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 一体、誰がこんな事態を予想していただろうか。
 まさか人の街を治めていたのが魔物だったなんて。

「あなたも、人の言葉を話せるのですね」
「先刻そなたらは、フェローに会うておろう。なれば、言の葉を操るわらわとてさほど珍しくもあるまいて」
「あんた、始祖の隷長(エンテレケイア)だな?」
「左様じゃ」

 始祖の隷長は満月の子を嫌う。現にフェローはエステルちゃんを"世界の毒"と呼び、消そうとしていた。だけど、目の前の始祖の隷長が彼女を見つめる瞳に嫌悪感は映っていない。エステルちゃんが満月の子だと気がついていないだけなのだろうか。

「じ、じゃあ、この街を作った古い一族ってのは……」
「わらわのことじゃ」
「この街ができたのは、何百年も何百年も昔……ってことは……」
「左様、わらわはその頃からこの街を統治してきた」

 何百年も前からたった一代でノードポリカを作り上げた。スゴイのじゃ! とパティちゃんは興奮ぎみにその場で跳ねる。まるでお宝を見つけたかのように喜ぶ彼女を見て、ベリウスは楽しげに長い尻尾を揺らめかせた。

「……ドンのじいさん、知ってて隠してやがったな」
「そなたは?」
「ドン・ホワイトホースの部下のレイヴン。書状を持ってきたぜ」

 ベリウスはレイヴンさんから手紙を受け取って視線を落とす。始祖の隷長とは言葉だけではなく文字も読むことができるみたいだ。文字が読めない自分からすると少し羨ましい。

「いまさらあのじいさんが誰と知り合いでも驚かねえけど、いったいどういう関係なの?」
「人魔戦争の折に、色々と世話になったのじゃ」

 ベリウスの発言にユーリさんたちは随分と驚いているようだった。よっぽど有名な戦いだったのだろうか。誰かに尋ねるのはまずいかもしれないと感じて咄嗟に開きかけた口を閉ざす。こんな時、文字が読めたら自分で調べることが出来るのにといつも思ってしまう。

「さて、ドンはフェローに街を襲われてはかなわぬようじゃな。無碍には出来ぬ願いよ。一応承知しておこうかの」
「ふぃ〜。いい人で助かったわ」
「街を襲うのもいれば、ギルドの長やってんのもいる。始祖の隷長ってのは妙な連中だな」
「そなたら人も同じであろう」

 ひとつひとつの言葉がずっしりと重たく胸に落ちるのは、やはりわたしたち人間より何倍も長く生きる生き物だからなのだろうか。
 やがて、暗がりの中でベリウスと視線が不意にぶつかる。漆黒の瞳がゆっくりと瞬きを繰り返しわたしを見つめていた。初対面のはずなのにまるで久しぶりに会った友人のような態度をとられるのはなにも今回が初めてではない。

「そこにいるのはアズサか?」

 それこそ、ダングレストの街をフェローが襲ってからだ。わたしそっくりな人物の存在を知ったのは。最初は状況が掴めなくて戸惑うばかりだったけど、今はあの頃ほど動揺することもなくなった。だって――求められてるのはわたしではないから。

「こいつを知っているのか?」
「ふむ、知っていると言えば知っている。だが……」

 言葉を切ったベリウスは長い毛で覆われた腕を動かす。多分、手招きをされているのだろう。いくら敵意がないと頭の中で理解していも自分より何倍も大きな体躯を持った生き物に近づくのは戸惑いがあった。踏み出せない背中を押すように誰かがわたしの両肩に触れる。ゆっくりと振り返ればジュディスさんが微笑んでいた。

「大丈夫よ、アズサ。行ってあげて」
「――はい」

 おそらく、ジュディスさんとベリウスは面識があるのだろう。だから彼女はわたしを安心させるために声をかけてくれたんだと思う。わたしの表情がかなり強ばっていたから。
 一歩、一歩、確かめるように足を進める。ある程度まで近づくとベリウスの方がわたしの近くまで顔を寄せてきた。顔を覆う長い体毛は月明かりに照らされてきらきらと輝いていた。こんなに魔物を近くで観察するのはラピード以来ではないだろうか。じいっとわたしを覗きこむベリウスの瞳には見事に緊張した面もちの自分が映っていた。

「あの、確かにわたしの名前はアズサなんですけど、あなたの知っているアズサではないと思うんです」
「ふむ……どうやらそのようだな」

 やっぱりベリウスが思っている人物はわたしではなかった。ベリウスの顔がそっと離れていき、内心ほっと息をつく。しかし、ドンもベリウスも知り合いだったとは自分とそっくりなアズサという人物は随分と有名人だったようだ。少なくとも一般人という分類には入らないだろう。彼女が所属していたという『蒼の迷宮(アクアラビリンス)』が余程大きなギルドだったのか、それとも……。
 昔から考え込むと周りが見えなくなるのは悪い癖だった。俯いていた頬に何かが触れびくりと肩が跳ねる。それはベリウスの手だった。ゆっくりと顔を上げて、目の前の光景に瞑目する。

「ベリ、ウス……?」
「随分と数奇な運命を辿らせてしまったようだ。"歪み"がまさかこのような結果を生みだしていたとは」
("歪み"……)

 ――不安定な存在だな。

 忘れたくても忘れられない。まだ旅を初めて間もない頃、自分の立ち位置があまりにも曖昧だった頃。全てを見透かされたような気がして身体が震えた。あの真っ赤な瞳と真っ白な髪。今でも鮮明に覚えている。

「他の人にも似たようなことを言われたことがあります。わたしは不安定な存在だと」
「――そうか、」

 ほとんど直感に近かった。ベリウスの伏せられた瞳や微かに反応した指先が物語る。きゅっと唇を引き結ぶ。
 きっと、ベリウスはわたしの探し求めていた答えを持っている。

「何か、知っていることがあるなら教えてもらえませんか? "歪み"とはどういう意味なんですか。存在が不安定ってどういうことなんですか」

 手のひらに自然と力がこもる。ずっと何故なのか知りたかった。そのために旅を続けてきた。命を危険に晒してまで。
 わたしの問いかけにベリウスは何も答えない。たっぷりと時間を置いて、やがてするりとわたしの頬に触れていた手を滑らせる。そして、顔を寄せ耳元で囁く。消え入りそうなほど小さな声で。

「どうか、この世界を嫌いにならないでおくれ」


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