裸フラメンコ動画を手に入れる子分 01

大声を出さなかった自分を褒めてやりたい。呆然とその場に立ち尽くしながら、頭の中ではそんなことを思っていた。同時にこれからどうすればいいのか、そう考えると胃の辺りが気持ち悪くなる。間違いなく二日酔いだった。
まだアルコールが抜けきっていないのか、起きた瞬間から頭痛は続いているし、腰や尻も痛い。ズキズキと体中が訴える痛みに顔を歪めながら、小さくため息をついた。
「なんでこんなことに……」
目の前に広がる惨状。乱れた真っ白なシーツ、能天気に寝転ぶスペイン、ベッドや床に転がった丸められたティッシュ、散らばっているスーツや下着、中身が減ったローション、何故か痛みを訴える腰や尻。
これだけの条件を付きつけられていて、ましてや意識を失う前の記憶が残っている俺としては、昨夜起こった事実を否定することは難しい。いくら否定したくとも。

スペインと寝た。酒の勢いでセックスをしてしまった。

目が覚めて、最初にスペインの寝顔が視界に入った時はまだ、何も感じていなかった。スペインと共に寝ることなどよくあることだ。しかし腰と尻に痛みを感じ、少しずつ昨夜の記憶を思い出していった後からは、とてもホテルのベッドを楽しんでいる余裕などなかった。
スペインを起こさないよう、慎重にベッドから下り、辺りの惨状を目の当たりにして、顔が真っ青になったのがわかった。そのまましばらくベッドのそばで立ち尽くしていたが、尻の間に何かが伝ったことを感じ、慌ててティッシュに手を伸ばす。
流れた何かを拭き取るべきか迷ったが、それを直視する勇気はなく、ティッシュを尻の間に挟んで、慌てて散らばった服に手を伸ばした。適当に服を身に着け、丸まっていたティッシュを、ゴミ箱の一番奥に押し込む。ざっと部屋を見渡して、痕跡がないことを確認して部屋を出て行こうとしたが、ベッドの端に転がっていたローションのボトルが目に入った。慌ててそれを手に取り、スペインを起こさないように慎重に、けれど急いで部屋を出た。
時刻はまだ早朝の頃合いで、昨夜は泥酔していたこともあるし、ただでさえ朝が弱いスペインはしばらく起きないだろう。誰もいない廊下を歩きながら、今度こそ大きなため息をついた。
「よりにもよって、なんでアイツと……」
エレベーターに乗り込み、自身が抑えていた部屋がある階を押して、そう漏らした。小さなひとり言は、動き出したエレベーターの音によってかき消される。
ほどなくしてエレベーターは指定していた階で停まり、ふらつく足でカードキーに表示された部屋を目指した。ドアの隣に書かれたルーム番号を確認し、カードを通すと難なくドアが開く。今回はスペインと同じホテルを取るため、弟とは別々でホテルを取っていたので、部屋の中には誰もいない。下手な言い訳を考えなくていい分、ありがたかった。
部屋に入ってすぐ、シャワールームに飛び込んで、昨夜の匂いを纏わせているスーツと下着を脱ぎ捨てた。尻の間に挟んでいたままだった、濡れたティッシュを見ないまま丸めてゴミ箱に捨て、バスタブに飛び込む。熱いシャワーを頭から浴びていると、少しだけ冷静になってきた。少しずつ思い出されていく昨夜の情事に、濡れた頭を搔き毟る。
「なんっで、スペインと……!」
会議最終日に二人で飲もうと約束したのは、ホテルを決めたその時だ。同じホテルなら帰る場所も同じやしええやん、と電話越しで呑気に話していたスペインの言葉が蘇る。その言葉通り同じホテルの部屋を取り、会議最終日に店でたらふく飲んで、部屋にも酒を持ち込んで更に飲んだ。二人ともかなり酔っていたが、スペインの酔い方は凄まじかった。
だから、間違いが起こった。
スペインは酔った勢いのまま俺をベッドに押し倒し、キスをしてそのまま俺を抱いた。男との経験なんてもちろんなかった俺は途中で酔いがさめたが、何故かスペインが持っていたローションを使って、中を貫かれた。
バスタブのカーテンを開き、トイレの上に脱ぎ散らかしたスーツを濡れた手で掴んだ。ポケットの中からローションのボトルを取り出し、半分以下に減ったその容器をまじまじと眺める。
「……あいつなんでローションなんか持ってたんだ?」
スペインのバッグから取り出されたボトルがローションだとは、最初気付かなかった。尻に垂らされてやっとそれがローションだと気付き、混乱しつつその時も「なんで?」と思ったが、それを聞く余裕なんて勿論なかった。
手のひらに収まるほどの、比較的小さめなそのボトルを、スペインは迷わず取り出した。バッグにあるのを当然わかっている風だったのだ。もちろんスペインのバッグなのだから把握していて当然だが、そうなると普段からスペインはローションをよく使っていることになるのではないか。
「あいつ……もしかしてゲイ?」
しかしすぐ首を横に振った。スペインが過去に女性と親密な関係になっていたことがあるのを、長い付き合いから俺は知っている。スペインは隠しているつもりだったようだが、バレバレだった。なのでゲイではなくバイか、はたまた今付き合っている女性の為に使っているかのどちらかだろう。
どちらにしても、とんでもないことになった事には変わりない。俺とスペインが関係を持ってしまったこと自体もそうだが、仮にスペインに恋人がいるのなら、褒められた行為ではないだろう。
またしてもため息をついて、ローションを床へ放り投げた。シャワーを頭に浴びながら、バスタブに身を預けて座り込む。
「ちくしょう……」
次会った時どんな顔をすればいいのか。そう考えると、さらに頭痛がひどくなっていく気がした。



シャワーを浴びた後、裸でベッドに潜り込んでいつの間にか眠ってしまっていたが、けたたましい携帯の着信音によって起こされた。盛大に顔を顰めながらサイドチェストにある携帯を手に取り、画面を確認しないまま電話に出た。どうせバカ弟が何時に合流するのだと、催促の電話を寄こしてきたのだろうと思ったのだ。
「朝早くになんの用だこのやろー……」
寝起きのせいもあって、掠れた声で答える。すると電話の向こうから楽しそうな笑い声がした。
『もう結構遅いで〜まだ寝てたん?』
聞こえたその声に驚いて、思わず携帯を落としてしまった。手から落ちた携帯はベッドの上を跳ねて、鈍い音を立てながら床に落ちた。微かに「え!?なんや今の音!」と騒いでいる声がして、電話の相手の声が聞き間違いでないことが証明されてしまった。
一気に目が覚めた。相手がスペインだとわかっていたら絶対電話には出なかったのにと後悔しつつ、床に落ちた携帯を拾い、それを恐る恐る耳まで近付ける。
『ロマーノ!どないしたん?ロマー!』
「……携帯落とした」
『な〜んや。おっちょこちょいやなあ、ロマーノは』
途端に安心したような声を出したスペインは、訳もなく俺をかわいがり始める。よくあることにイラっとしつつ、ひとまず深呼吸をして気持ちを落ち着かせた。
「……何か用か?」
普段と変わらない態度のように感じるスペインに、内心びくつきつつも、そう声をかけた。しかしスペインは相変わらずいつもと変わらない様子で、楽しそうに「あんなあ」と間延びした声で話し出す。
『ロマーノ、寝てたってことはまだホテルおるやんな?下のカフェで一緒に朝ごはん食べようや』
「…………え?」
『え?』
信じられないことを言われた気がして、思わず耳から携帯を離して画面を見る。するとスペインも驚いたような声を上げた。何かおかしいことを言っただろうか、とでも言いたげな様子だ。
昨夜あんなことがあったというのに、どうしてスペインは平然とした様子で俺を朝食に誘えるのだろう。いくら鈍感と無神経が服を着て歩いているような男でも、後ろめたさぐらい少しは感じているものだと思っていた。
『あれ?もう食べてしもた?』
「いや……そうじゃねえけど……」
食べてもいなければ正直食欲もなかった。寝て起きても体の節々は痛いし、酒のせいで頭痛もすれば胃も気持ち悪い。特に腰と尻の痛みはひどいものだった。歩きたくもないのだが、ホテルのチェックアウトの時間は刻々と近付いている。
『ほんなら一緒に食べようや』
「……でもまだ何の支度もしてねえし」
言外に俺のことは放っておいてくれ、と伝えたつもりだったが、電話の向こうでスペインは何でもないことのように笑った。
『しゃあないなあ。親分が片付けたるから、その間に準備しいや。部屋どこ?』
「……はあ!?」
部屋に来ようとしている。その事実に驚いて、大きな声を上げながら上体を起こした。急に起き上がったせいか腰に鋭い痛みが走り、唸りながらまたベッドに倒れ込む。電話の向こうで「どないしたん?」と能天気な声が聞こえてきて、更に苛立ちが増した。ぐっと歯を食いしばりながら、携帯の画面を睨みつける。
「絶対部屋には来んな!」
『なんで?』
「なんでもだハゲ!」
『ええ〜……朝ごはん……』
しょんぼりしたようなその声に、うっと顔を歪ませる。電話なので当然顔は見えないが、スペインの悲しそうな顔が容易に想像出来て妙な罪悪感が芽生える。元凶はスペインなのだから、俺が罪悪感を感じる必要などひとつもないのだが、眉を下げてしょんぼりしているスペインを思うと、容赦なく断ることが難しくなる。
散々迷った結果、仕方なくため息をついた。
「……今から準備するから、お前はロビーで待ってろよ」
『ほんま!?手伝ったるで!?』
「ロビーで待ってろ!」
そう怒鳴って、携帯を切った。静かになった画面をぼんやりと見つめて、先程よりも深く長い息を吐きだす。どうしてこんなにスペインのお願いに弱いのだろう。年々あの男に弱くなっている気がする。
思い返してみると、スペインに頼まれれば断れない自分がいた。ハロウィンの時だって、女装なんて本当は嫌だったのに「お願いや」とスペインに頼まれ、結局着てしまった。今だって、一夜の過ちを犯してしまった相手と仲良く朝食なんて、本当はとてつもなく嫌だ。なのに、結局断りきれずにスペインの願いを受け入れてしまった。
「……アホスペイン」
どんな顔して会えばいいのかわからないまま、怠い体を起こして、仕方なく脱ぎ散らかした服に手をかけた。



怠い体を引きずりながらロビーまで下りると、本当にスペインが待っていた。ソファにゆったりと体を預けながら、利用客をのんびり眺めていたスペインは、こちらを視界に捉えると嬉しそうに立ち上がって駆け寄ってきた。
「おそよう。思ったより早かったなあ」
邪気を感じない笑顔で話すスペインは、本当にいつもと変わらないように見える。嫌みのような、からかいのようなその言い草に、普段であれば怒鳴って蹴りでも入れているところだが、当然そんな動きだってしたくないぐらい体が重怠い。何よりあんなことがあったのに、何事もなかったように振る舞っているスペインが不気味で、ただ無言で睨みつけることしか出来ない。
「……あれ?あんま元気ない?」
当然俺が怒るだろうと思っていたらしいスペインは、無反応な俺に目を丸めて、顔を覗き込んできた。目を合わせるのも嫌で、そっと目を逸らす。するとちょうど視線の先には、スペインが電話で言っていたであろうカフェがあった。
「おい、飯食うんだろ。さっさと行くぞ」
「あ、うん……」
スペインの顔も見ないままカフェの方へ向かうと、スペインも早足で追いかけてきて、俺の隣に並んだ。歩いているというのに、その間もスペインの視線が顔に向けられていることはなんとなく気付いていたが、意地でも目は合わせない。
どうしていいかわからない、というのもあったが、単純に少し腹が立っていた。あんなことがあったというのに、スペインはいつも通り、アホ面を晒して能天気に笑っている。まるで何も気にしていないかのような様子で。
どうやって顔を合わせたらいいのか、何て言われるのか、何を言えばいいのか。そんなことをぐるぐる考えながら急いで身支度を整えた自分がバカみたいだ。スペインが気にしていないならよかった、自分も気にしないでおこう。そう思えたらいいのに、どうしてか楽観的に考えられず、一人だけなかったことに出来ているスペインに苛立ちを覚えてしまう。
考えれば考えるほど苛立ってきて、どんどん顔つきが険しくなりながらも、カフェのテーブル席へと腰を下ろした。腕を組んでむっつりしているロマーノを不思議そうに眺めながらも、スペインはメニューを渡してくる。
「何にするん?」
「……カフェオレとスープ」
酒が残っているせいで胃が気持ち悪いというのもあったが、体が疲れているのであたたかいものがほしかった。目も合わせずに言い切ると、スペインは驚いたように目を見開いた。
「え、そんだけ?パンは?」
「いらねえ」
「飲み物と飲み物やん」
「スープは飲み物じゃねえだろ!」
しつこさに睨みつけると、スペインは「飲み物やん」という顔をしながらも、黙って頷いた。そのまま店員を呼び、俺の分も含めてオーダーする。スペインは普通にモーニングのセットを頼むようだった。あれだけ飲んでおいて普通に食えることに、顔を歪める。どれだけ強靭な胃を持っているんだ。
「なんかしんどそうやけどまだ酒残ってるん?」
「……逆にお前は残ってねえの」
「まあちょっと頭痛いけどまだ大丈夫やな」
平然と言ってのけるスペインに、またしても顔を歪める。昨夜のスペインは相当飲んでいて、呂律も回っていないほど酔っていたはずだ。飲んでいる相手が俺だというのに、それでも押し倒してセックスしてしまう程度には前後不覚になっていたはずなのに……と、昨夜のことを思い出してしまい、わずかに頬が熱を持った。すぐスペインから視線を逸らして、テーブルを睨みつける。
本当ならスペインを睨みつけたいところだが、あまり目を合わせたくなかった。どうしても昨夜のことが頭を過る。ぶるぶると頭を振り、浮かんだ映像をかき消した。昨夜のことを思い出してしまえば、スペインのように平静でいられるわけがない。
「あ、酒といえば……ロマーノ」
呼ばれて、顔を上げるか少し迷ったが、のろのろとスペインを見る。そこには少し困ったように笑うスペインがいた。
「昨日はごめんなあ」
申し訳なさそうにしているが、それでもあっさりと謝罪の言葉を口にしたスペインに愕然とした。電話をかけてきて平気で朝食に誘ってきている時点で相当おかしいのだが、それでもスペインなら昨夜のことを、もっと真摯に謝ってくれると思っていた。だってあのスペインだ。散々俺のことを子分としてかわいがっていた相手を、酒の勢いで犯したとなれば、顔面蒼白になって謝り倒してくるだろうと。なのに、まさか平謝りで終わるとは。
信じられなくて言葉も出てこない俺を置いて、スペインはまた口を開いた。
「俺、昨日はほんま酔っぱらっとってんなあ……いつ寝たかも覚えてへんねん」
「……だろうな」
実を言うと、俺もいつ寝たのか覚えていない。途中までは記憶があるけれど、それ以降はなく、気付いたら朝だった。尻の違和感は凄まじかったが、それでも尻からスペインの一物が抜けていたことだけにはホッとしていたぐらいだ。俺だってスペインがいつ寝たのかなんて当然記憶にない。
「部屋まで片付けてくれとったやろ?」
流石にあのままでは帰れなかったので、情事の痕跡が残るものは全てゴミ箱の底に隠しただけだ。自分が見たくなかったということもあるが、なんとなく気まずさを覚えて、またしても視線をテーブルへ落とした。
「服まで脱ぎ散らかして……起きたら素っ裸やったわ」
素っ裸になるようなことをしたのだから、そうなっていても仕方がない。そんなことをわざわざ、昨夜の相手である俺に言ってくるなんて、悪趣味にもほどがある。怒りと羞恥で顔が赤くなるのがわかった。
「その……俺、裸でフラメンコでも踊ってもうた?」
「…………は?」
意味の分からない言葉が耳に届き、顔を上げてスペインを見る。スペインは少し顔を赤くしながら照れた様子で頬を掻いていた。
裸でフラメンコ。セックスをわかりづらく言っているのだろうかと、しばらく固まって考えていると、スペインが慌てた様子でまた口を開いた。
「いや、俺なあ……飲みすぎたらたまに脱いでまうことがあるみたいでな、前に素っ裸になってフラメンコ踊っとる動画をフランスたちに撮られてて……」
とてつもなく知りたくなかった事実を聞かされ、顔を顰める。どうせフランスとプロイセンだろうが、この三人は集まると碌なことがない。三人で散々飲んで酔っ払ったスペインから電話がかかってきて、よくわからない話を延々聞かされた夜など、数えきれないほどある。だから悪友とか言われている三人が飲んでいると、とばっちりを受けるので嫌いだった。
「……踊ってはねえな」
踊りとは違う方面での運動ならしたが。
そこでふと、違和感を覚えた。スペインはどうして昨夜裸だった理由を、俺に聞いてくるのだろう。裸になった理由なんて、ひとつしかないだろうに。
「なんや、よかったあ。じゃあただ脱ぎ散らかしただけやねんな」
「……『ただ脱ぎ散らかしただけ』?」
「え?」
その違和感を後押しするような言葉を、ほっとした様子でスペインが口にした。同じ言葉を繰り返した俺に、きょとんと目を見開いたスペインを見つめたまま、今朝のスペインを思い返してみる。
思えば、電話の時点からおかしかった。酒の勢いだけでセックスしてしまった相手に、わざわざモーニングコールをして朝食を共になんて誘うだろうか。ましてや相手は昔から世話を焼いていた子分だ。そんな相手に手を出して、あのスペインが謝罪もなく平然とした態度で接してくるなど、ありえない。カフェに入ってからも、スペインが口にした謝罪はあまりに軽いものだった。別にしてほしいと思っている訳ではないが、スペインなら有名な土下座というやつすらやるのではないかとすら、シャワーを浴びていた時は思ったのだ。
そして今の妙な違和感。スペインは裸になっていた理由を覚えていないような口ぶりだ。
嫌な予感がした。ぐるぐると頭で考えて出たその結果は、今さっきのスペインの話を思うとあまりに矛盾点がない。妙に口の中が乾いている。一度唇を舐めてから、まだきょとんと目を見開いているスペインに向かって、口を開いた。
「お前、さ……昨日の記憶はどこまであるんだ?」
「え?どこまでって……」
聞きたくないと思いつつ口にすると、スペインは首を捻って明後日の方向を見た。何かを思い出す様に目を細めている姿を、ただ願いを込める様にじっと見つめる。
「酒買ってテレビ見ながら一緒に飲んで……喋って、飲んで……飲んで……気付いたら朝やったかな」
未だ明後日の方向を見ているスペインは真剣に思い出そうとしており、嘘をついているようには見えない。つまりスペインは本当に、昨夜俺を押し倒してキスしたことも、そのままセックスしたことも、全て綺麗さっぱり忘れているということだ。そう考えると、スペインの朝からの態度も納得がいく。平然としているのは何も覚えていないからだし、軽い謝罪も酔った勢いで騒いでごめんね程度なのだ。
スペインは何も覚えてない。そう思うと、すっと体から力が抜けた。今朝スペインから電話を受けてから、むしろスペインの部屋を飛び出したその時からずっと、これからのことを考えて体も頭も緊張していた。今になって思うとそんな自分がバカらしいが、もう昨夜のことについてとやかく考えなくていいのだと思うと、少しだけ気持ちが楽になった気がする。
「ロマーノ?」
ぼうっとスペインを見つめて固まっていた俺に、スペインが声をかけた。それにハッと我に返って、改めてスペインを見る。どこか心配した様子でこちらを見つめているスペインは、言い辛そうにしながらも口を開いた。
「あの……もしかして俺、覚えてへんだけで……なんかやらかしてもうた?」
珍しく察しが良いスペインに俺が答える前に、店員が料理を運んできた。一応ホテルに併設しているカフェなので、料理を持ち運んできた店員は礼儀正しく声をかけ、テーブルに料理を並べていく。ごゆっくりと声をかけて、小さな足音しか立てず去っていく背中をしばらく見つめた後、またしてもスペインに視線を戻した。相変わらず、不安そうに眉を下げている。
「やらかしてるっつーの」
「ええ、ほんまに!?」
驚愕の声を上げるスペインを睨みつける。今にも泣きそうな表情のスペインに、事実を全て話してしまったら、どうなることだろう。
「……お前、散々酔っぱらって服脱いで、そのまま寝やがったんだぞ。お前の裸なんか見たくねーんだよハゲ。ふざけんな」
思っていることとは全く別の言葉が、スラスラと口から飛び出した。保身の為なら、嘘なんていくらでもつける。悪態を混ぜつつスペインを睨みつけると、あからさまにホッとした様子でスペインが笑った。
「ごめんなあ。次からは気を付けるわ」
「次やったらお前の恥ずかしい写真バラまいてやるからな」
ふん、とわざとらしく鼻を鳴らしてから、湯気を立てているスープを口にする。野菜がたくさん入ったクラムチャウダーは、具も大きくしっかり貝の風味もするのに、なぜかおいしいと感じなかった。まずくはないし確かに味も感じるのだから、スープがおかしいのではなく、間違いなく自分の舌がおかしくなっている。
スペインも同じように食事を始めているのをこっそり盗み見る。パンにバターを塗って今にもかぶりつこうとしている能天気なスペインを、出来ることならイスを使って殴り飛ばしたいが、当然そんなことはしない。俺が嘘をついたのだから、スペインが能天気になるのは仕方がないことだ。
事実を口にしたら、今頃朝食どころではなくなっていたことだろう。嬉しそうにパンを頬張っているスペインは顔面蒼白になりながら、俺に縋り付いてでも謝るはずだ。今のように笑ってはいられない。いっそ、忘れていてくれてよかったのかもしれない。別にそんなスペインが見たい訳ではなかった。
「ロマーノ?食べへんの?」
考え事をしていて、すっかり手が止まっていた俺に、スペインは首を傾げていた。それに応えることはなく、またスープに口をつける。しかしやはりおいしいと思わない。そもそもあまり食欲がない。たかだか皿一杯のスープを飲み干すのが、苦行のように感じた。余ったらスペインに押し付けようと思いつつ、これから先のことを考えると、二日酔い以外の理由で胃が気持ち悪くなってくる。
これから俺は、何も覚えていないスペインと、何もなかった振りをしながら付き合っていかなければならない。そう考えると、やはりスープを掬う手の動きは、どんどん鈍くなっていく。きたる未来が、憂鬱で仕方がなかった。



結局完食することが出来ず、余ったスープをスペインに押し付けた。あまりに食欲がない俺をスペインはやはり心配していたが、それを二日酔いのせいだと丸め込み、そのまま空港に向かった。空港で弟と合流し、その後は乗る飛行機が違うのでスペインと別れることになる。
「ほんまに大丈夫なん?飲ませすぎたんやなあ、次はもっとセーブして飲もな」
別れるギリギリまで俺の心配を口にしていたスペインは、搭乗時間になってついに俺の手を離した。名残惜しそうに俺を見つつ、笑顔で手を振りながらゲートへと向かっていく。
「またな〜!ロマーノ!」
満面の笑顔を浮かべているスペインに軽く手を振り返しながら、頭の中で昨夜のスペインを思い出していた。間違いなく同一人物なのに、今と昨夜では全然顔が違う。余裕のない様子で、顔を赤くしながら欲に濡れた目で俺を見下ろしていたあの男は、どこへ行ったのだろう。背中を向けて去っていくスペインに、昨夜の名残などどこにも見当たらなかった。
「兄ちゃん、大丈夫?」
飛行機のシートにぐったりと体を預ける俺を、ヴェネチアーノが心配した様子で覗き込んできたが、当然それに応えることも出来ない。どうしてか今朝よりずっと体が怠くなっていて、フライト中はずっと寝ていた。
やっとの思いで夕暮れ時に家に辿り着き、体温計で熱を測ってみると、高熱が出ていた。ヴェネチアーノが慌ててじゃがいも野郎を呼ぼうとするのを止め、荷物の片付け放り出してすぐ眠ってしまった。一応解熱剤だけは飲んでいたが、原因が何なのかわからない熱なので、下がるのかはわからない。経済状況による体調不良なら、解熱剤など飲んでも大して熱は下がらない。
腰や節々の痛みを感じながらも、汗を浮かべてベッドで丸くなる。ぎゅうっと目を閉じて、よくわからない熱と体の痛みが早く去っていくことを願っていると、そのまま眠っていたようだった。次に目が覚めた時には窓の外が明るく、時計を見ると昼前になっていた。
「兄ちゃん、起きたんだね」
ノックもなしに部屋へ顔を出したヴェネチアーノは、さっそく体温計を持ってきた。渡されるがまま熱を測ると、微熱程度ではあったがまだ熱がある。しかし昨日よりは下がっているおかげか、体は随分楽になっていたし、腰や尻の痛みもマシになっていた。これなら明日には回復している気がする。
「今日はゆっくり休んでね」
笑いながらそう言って、ヴェネチアーノは体温計を戻しに部屋を出て行こうした。しかしドアを開いた状態でぴたりと体を止め、肩越しにこちらへ振り返る。
「なんだよ」
出て行かないヴェネチアーノに顔を顰めると、ヴェネチアーノは少し言い辛そうにしながらも口を開いた。
「あのさ……スペイン兄ちゃんとケンカでもした?」
眉を下げてそう尋ねてきたヴェネチアーノは、ある程度確信を持ってそう口にしている気がした。そうでなければ、スペインを名指し出来るとも思えない。しかし空港で別れた俺とスペインの間に、おかしな点なんてひとつもなかったはずだ。きちんと、完璧に、何もなかった俺を装えていたはずだった。
「……なんで」
疑うような視線を向けつつ聞くと、ヴェネチアーノは俺の目から逃れる様に視線を落とした。
「昨日の夜……『スペインのバカヤロー』って魘されてたよ」
その答えに、目を見開いた。気が付いたら朝だったぐらいなので、夢なんて見た覚えはないけれど、寝ている間もスペインのことを考えていたのかもしれない。そう思うと、なんともやるせなかった。
「…ケンカじゃない」
だからって今の自分の気持ちを、素直にヴェネチアーノに吐露することなんて当然出来ない。スペインと酔った勢いで体の関係を持った相談なんて、軽蔑されないにしても、自身のプライドが許さなかった。
「そっか。それならいいんだ」
笑って、ヴェネチアーノはそのまま部屋を出て行った。遠ざかっていく足音を聞きながら、ベッドの上で一人、深くため息をつく。
ベッドの横には、会議の時に持って行ったスーツケースがあった。ベッドの上に乗ったままそれを開き、手を突っ込んで中を探ると、指先にこつんと硬いものがぶつかる感覚がした。迷いなくそれを掴み、引っ張り出す。
取り出したものは、スペインが何故か持っていたローションだった。スペインの部屋から逃げた時、痕跡を残したくなくて慌ててそれを持ち帰ってしまったが、記憶のないスペインに返すことなど当然出来ない。仕方なく持って帰ってきたが、改めてボトルを見ても、やはり中身は減っていた。そのことに少しだけ、ほっとしている自分がいる。
スペインが何も覚えていないのならば、もしかしたらあれは俺が見た夢だったのかもしれない。帰りの飛行機の中で、悶々とそんなことを考えていた。けれど夢であればこのローションは減っていないはずだし、そもそも腰と尻が痛い理由が思いつかない。やはりただスペインが覚えていないだけだった。
ボトルを握りしめたまま、それを睨みつける。
「……なんで忘れてんだよ」
スペインの大バカ野郎め。自分だけ忘れて、何でもない顔をして、裸でフラメンコを踊ってたんじゃないかなんてバカな勘違いが出来る能天気ハゲ。一人で楽になりやがって。
ただ、あの夜をひとり抱えた俺は、どうすればいいんだ。
「ふざけんなよ……バカスペイン」
当然、応える声はひとつもなかった。