だくになって公園のベンチでへたり込んだところで、すっかり日が暮れていることに気が付いた。シエスタの時間など当に過ぎ、いつの間にかセナの時間になっている。スペインは震える足でひとまず帰路につくことにした。
ロマーノにとって、スペインは逃げ場所なのだ。スペインは勝手にそう思っている。何かあると、ロマーノは必ずスペインの元へやってきた。悲しい時でも、嬉しい時でも、ロマーノはスペインのそばにやってきて、それらを話してくれる。ロマーノが何を思ってそうしていたのかはわからなかったが、スペインにとってそれはとても嬉しいことだった。
けれどロマーノが置き手紙を残して、もう四日が経っている。その間、一度もスペインの家に顔を出していなければ、連絡すら届いていない。最終的に逃げてくる場所であったはずなのに、ロマーノが今ここにいないというのは、とてつもない絶望であった。
家に帰って休もうかと思っていたが、考えれば考えるほどじっとしていられず、車を走らせて以前住んでいた屋敷に行こうと思い至った。以前スペインが所有していた屋敷は、老朽化の影響もあり、国に所有権を譲渡し、今では行政管理の観光地のひとつとなっている。中に入れるかはわからなかったが、もうそこしかスペインには思い至らなかった。
震える足で急ぎ家に帰ってみると、何故か家の電気が付いていた。鍵は閉め忘れたが、昼間に電気を点けた覚えはない。スペインは困惑して家の前でぼんやりと立ち止まっていたが、顔を顰めつつ家のドアに手をかけた。しかし鍵がかかっているのか、ドアは開かない。
「え?」
自分の家から閉め出されてしまった。慌てて家を飛び出したので当然家の鍵は持っていない。どうしたものかと途方に暮れていると、ガチャリと鍵が開く音がした。スペインが驚きに目を見開いている間にドアが開き、眩しい家の明かりが外の暗闇に伸びていく。
「お前、鍵も持たずに家を出たのか?」
呆れたようなその声に、スペインは一瞬、息をするのを忘れてしまった。ドアを開いたのは、今日ずっと探していたロマーノで、彼はいつもと変わらない様子でスペインを出迎えている。
「というか、鍵開きっぱなしだったぞ。どんだけ不用心なんだよ」
ため息をつき、ロマーノは完全にドアを開いて、スペインに中へ入るよう促した。けれどスペインは疲労と喜びで頭がぐちゃぐちゃになっていて、今にも泣きだしたい気持ちで、もう一歩も動けそうにない。そうやって固まっているスペインに気付いたロマーノは、怪訝な様子で首を傾げた。
「スペイン?どうし……うわっ」
様子を伺うようにロマーノが顔を近付けてきた際、覚えのあるロマーノの匂いが鼻を掠め、スペインはついに我慢出来なくなって、飛びつくようにロマーノを抱きしめた。
予想外だったのか、抱きつかれたロマーノは数歩後ろに下がったのち、玄関先で尻もちをつく。支えていた手がなくなったことで、スペインの後ろで玄関のドアは勝手に閉じられた。
「てっめ、何しやがんだコノヤロー!」
耳元でそう喚きつつ、抱きついているスペインの背中を殴ってくるその痛みに、スペインは目尻に涙を浮かべた。
「ロマーノや……」
騒がしい声も、大して痛くない拳も、レモンを思わせるようなシトラスの香りも、全てスペインが知っているロマーノそのものだ。ぎゅうっと強く体を抱きしめ、ぐりぐりとロマーノの首元に顔をすり寄せると、背中を叩いていた手が止んだ。
「おい、マジでどうした……?」
滅多にない様子に驚いたのか、ロマーノは恐る恐るといった様子で、スペインの背中を撫でた。それに笑みを浮かべつつ、スペインは抱きしめていた体を離して、ロマーノと顔を見合わせる。スペインの目に涙が浮かんでいることにやっと気づいたロマーノは、更に驚いた様子で目を見開いた。
「お前に会いたかってん」
スペインはロマーノの頬に手を伸ばし、顔を近付けた。相変わらず驚いた様子のロマーノは、しかし抵抗することなく、スペインの顔が近付いてくるにつれ、見開いていた目を細める。ただ触れるだけのキスを一度して、スペインは鼻先をすり合わせながら笑った。
「ほんまにそれだけやねん」
「……訳わかんねーやつだな」
ぶっきらぼうな口ぶりだったが、ロマーノの頬は明らかに赤くなっている。愛しくなって、スペインはロマーノの頬にキスをひとつ落とし、立ち上がった。まだ座っているロマーノに手を伸ばすと、むすっとした顔のままロマーノはスペインの手を取って立ち上がる。
玄関の鍵を閉め、二人は並んでリビングまで移動した。どうやら夕食を作ってくれていたようで、テーブルにはラップがかかった皿がいくつかあり、キッチンのコンロには蓋がされた鍋があった。それに感動してスペインがまたロマーノを抱きしめると、ロマーノは鬱陶しそうな顔をしつつ、ゆるくスペインの体を抱きしめ返した。
「で?ずいぶん遅かったけど、仕事か?」
少しだけ抱きしめ合って、耐えられないといった様子でロマーノが体を離した。イチャつきたいと顔に書いているスペインから目を逸らし、ロマーノは思い出したかのようにそんなことを口にする。そこでスペインは、やっと自身が何のために街中を走り回っていたのか、思い出した。
「ちゃうちゃう。お前探しとってん」
「は?俺?」
「せや。というか、こんなことしとる場合ちゃうわ。ロマーノ、イタちゃんに連絡したり」
ロマーノが家にいたことで、嬉しすぎて色んな事が一気に頭から吹っ飛んでいったが、そうこうしている間もヴェネチアーノは不安で泣いていることだろう。ロマーノが携帯を家に置いていることは聞いているので、スペインはロマーノの手を引いて、家の電話の前まで移動した。
「昼間にイタちゃんから電話かかってきてな、ロマーノがおらんってえらい心配しとったで。今日はもう帰れんし、電話だけして安心させたりや」
流石にヴェネチアーノの携帯番号は覚えていない。電話に登録されているヴェネチアーノたちの家の電話番号を探していると、突然ロマーノがスペインの腕を掴んだ。きょとんとして、スペインはロマーノを見る。
「どうしたん?電話番号覚えとるん?」
「……あいつに連絡するのは待ってくれ」
電話に落とされたロマーノの目は、どこか沈んでいるように見える。そんな様子を心配しつつ、今のロマーノの言葉で、スペインはロマーノが意図してヴェネチアーノから距離を取っているのだと気が付いた。
「なんで?イタちゃん、ほんまにお前のこと心配しとったんやで?」
「……わかってる」
頷くロマーノは、まるでこうなることがわかっていたようだった。意図的にヴェネチアーノを避け、不安がらせて喜ぶような悪趣味は持っていないだろう。スペインは顔を顰めつつ、ひとまず電話から手を離した。
「ケンカでもしたん?」
既にヴェネチアーノに確認もしたので、この可能性が低いことはわかっていた。ケンカというよりは、ロマーノが拗ねて腹を立てているだけの可能性もあったが、ロマーノはそれを鼻で笑って否定した。
「ちげーよ」
スペインの腕を掴んでいた手を離し、ロマーノはため息をひとつついた。ロマーノが何を考えているのかわからないが、スペインは電話でヴェネチアーノから「兄ちゃんが感じられない」と聞いたときに感じた、嫌な気持ちがまた蘇ってくる。まるで何かを諦めたような、静かなロマーノの表情を見ていると、その気持ちはどんどん大きくなっていった。
「今日はお前に話が……」
そこでふと、言葉を区切ったロマーノは、顔を上げて真っ直ぐにスペインを見た。諦めたような、それでいて何かを決意したようなロマーノの顔に、揺らぎは見当たらない。
「確認したいことがあって、ここにきた」
「確認……?」
頷いたロマーノは、何も言わずリビングのソファまで移動する。スペインもそれに続いてソファまでくると、二人は並んでソファに座った。ロマーノはその間もずっと顔を伏せており、前髪の隙間から見えるその瞳はじっと何かを見つめていた。
「ロマーノ。とりあえず話してや」
スペインには何が起こっているのかわからないが、電話ではなくわざわざ家に来て話がしたいということは、ロマーノにとってとても大事なことなのだろう。ヴェネチアーノには悪いと思いつつ、スペインはひとまずロマーノの話を聞いてから連絡することに決めた。
「そうだな……何から話せばいいか……」
やっと顔を上げたロマーノは、少し迷うような素振りを見せた後、改めてスペインの顔を真っ直ぐに見つめた。
「結論から言うなら……俺、国じゃなくなった」
真摯な目できっぱりとそれを口にしたロマーノとは対照的に、スペインは呆けた様子で首を傾げた。
「へ?どういう意味?」
「だから、そのままの意味だ。国じゃなく……ただの人間になったって言えばわかりやすいか?」
いまいち意味を飲み込めていなかったスペインは、途端にばっと目を見開いて、ロマーノの頭から足までを眺めた。しかし見た目はいつも通り、スペインが知っている『ロマーノ』であり、人間になったと言われても違いはわからない。
スペインの視線を受けたロマーノは、片目を眇めて呆れたような視線をスペインへ向けた。
「見た目はなんも変わってねえけどな。一応そういうことだ」
あっけらかんとしているロマーノに、スペインの方がずっと動揺していた。そもそも事態をまだ呑み込めていない。昼からロマーノが消滅したのではと思った矢先、普通に生きていて喜んでいたら、今度はただの人間になりましたと報告され、もうスペインの頭のキャパシティは限界だった。
「なんで……国じゃなくなったってわかったん?」
正直なところ、国体と人間を隔てるものが何なのか、スペインは未だにその答えに辿り着いていない。国が滅びない限り死ぬことのない生命体が国体だと思っているが、それ以外は人間とあまりに大差がない。国体だって国の成長と共に身体年齢は変化していくので、一概に年を取ったから人間になったとも言えない。それにロマーノの見た目は何も変わっていなかった。老いた様子もなく、スペインが最後にロマーノを見たその時と、何も変わっていない。そのように、スペインの目は認識している。
「ケガの治りが遅かったんだ」
困惑したスペインとは裏腹に、ロマーノの声は静かだった。そんな態度が、尚更ロマーノの語ることが事実だと突きつけてくるように。
「ちょうど二か月ぐらい前か……料理してたら、指を切ったんだよ。俺たちならその程度の傷、大体三日もしたら治るだろ?でもその時、傷口が塞がるのに一週間ぐらいかかったんだ」
説明をされても、スペインはいまいちピンときていない。確かに軽いケガならすぐ治ってしまうが、スペインは生まれてからずっとこの体なので、傷が塞がる時間などいちいち気にしたこともなかったのだ。
「そういうこともあるかとは思ったけど、なんとなく気になって、病院に行ったんだ。普通の人間の……そこで検査を受けたら、人間の体になってるって言われた」
大人しく話を聞いていたスペインは、ここにきて納得いかないように顔を歪めた。
「その医者、適当言うとるんちゃうん?なんで人間の体になってるのなんかわかるんや」
長く国をしているスペイン自身ですら、違いなどわからないというのに。国体だって食事はするし、傷が出来れば痛むし血だって出る。当然骨だってあるし、内臓だって存在していた。たかだか数十年生きただけの人間に、違いなどわかるはずもない。そう思ってスペインは首を横に振ったが、ロマーノは変わらずスペインを真っ直ぐ見つめている。
「国だった頃の俺と、今の俺とじゃ、検査の結果が違ったらしい」
「結果?って?」
相変わらず顔を顰めたまま、スペインは首を傾げる。
「今の俺は、一般的な人間の数値と同じらしい。でも国は、そもそも検査の数値が算出されないんだと」
説明されていてもいまいちわからず、スペインは自身が病院で世話になった時のことを思い出していた。たまにケガをしてしまった時、大体放っておくか自分で手当てをするが、大きなケガを負った時は病院へ行くことがあった。そんな時、確かに何かの機械に通されたり、血液を採取されることはあったが、そういえば結果らしい結果を教えてもらった覚えはない。
「機械がエラーを起こすらしい。何度試しても、ダメなんだと。だから結果が出た時点で、俺は国以外の何かにはなってるってことだ」
「やから人間になってるって?」
傷の治りが遅かったとか、病院で検査の結果が出たからだとか、いまいちそれらしい理由になっている気はしなかった。疑うようなスペインの視線に、ロマーノはわざとらしく肩を竦める。
「一番手っ取り早いのは、一回死んでみるってことなんだけどな」
国体は国が滅びない限り、致命傷を負っても死ぬことはない。今のロマーノが自殺して、死ぬことがなければ変わらず国のままだし、そのまま死んでしまったら人間になっていたということだ。
「あかんよ!」
「しねーよ、バカ」
今にも立ち上がりそうな勢いで声を上げたスペインに、ロマーノはデコピンをする。形の良い爪がスペインの額を弾いて離れていくと、スペインはすぐ自身の額を手で覆った。
「いた〜!ひどいわ、ロマーノ」
スペインが涙を浮かべてロマーノを睨めつけるが、いたずらが成功した子供のように、無邪気に笑うロマーノを見て、スペインの怒りはあっさり治まる。スペインは未だに訳が分からない状態なのに、ロマーノはずっと落ち着いた様子だ。だからこそ話の内容のわりに、なんとなく緊張感がなかった。
「まあ実際俺も実感なんてねーけどな」
「そうなん?」
「おう。でもいい口実だなーと……」
「え?なにが?」
相変わらずよくわからないことを言うロマーノに、スペインは首を傾げるばかりだ。そんなスペインをロマーノはじっと見つめて、口を開いた。
「人間になったってことを医者が上司に伝えたら、これからどうしたいって聞かれたんだよ」
「どうって?」
「国じゃなくなったんだから、今まで通りに生きていくことは無理だろ。こっちはヴェネチアーノがいるから、働くとこも住むとこも変えなきゃなんねーし」
ふと、昼間ヴェネチアーノが言っていた、上司が何か知っているということをスペインは思い出した。どうやら本当に上司は事情を知っていて、ロマーノに協力していたようだ。上司がすぐにロマーノが人間になったということを信じたのは、初めから国体は検査の結果が出ないことを知っていたということだろうか。スペインは自身にも当てはまることを頭の隅で考えつつ、また首を傾げた。
「なんで?今まで通りイタちゃんと一緒におったらええやん」
「バカ。国と人間が一緒にいられないのはお前だって知ってるだろ」
呆れたような視線をロマーノがスペインに向ける。それを受け、人には寿命があるのだということを思い出した。成長の過程が違う国と人間が長く共に過ごしていると、感覚が狂って寿命が長くなったり、発狂してしまう恐れがあるということを、スペインは耳にしたことがる。
正直スペインは普段、あまり深くそんなことを考えて生きてはいなかった。ただ人間とは、深く長い関係を築くのを避けるようにはしている。こちらの都合で、誰かの人生を狂わせるのは忍びなかった。
そこまで思い出して、スペインはある事実に気が付いた。
「ロマーノ、お前もしかして……」
目の前のロマーノが本当に人間になっているのなら、国が消滅しなくともロマーノは死んでしまうのではないか。
「別れを言いに来たん?」
普段から鈍感だと周りに言われるスペインでも、今までの話の流れを思えば、その答えに行きつくのは簡単だった。突然ヴェネチアーノの前から姿を消したのも、諦観を漂わせながら話をしているのも。何もかもを捨てるつもりで、ここへ来たのではないか。
「……そう思うのか?」
否定しないロマーノに愕然として、スペインは慌ててロマーノの腕を強く掴んだ。
「嫌や!なんやねんそれ!」
声を荒げるスペインを、それでもロマーノは特に動揺する素振りもなく見つめていた。それが更にスペインの心を荒立たせる。
ロマーノがスペインの元を離れた回数など、わざわざ数えてはいないが何度かあった。そのたび奪い返していたが、イタリアが統一するとなった時、ついに手を伸ばすことも叶わなくなったと思っていた。けれどロマーノはその後、自分の足でスペインの元に帰ってきて、隣にいることを選んでくれたのだ。
それはスペインにとってとてつもない幸福で、そこで初めてスペインはロマーノに対する気持ちが、特別なものなのだと自覚した。だからこそ、腕の中で守り続けることは出来なくなっても、ロマーノの隣にいることだけは絶対に手離さないと決めていたのだ。
「そんなん、絶対嫌や……」
ロマーノが国という存在から離れ、人間として生きていくのなら、当然スペインは彼のそばにはいられない。そう考えると、スペインの声は震えた。きたる未来が恐ろしくて。
「まあ……お前の言う未来もありえるな」
小さく息をついたロマーノは、腕を掴んだスペインの手を優しく摩った。それにハッと我に返ったスペインは、相変わらず表情の変わらないロマーノを見る。
「もし人として生きていくなら、俺は絶対ベッラと結婚して、子供を作ってイタリアで死ぬ」
言い切ったロマーノは、迷いのない目をしていた。あまりに真っ直ぐなその視線から逃れるように、スペインは目を伏せて、ロマーノが口にした普遍的な人の営みについて思う。
国の自分たちには決して手に出来ることのなかった、人としての生活をロマーノが選ぼうとしている。そして当然、そこにスペインはいない。いつまでも続いていくと思えた二人の未来は、いつのまにか混じり合うことがなくなったのだ。
「だから……」
その事実に打ちひしがれているスペインの手を、ロマーノが握った。ロマーノの腕を掴んでいるスペインの手を、だ。驚いて、スペインは伏せていた目を開いて、ロマーノを見た。
「だから、確かめたかったんだ。お前に」
「俺に……?」
さっきロマーノが「確認したいことがある」と言っていたことを思い出し、スペインは目を見開いた。ロマーノは強くスペインの手を掴んだまま、ぐっと肩がわずかに上がり、体に力が入っているのというのがわかった。
「お前、俺を狂わせる覚悟はあるか?」
問われている意味がわからず、スペインは「え?」と声を上げた。するとロマーノは途端に顔を歪め、視線を繋いだ手へと落とす。僅かに頬が赤いことに気が付いて、スペインはやっとロマーノらしい顔をみることが出来たことに、内心ほっと安堵していた。
「もしお前が、人間になった俺でもいいって言うなら、俺はずっとお前のそばにいてや……ってもいい」
素直じゃないその口ぶりに、スペインはぽかんと目と口を見開いた。絶望の淵に立たされていた心に、希望の光が差したことだけは確かだった。
「国のお前のそばにいたら、俺の寿命も伸びるんだろ……俺は元国だし、寿命がおかしくなったって、別に狂ったりはしねえ……と思うけど……」
だんだんとたどたどしい口調になりながらも話し続けるロマーノに、スペインはただ耳を傾けた。言いたいことも、したいこともいっぱいあったが、今はロマーノの言葉を聞いていたかった。
「国じゃなくなったって知った時は……悔しかったし、なんで俺がって思ったけど……嬉しいって気持ちも、あって……」
そこまで言って、途端にロマーノは顔を真っ赤に染めた。今の話のどこにそこまで照れる要素があったのかは謎だが、スペインはただ目の前のロマーノがかわいいということしか思わない。
「人間になったら、お前と……恋人に、なれるって……ずっと、思ってたから……」
想像していなかった言葉を告げられ、ついにスペインの目から涙が零れた。照れて顔を伏せているロマーノはきっと気付いていないが、そんなことはどうでもよかった。
スペインとロマーノは長く愛し合っていて、恋人のような交わりを繰り返していたが、互いを恋人だと呼んだことはない。スペインはいつだってロマーノをかいわがったし、好きだと伝えていたが、一度だって「愛してる」と言った試しはなかった。恋人になってやれないのに、その言葉を口にするのは、あまりに卑怯なことに思えたのだ。
恋人になれなくても、ずっとロマーノのそばにいれるなら、それでいいと思っていた。言いきかせていた。
「だから、お前が……」
「おって」
ロマーノの言葉を遮ったスペインは、そのままロマーノを抱きしめた。驚いたように体をびくつかせるロマーノを、ただ強く抱きしめる。
「俺のそばにおって」
スペインの目からこぼれる涙が、ロマーノの服に染みていく。それを感じて、泣いているとやっと気づいたのか、ロマーノはおどおどしい手つきでスペインの背中を撫でた。
「……おう」
「お前が離れたいって言うても、もう離さへんから。もし、お前が狂っておかしくなっても、絶対離したれへん」
息が出来ないほどぎゅうっと強く抱きしめる。もうそれぐらいでしか、スペインは今の気持ちをぶつけることが出来なかった。ロマーノは苦しいと文句も言わず、ただスペインの背中を撫でながら、返事もなくスペインの首元に顔をすり寄せた。
「守ったるから……せやから、そばにおって」
顔が見たくなって、スペインは腕の力をゆるめて、ロマーノの体を離した。涙で歪む視界の先にうつるロマーノは、困ったように眉を下げて笑いながら、スペインの涙を指で拭う。
「ロマーノ、俺の恋人になったって」
「……しょーがねえなあ」
目を細めて笑うロマーノが愛おしくて、スペインは涙を拭うこともせず、ロマーノの頬に手を添えて顔を近付けた。視界がぼやけてしまう前で止めて、赤いロマーノの顔を眺めながら、スペインはへにゃりと情けない笑顔を浮かべる。
「愛しとるよ」
何年もため込んでいた言葉はあっさりと口に出来た。けれどそれを聞いたロマーノは、ひくっと息を詰まらせて、目に涙を浮かべる。それを視界に捉えた後、スペインはそのまま顔を近付けてロマーノにキスをした。
ただ唇を触れ合わせるだけの優しい口付けは、愛を誓うのに相応しいキスだった。
すっかり二人の世界に入り込んでしまったスペインは、朝一番でヴェネチアーノに電話をした。しかし起きてすぐ隣にロマーノが寝ていたこともあり、あまりに気分が良かったので、スペインはいつも以上の陽気さで「そういえばロマーノなあ、昨日家に来ててん」と口走ったせいで、ヴェネチアーノは電話口で今までにない声でスペインを罵った。スペインは一気に目が覚める思いでヴェネチアーノに謝ったが、それでも向こうの怒りは収まらず、ひとまずロマーノを連れてイタリアへ向かうこととなったのだ。
スペインとロマーノが恋人になって、これから一緒にいると決めたのは互いの間でだけだ。これからヴェネチアーノに許可を取らなければならないし、上司たちにも説明が必要で、なおかつスペインの上司にも報告しなければならなかった。問題は山積みだったが、それでもスペインは幸せでたまらなくて、何があっても必ず乗り越えられると信じている。二人は手を取り合って、困難が待つだろうイタリアへ飛び立つのだった。
「ロマーノ。手続き終わっ……」
「チャオチャオ!えらい別嬪さんやんなあ。もし時間あったら一緒にコーヒー飲まへん?」
スペインが搭乗手続きを行っている数分の間に、昨夜愛を誓い合った恋人が綺麗な女性をナンパしている。その衝撃的な光景にスペインは目を見開いて固まったが、わりとノリ気な女性の手を引いて歩き出そうとしている姿を見て、慌てて走って二人の前に立ち塞がった。
「コラーーー!何さっそくナンパしとんねん!許さへんで!」
「……チッ」
「舌打ちしたあかん!」
本当に鬱陶しそうに顔を歪めるロマーノに、スペインは今にも泣きそうな気持だった。昨日のことは全て夢だったのだろうかとすら思える。愛を誓ってこれから二人で生きていこうと決めたばかりで、何故か邪魔者扱いを受けている。腑に落ちない。
「何?恋人なん?」
そんな二人のやり取りを見ていた女性は、二人を指さしてそう尋ねた。今までそう聞かれることは何度かあったが、そのたび違うとはぐらかしていた。けれどもう二人にその必要はないのだ。そう思うと嬉しくなって、さっきまでの怒りや悲しみをすっかり忘れたスペインは、ロマーノに抱きついて満面の笑みで頷いた。
「せやで!付き合いたてやねん!」
「ふうん……その割に浮気されかけてるやん」
「ほんまにな!?ナンパさせるためにスペイン語教えたんとちゃうで!」
「うるっせえなコンチクショーめ」
相変わらずの口の悪さにスペインが顔を顰めていると、どこからか指笛が鳴った。音がした方へと顔を向けると、どうやら騒ぎを聞いていたらしい旅行客たちが、興味津々にこちらを見ていた。
「付き合いたてなんやってなあ。おめでとさん」
「ええな〜」
「オイ若いの!チューのひとつでもせんかい!」
傍観していた人たちから声が飛ぶ。それを聞いてまた人が集まってきて、軽く人だかりが出来ていた。巻き込まれたくないといった様子で、ロマーノにナンパされていた女性は姿を消し、しれっと人の群れに紛れてこちらを見ている。
期待する眼差しが飛んでくる中、スペインはさっき聞こえた「チュー」のことしか頭になかった。実際、出かける用事がなければ、ずっとスペインの家でロマーノとイチャイチャしていたかったスペインは、今すぐにでもロマーノに触れたくて仕方がない。
「……えっ、嘘だろ」
がしっとスペインに両肩を掴まれたロマーノは、少し顔を青くしてスペインを見ている。キスをするのが嫌な訳ではなく、人に注目される中するのが嫌なだけなのだが、欲望を溶かしたような緑の目が揺れているのを見て、ロマーノはもう止められないことを悟り、ぞっとした。
「ま、まて、おい、こら、ス……ハゲ」
いくら制止されても今更止まる気のないスペインは、暴言を吐かれようと顔を近付けた。とてつもなく嫌そうな顔をしているロマーノを見て、少し傷つきながらも、ナンパしようとしたロマーノが悪いのだと思い直す。またナンパしているところを見かけたら、同じように街中で思い切りキスしてやろうと、スペインは秘かに胸の中で誓った。
「ちょ、ま、やっ……やめろーーーーー!」
ロマーノの絶叫は空港内によく響いたが、すぐスペインが口を塞いで声は途切れた。絶叫が聞こえなくなると拍手と歓声が沸き上がり、それを受けながらもスペインは愛しい唇をただただ堪能している。