101


 ふと手のひらを開いてみる。昔より硬くなった皮膚には小さなまめがあった。今度はぐっと手のひらを握りしめてみる。圧迫でじんわりと赤みを帯びるそれは――わたしがまだ生きているという何よりの証拠だ。
 魔狩りの剣(マガりのつるぎ)を一掃し終えると異様な静けさが闘技場を包む。もう自分たちを襲ってくる敵がいないと分かると真っ先にエステルちゃんがナッツさんの治癒に取り掛かった。傷だらけだったナッツさんの身体がみるみる内に本来の見た目を取り戻していく。けれど、流石にこの短時間では完治まではいかないようで。ゆっくりと立ち上がるナッツさんの肩を支え、まだ疲労の色が残る横顔をそっと覗き込んだ。

「大丈夫ですか」
「ああ、すまない……ところで、ベリウス様はご無事なのか?」
「――ベリウスは今頃、」

 ナッツさんに現状を伝えようとしたその時、頭上から突然ガラスの割れる音がした。上を見上げる間もなく天井から勢いよく何かが降ってくる。その衝撃で地面が微かに揺れる。地面に激しく叩き落されたのが魔狩りの剣(マガりのつるぎ)の二人だと分かるのにそう時間はかからなかった。ほとんど同時にベリウスが軽やかに着地を決めたからだ。己の統領(ドゥーチェ)の無事を知り思わず前のめりになるナッツさんを慌てて支える。

「ベリウス様!」
「ナッツ。無事のようだの。まだやるか、人間ども!」

 身体のあちこちに小さな傷は見受けられるものの、ベリウスの方がまだ優勢に立っているようで内心ほっと息を吐いた。

「……この……悪の根源……め……」

 舞い上がる砂塵の中からゆらりと動く黒い影。かなりの高さから落ちてきたというのにまだ戦う体力が残されているというのか。骨が折れていない方が不思議なくらいの衝撃だった。しかし、自分の武器を支えにふらふらと立ち上がる二人の目に諦めの二文字は映っていない。それどころか先ほどよりも強い憎悪の念を感じてぞわりと背中が粟立つ。正直、わたしだって魔物は好きではない。傷つけられた過去もある。だが、あの二人の魔物に対する憎しみは――異常だ。

「あいつが悪の根源? んなわけねぇだろ。よく見てみやがれ!」
「魔物は悪と決まっている……! ゆえに、狩る……! 魔狩りの剣が、我々が……!」
「この石頭ども!」
「この……魔物風情がぁ……!」

 吠えるように叫んだフードの男が地面を蹴り、一瞬にしてベリウスと距離を詰める。大きく振り下ろされた小刀をすかさずジュディスさんが前に出て槍で食い止める。激しく金属同士がぶつかる音が鼓膜を刺激した。

「ベリウス様!」
「駄目ですナッツさん! まだ動いたら……!」

 今にも駆け出してしまいそうなナッツさんを引き止める。放してくれ! とナッツさんが肩に乗った手を振り払おうとするがその力はわたしでもなんとか抑え込める程に弱々しい。そんないつ倒れてしまうかも分からない人を戦闘に送り出すわけにはいかない。

「だめ!」

 ジュディスさんの焦った声が聞こえたかと思ったら、視界の端で突然何かが光り始めた。顔を上げるとそこには全身に光を帯びたベリウスとそのすぐ近くで手を伸ばしたまま唖然とするエステルちゃんの姿。状況を飲み込めずにいると急にベリウスが胸に手を当てて苦しみ始めた。低く呻く声があまりにも痛々しい。次第に強くなっていく光はまるでベリウスを飲み込んでしまうようにも見えた。
 やがてベリウスは苦しむ様子もなくなり全身を覆っていた光は消え去っていく。ゆっくりと瞼を持ち上げたベリウスは――わたしたちに向かって鋭利な爪を振り下ろしてきた。

(間に合わない)

 咄嗟にきゅっと目を瞑る。以前、魔物に噛まれた時よりも痛くないといいのだけど。身体を縮こませ痛みを待つがいつまでもその時はやってこない。恐る恐る目を開くと視界いっぱいに広がる見慣れた大きな背中。こうやって守ってもらうのはもう何回目になるだろう。
 ベリウスの攻撃を剣で振り払ったユーリさんはそのまま地面を蹴って相手の懐に飛び込む。隣でナッツさんが何度もベリウスに声をかけるけど全く耳に届いていないようだった。一体、ベリウスの身に何が起こったのか。獣のように咆哮を上げ、大きく裂けた口から鋭い牙をむける。鋭利な爪も長い尻尾も己のすべてを武器に本能のまま襲い掛かってくるベリウスは、魔物となんら変わらない。

「戦って止めるしかないのか!?」
「でも、こんなの相手に手加減なんて出来ないわよ! こっちがやられちゃうわ!」
「そんなのって……!」
「でも……やるしかなさそうなのじゃ」

 このままでは闘技場自体が崩壊してしまう。そして闘技場が破壊されれば――次は街全体にも危害が及ぶかもしれない。それほどにベリウスの攻撃の勢いは増していた。観戦席の一部が音を立てて崩れていく。迷っている時間はない。ユーリさんたちは戦う決意をして武器を構えるが、中にはエステルちゃんのように時間のかかる人もいた。

「アズサっ!」

 肩越しに振り返ったユーリさんと視線がぶつかる。これまでの経験上、わたしがなすべきことは決まっている。そして、そのために何をしなければならないのか。彼の瞳に込めたれた意図を読み取り、こくりと頷いた。
 わたしは、わたしにできることをやらなければ。

「ナッツさん、ここは危険です。少し離れましょう」

 肩に添えていた手を放し棍を取り出す。すでにユーリさんたちはベリウスを止めようと戦闘が始まっていた。薄暗い空間がハンデにならないと良いのだが。ぐるりと周囲を見渡せば魔狩りの剣の二人の姿が見当たらないことに気が付いた。隙を見て逃げ出したか、応援を呼んでいるのか。それともどこかに隠れてチャンスをベリウスを殺すチャンスをうかがっているのか。きゅっと棍を握りしめる。

「しかし、ベリウス様が……」
「ベリウスは命を狙われた自分よりもナッツさんの手助けをしてほしいと言っていました。今も、きっとあなたに傷ついてほしくないはずです」

 ナッツさんの無事を知った時のベリウスはとても優しい目をしていた。大切な人が傷ついているのを見て悲しい気持ちになるのは始祖の隷長だって同じはずだ。
 けれど、ナッツさんのベリウスを助けたいという気持ちもよく分かる。助けたくても助けられない、黙って見守ることしか出来ない歯痒さは。ぐっと唇を噛み締めていたナッツさんはやがてわたしの後ろに身を引いてくれた。

「――すまない」
「……大丈夫です、気にしないでください」

 戦いの余波で飛んできた石壁の一部をバリアーで防ぐ。いつベリウスの攻撃がこちらに向かってくるか分からない今、安易に魔術を解くのは賢明ではない。強く握った棍で地面をとんっと叩く。ここからは集中力との戦いだ。
 リタちゃんの魔術がベリウスの動きを封じる。その隙を狙ってユーリさんやカロルくん、ジュディスさんが懐に飛び込む。レイヴンさんも得意の弓矢で援護射撃を行う。見事な連携プレイでもベリウスはなかなか止まってくれない。早くベリウスが正気を取り戻してくれますように。祈るように透明な膜の向こう側からユーリさんたちとベリウスを見守っていた。


top