007


 宿屋の裏口でユーリさんに声をかけられた時には流石に驚いた。彼はわたしのことをあまり良くないと思っていたから。

「あんまりじいさんに心配かけんなよ」
「え……?」

 腕の傷もようやく塞がり包帯も取れてきた頃、いつまでも下町の人にお世話になりっぱなしでは申し訳なくて"箒星"で手伝いを始めることにした。文字の読み書きが出来ないことを女将さんも知ってくれていたみたいで任される仕事は主に食器の皿洗いや洗濯、買い物等のもっぱら裏方仕事。極力、下町の人とは関わりを少なくしようと思っていたわたしにとって女将さんの申し出はありがたいものだった。今日も客室のシーツを洗ってほしいとお願いされたのでわたしはお店の裏口でもくもくとシーツを洗う。その時だった、不意にユーリさんに声をかけられたのは。
 桶の中で泡立ったシャボン玉が太陽に反射してきらきら光っている。ふわりふわりと空中に浮かび上がるそれを背景に映るユーリさんの姿は惚れ惚れするくらいに絵になっていた。じいさん、とはハンクスさんのことだろうか。わたしは内心どきどきしながら口を開く。

「えっと……ハンクスさんのことですか?」
「ああ。無茶してないか心配してたぞ。まだ怪我も治ったばかりなのにってよ」
「……そうですか」

 ハンクスさんとは一時の関係だけだと思っていた。結界魔導器(シルトブラスティア)の境界で意識を失ったわたしと偶然助けてくれたハンクスさん。傷が治ったらすぐに家を放り出されるかと思ってびくびくしていたけど、今も宿主と居候という不思議な関係は続いている。それはもしかしたらわたしが記憶喪失で帰る家も分からないと思い込んでいるからなのかもしれないけれど、わたしとしてはこれ以上に有難い状況はない。身寄りもお金もないわたしにとって衣食住が安定しているというのは。
だから、働かないとと思った。わたしが出来るのはこれくらいしかないと思ったから。それにいつまでもハンクスさんや女将さん、下町の人たちに甘えているわけにもいかない。これからどうなるか分からないけれど、少しでも自分で生きる為のすべを見つけておかないととはなんとなく思っていたから。

「あっ、ユーリだ!」

 ぱたぱたという足音と共に軽やかな声が聞こえる。無邪気にこちらに向かって走ってくるテッドくんの姿を見てわたしは内心ほっとした。ユーリさんと一緒にいるのはどうにも緊張してしまう。余計なことは喋れない。彼はゲームの主人公であり、確実ではないけれど下手をすればストーリー上に関わってしまう可能性もあるのだから。
 テッドくんは女将さんの息子さんだ。明るくて人懐っこくてわたしともすぐに仲良くなってくれた。時々わたしの仕事を手伝ってくれたり、暇な時間帯は下町を案内して色々と教えてくれたりととても頼もしい存在となっている。テッドくんのおかげで随分と下町にも慣れた。テッドくんとユーリさんの話を黙って聞いていればどうやらユーリさんは自分の家に帰る途中だったらしい。それから話を済ませたテッドくんがくるりとこちらに向く。

「アズサ! 洗濯が終わったら一緒にお昼ご飯食べようってかあちゃんから伝言だよ」
「分かった。ありがとう、テッドくん」
「うんっ、ユーリもじゃあね!」

 大きな桶の中には何枚かシーツが残っている。汚れはほとんど落としたから後は水ですすいで干すだけ。今日は天気も良いから乾くのもきっと早い。女将さんたちを待たせるわけにはいかないからさっさと仕事を終わらせてしまおう。走り去っていくテッドくんの背中を見つめながらぼんやりと考えていると、視界の端でユーリさんが動いた。多分、ユーリさんも家に帰るのだろう。ぱちりと視線が合い軽く手を挙げたユーリさんにわたしは軽く会釈をする。彼が背中を向けたのを確認してからわたしは作業を再開させる。ふわふわと舞い上がったシャボン玉は宿屋の屋根までゆっくり浮上していく。ぱちんとあわが弾けたその瞬間、一緒に見えた紫黒の髪にわたしは思わず瞑目した。

(えっ、)

 宿屋の裏口の真上はちょうど客室が並んでいる。宿屋なのだから当たり前と言えば当たり前なのだが、問題なのはそこにユーリさんの姿があること。洗っていたシーツを手放し、慌てて客室の玄関が見えるところまで移動した。タイミングよく扉を開けたその人の背中は間違いなくユーリさんのもので。下町に住んでいるのなら一番、宿屋には近づかないと思っていたからここで手伝うことを選んだというのに。まさか物語の主人公が宿屋の一室に住んでるなんて誰が思うだろう。

(ついてないな、ほんとに……)

 大きく外れた自分の勘にため息が零れた。


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