008


「はいよ、おつり」
「ありがとうございます」

 にこやかに笑うおじさんから手渡された何枚かの硬貨。ちゃりん、と独特の音を立てて手のひらを転がるそれを握りしめてわたしはホッと安堵の息を吐いた。この世界の経済事情が分からないわたしはお金の計算が出来ない。手のひらの一枚の硬貨がどれだけの価値を持つのかも分からないし、抱えた紙袋に入ったひとつのリンゴがどれだけお金がかかるものなのかも正直分かっていない。きっと女将さんが足りなくならないようにと多めにお金を持たせてくれたんだろうけれど、今度からは少し自分でも計算できるようにしないとな。わたしは硬貨の感触を確かめるように握りしめた。

(よし、これで全部)

 ひとつひとつの買い物は少なかったものの、こうして持ってみるとなかなか量が多い。女将さんから何か大きな袋でも借りてくれば良かったな。諦めて持って帰るしかない。むきだしのおつりをそのままポケットにしまいこんで、ふうと一息吐いてから紙袋を抱えなおした。そのままくるりとおじさんに背を向ける。下町とは全く違う景色に初めて足を踏み入れた時はその賑やかさに目を見張った。

(ここが市民街……)

 なんと言っても人が多い。下町では見知った人が多いから余計にそう感じるのかもしれないけど、帝都の玄関口にもなっているこの辺りではとにかく色んな人が行き交っている。派手なドレスを身にまとった人、道端で大きなキャンバスを前に絵を描く人、ベンチに座って談笑をする人。もちろんわたしのように買い物をしている人。穏やかな時間が流れる下町とは全く異なる雰囲気に最初は戸惑いもあったけれど、その分人目を気にしなくて良いという利点は嬉しい。けれど……どうも気持ちが落ち着かないのも事実だった。
 さて、用事も済ませたしさっさと下町に戻ろう。足を踏み出した時、ふと横目に一人の女性が映り足を止めた。若草色のドレスはその人の雰囲気に良く似合っていてまるでお伽噺に出てくるお姫様のようだった。この世界はどちらかというと洋風な世界観なんだなあ、と不思議な気持ちになると同時に改めて現実を突きつけられたような感覚に陥る。下町に彼女のような煌びやかな服飾を身に着けた人など見たことがない。きっと階級があるのだろう。そして下町の人たちはあまり恵まれた生活を送れていないのだ。
 きゅっとわたしは紙袋を抱く力を強める。

(あ、)

 ぼんやりと女性を眺めていると手元からひらりと一枚のハンカチが舞う。パステルイエローのそれは誰に気付かれることもなく地面に落ちた。重いものなら落ちた衝撃で音がなるものだが、それもなかったから気付かなかったのだろう。女性は足を止めることもなくヒールを鳴らして西の階段を上っていってしまった。わたしは行き交う人の間をすり抜けてハンカチを拾い、邪魔にならないよう道の脇に寄る。次第に小さくなってゆく女性の姿を見上げながらどうしようかと考えあぐねていた。

(西の階段ってことはきっとあっちが……)

 思い出されるのは市民街に向かう時の女将さんの真剣な顔と力強い眼差し。

「いいかいアズサ、貴族街には絶対に近づいちゃ駄目だからね。西の方角に階段があるはずだからそこには行っちゃいけないよ」

 貴族街なんだろうなあ、きっと。
 普段優しい女将さんがあれだけ硬い表情で言ってきたのだから、下町の人と貴族との間に大きな溝があることには間違いないのだろう。階級による差別……が一番有力だろうか。とにかく、下町お人たちが貴族のことを良く思っていないのはなんとなく女将さんたちの様子から察することができた。

(でも、ただ落とし物を渡すだけなら)

 けれど、すぐそこに落とし主がいると分かっているのにそれを届けないのはどうにも忍びない。もしかしたら大切なものかもしれないし。淡い黄色のハンカチを握りしめてわたしは階段を見上げる。
 ……すぐにあの人に渡してすぐ戻ってくれば大丈夫だろう。一段目を登ろうとした時の事だった。

「待って」

 この場には少し不釣り合いな金属音が鳴ったと思ったと同時にハンカチを持った手首を誰かに握られる。紙袋に入ったリンゴ同士がこつんとぶつかった。いきなり腕を握られたことにも驚いたけれど、その声をかけてきたその人物をを視界に入れてわたしは瞑目する。まず目に飛び込んできたのはいかにも重そうな甲冑。髪は柔らかな日差しのように優しい金色。緩やかに細められた瞳は青く、その整った顔立ちはユーリさんにも勝るとも劣らない。まるで物語に出てくる騎士みたいだ。けど、どうしてそんな人がわたしの手を掴んでいるのだろう。
 口元を上げて微笑むその人にわたしは戸惑いを隠しきれなかった。

「……あの、」
「そっちは危ないよ」

 どうやら紙袋が傾いていたらしく、ころりとひとつのリンゴが地面を転がっていった。


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