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「どうかこの世界を嫌いにならないでおくれ」

 耳元で囁かれた言葉が頭の奥でいつまでも響いている。きっと、わたしにだけ聞こえるようにベリウスは気にかけてくれたのだろう。あまりユーリさんたちには聞かれたくない話の内容だったから。静かに離れていくベリウスをわたしはぼんやりと見上げていた。

「あの、ベリウス。それはどういう、」

 意味ですか、と最後までは言えなかった。いきなり肩に手が乗ったかと思ったら、そのまま身体を力強く引き寄せられる。あまりにも突然で声も出せなかった。いつの間にこんなに近くにいたのだろう。ベリウスと向き合うのに夢中で背後の存在に全く気が付かなかった。ぱちぱちと瞬きをして真剣な眼差しでベリウスを睨みつけるその人物を見上げる。

「ユーリさん……?」
「アズサに何を吹き込んだ」

 わたしが小さく名前を呟いてもユーリさんはベリウスから全く目をそらさないまま更に肩を抱く力を強めた。ぐっと厚い胸板に押し付けられて少し息苦しい。でも、ユーリさんが近くに来てくれて少しだけほっとしている自分もいた。ジュディスさんの知り合いなのだから見た目は魔物でも大丈夫だと頭に刻み込んではいたけれど、やっぱり心のどこかでは安心しきれていなかったのだろう。

「――その娘を見捨てるでないぞ」
「ベリウス……?」
「話すつもりはないってか。当たり前だ、なんでアズサを見捨てなきゃならないんだ」

 ユーリさんの返答にベリウスは何故か満足げに微笑む。それ以上はなにも聞けなかった。ベリウスの視線が奥に立つエステルちゃんたちに移ったからだ。彼女を満月の子と呼んだところをみると、やはり存在には気が付いていたらしい。彼らの意識が完全にベリウスに変わったのを感じて、ようやくユーリさんは肩に置いた手を解いた。

「ありがとうございました……」

 ついさっきまで密着していたからか、なんとなく気恥ずかしくて顔が上げられない。ずっとブーツの爪先を見つめていたわたしにユーリさんはさっきとは比べられないくらいに穏やかな声色で話しかけてくれた。

「アズサ、怪我はないんだよな?」
「は、はい。怪我はどこもないです……」
「ならいい。エステルたちのところに戻るぞ」

 おそるおそる前髪の隙間から覗きこむとユーリさんはゆるりと微笑んでいた。その光景が以前のものと重なる。結界魔導器(シルトブラスティア)のない不思議な街でデュークさんに色んな事を言われて頭の中がぐちゃぐちゃに混乱していた時、ユーリさんは何も聞かず傍にいてくれた。頬に触れた指先の感触も覚えている。その優しさがどうしようもなく嬉しかったのだ。

(ユーリさんの優しさは正直に嬉しい。だけど……)

 分からないことは今でも多い。自分とよく似た少女、不安定な存在の意味、世界の"歪み"。それでも確かにピースは集まり始めている。パズルを組み合わせるようにバラバラだったものがひとつに繋がっていく。自分の考えが確実に合っているはどうかははっきりと判断することはまだできないけれど、かと言っていつまでも独りで塞ぎ込むわけにもいかない。
 一歩を、踏み出さなくては。

「あのっ、ユーリさん……っ」

 踵を返そうとしていた彼の服の裾を引っ張る。ぴたりと足を止めたユーリさんは不思議そうにわたしの名前を呼んだ。正直、顔はまだ上げる勇気はかった。ユーリさんがどんな反応をするのかあまり想像がつかなかったから。でも、代わりにほんの少しだけ服を掴む手のひらに力を込める。

「まだ、わたしもベリウスの言葉の意味がしっかりと理解しきれていないんです。だから……ちゃんと自分の中で整理がついたら、話を聞いてもらってもいいですか?」
「アズサ――」

 その時、ずっと静寂に包まれていた場の空気が一変した。鼓膜に響くキン、と金属同士がぶつかる音、そして怒号のような声も聞こえる。ただ事ではない雰囲気に音の聞こえた出入口の扉の方へ顔を向ければ視界の端でユーリさんが呆れたように肩をすくめていた。

「なんの騒ぎだよ、いったい」

 やがてけたたましい音と共に扉が乱暴に開かれる。その頃にはわたしもユーリさんから手を離し、エステルちゃんたちのすぐ傍まで戻ってきていた。頼りない明かりの中で扉の前に立つ二人の人物に懸命に目を凝らす。一人は大剣を背負った大男。もう一人は深く被った帽子のせいで顔はよく見えない。

「遂に見つけたぞ、始祖の隷長(エンテレケイア)! 魔物を率いる悪の根源め!」
「ティソン! 首頭(ボス)!」
「これはカロル君ご一行。化け物と仲良くお話するとは変わった趣味だな」

 カロルくんの知り合いということは以前に所属していたギルドの仲間だろうか。あまり素行が良いとは言えなさそうだ。パティちゃんも同じような感情を抱いたようで明らかに不機嫌そうな顔をしていた。男の一人が彼女の態度が気に食わなかったようで火花を散らす。扉の向こうではさっきよりも激しい金属音と騒音が響いている。かなりの大人数で押し入ってきたらしい。ベリウスのことを人間の大敵だと叫んだ大男は背中の剣を、帽子を被った男は両手に小刀のようなものを構えた。

「俺ら魔狩りの剣(マガりのツルギ)の制裁を邪魔する奴ぁ、人間だって容赦しやしねえぜ」
「かかってこないなら、俺が行く! さあ相手になれ、化け物!」

 素早い動きで斬りかかってきた大男の剣をベリウスは片手で易々と受け止める。加勢しようとユーリさんたちが咄嗟に武器を構えたが、ベリウスは自分よりナッツさんの加勢に入ってほしいと言ってきた。狙われてるのは自分の命のはずなのに。握りしめた棍に力が入る。

「でも、ベリウスっ……!」
「あんたは大丈夫なのかよ!?」
「たかが人などに後れは取りはせぬ」

 確かに人間よりも遥かに長い時を生きてきた始祖の隷長ならこの場を潜り抜けることなど容易いことなのかもしれない。けれど、ベリウス一人に対して相手は二人。いくらベリウスが強いといっても数で押されてしまったら不利になってしまうのではないか。現に奇襲が成功している時点で魔狩りの剣が圧倒的に有利な状況なのだ。不安で心臓がきゅっと締め付けられる。
 しかし、はっきり言って考えている暇はなかった。ベリウスを見つめていたユーリさんはやがて静かに頷く。行くぞ! と駆け出す彼を見てわたしは後ろ髪を引かれながらも地面を蹴った。


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