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 ブーツを脱いで寝室のベッドに倒れ込むとスプリングがぎしりと音を立てて軋んだ。シーツに顔を埋めて肺にたまっていた空気を吐き出す。身体は鉛のように重たくて今すぐにでも夢の中に旅立ってしまいたいのに眠気がやってくる気配はない。原因はなんとなく自分でも分かっていた。のろのろと上体を起こして手元にあった枕をぎゅっと抱きしめる。

(さっきの光景が脳裏に焼き付いて離れない)

 ジュディスさんの手によって船の駆動魔導器(セロスブラスティア)が壊されてしまった。駆動魔導器が起動した際にエステルちゃんの持っていた聖核(アパティア)が奇妙な反応を起こし、気づいた時には彼女が槍を構えていたのだという。そのままジュディスさんは空から現れた魔物の背に乗り夜の海へと消えてしまった。あまりにも突然のことで誰もが戸惑っているのだろう。リタちゃんはあれから何も言わず黙々と魔導器(ブラスティア)の修理をしているし、エステルちゃんやカロルくんも暗い表情をしていてとてもじゃないけど話しかけられるような雰囲気ではなかった。わたしも、ジュディスさんの行動にかなり驚きを隠せない。

「ジュディスさん……」

 ぽつりと呟いた声が部屋に響く。最初の頃はミステリアスな雰囲気にどう接して良いものか悩んでいたけど、実際に話してみると親しみやすくお茶目な部分もあって。意外にもユーリさんに匹敵するほど好戦的な性格で。旅をしていく中で周りからも姉みたいに慕われるようになっていって――仲良くなれたと思っていたのはわたしたちだけだったのだろうか。彼女の穏やかな微笑みの下では別の感情が渦巻いていたのだろうか。あの時のジュディスさんはとても冷たい目をしていた。あんな表情は今まで見たことがない。
 それに、ジュディスさんを迎えに来たあの魔物。夜の海は暗くはっきりと見えたわけではないけれど、鯨のようなフォルムには見覚えがあった。まさか、竜使いがジュディスさんだったなんて。

(でも、ジュディスさんは"私の道"って言ってた)

 たとえユーリさんたちを裏切る形になってしまったとしても、船の駆動魔導器を破壊しなければならない理由があったのだろう。きっとジュディスさんと心の中に。わたしたちの知らない理由が。それが"ジュディスさんの道"。

(わたしは否定できない……)

 もちろん、ジュディスさんの一連の行動は許されるものではないのだろう。少なくともリタちゃんは大切な魔導器を破壊されて間違いなく悲しい思いをしているし、エステルちゃんもベリウスの一件もあり動揺していた。カロルくんだってギルドの一員がいなくなれば痛手になる。
 でも、もしそれがわたしにとって"元の世界に帰るための手段"になりうるのなら。周りにいる人たちを巻き込んでもわたしが帰りたい場所に一歩でも近づくことになるのなら――同じ道を辿っていたかもしれない。今はまだ手段が見つかっていないだけの話で素性を隠して旅をしているという点においてはジュディスさんと一緒だから。

「アズサ、入ってもいいか?」

 枕を抱え悶々と考え込んでいると扉の向こうから軽いノック音。同時にユーリさんの声が聞こえてびくりと肩が跳ねた。シンプルな木目調の扉と自分の体勢を交互に見て慌ててベッドから飛び降りる。流石にだらしない恰好で彼と会うわけにはいかない。急いで枕を元の場所に戻して服の皺や乱れた髪を整える。ベッドの端に座りなおしてからどうぞ、と声をかけるとユーリさんが扉を開けて部屋に入ってきた。みんなが集まる部屋にはめ込みで設置された男性陣のベッドと違い、女性陣は別室で二段ベッドになっている。反対側のベッドに腰かけたユーリさんは不意にわたしのブーツに視線を落とした。

「悪い。寝てたんじゃないか」
「寝ようとは思ってるんですけど、なかなか寝付けなくて……」
「そうか……いや、そうだよな」

 苦笑交じりに言ったユーリさんは静かに唇を閉ざし視線を下に落とす。その表情には僅かだが疲労の色が窺えた。流石のユーリさんも今回の一件は困惑しているのだろう。逆に言えばそれだけ衝撃的な出来事だったのだ。簡単に眠れるわけがない。

「あの、みなさん大丈夫ですか……?」
「エステルたちのことか?」
「……すみません。わたし、うまくかける言葉が見つけられなくて」
「アズサが謝る必要ないだろ。むしろ、オレの方があいつらを混乱させてんだ」

 港での出来事が鮮明に蘇っていく。ユーリさんの答えを聞いたときの彼の悔しそうな表情もはっきりと目に焼き付いている。それでも聞かずにはいられなかった。だって、ユーリさんは――この物語の主人公なのに。自嘲気味に笑う彼の手元にぶら下がった刀が目に留まる。わたしの命を何度も助けてくれたあの刀が知らないところで誰かの命を奪っていたというのか。

「……フレンさんの言ってた話って本当なんですか」
「ああ」
「そう……なんですね」

 たまらず視線を下に落とす。上手くかける言葉が見つからない。ユーリさんは罪を犯した。でも、もしラゴウやキュモールが生きていたら己の私利私欲の為に彼らの非道な行いはきっと今も続いていただろう。ユーリさんのお陰で救われた命が確かにある。
 しかし、やはり殺人は許されるものではないのだ。それはどの世界においても。ましてや相手は帝国の上層部に属する人間。彼の背負った罪はあまりにも大きい。

(……前にドンが言っていた)

 抗うことすらできないから運命というのだ、と。

 俯いていた顔をゆっくりと持ち上げれば自然とユーリさんと視線がぶつかった。もしかしたら不幸な事故だったのかもしれない。本人にそのつもりはなく、何か事情があったのではないか。色々と想像してみたけれど、彼の真剣な表情を見たらそんな甘い考えも全部吹き飛んでしまった。
 もう、ユーリさんは選んでいたのだ。わたしたちの知らないところで――たった独りで。

(これが、ユーリさんの運命)

 なんて寂しいのだろう。
 きゅっと唇を引き結ぶ。気を抜けばじわりと涙が溢れてしまいそうだった。わたしが泣いたってユーリさんの孤独は変わらないし、なにも解決したりしない。それでもつい考えてしまう。どうしてこの人だったのだろうかと。きっとこれがゲームのシナリオなんだと頭では理解していても彼は今、わたしの目の前に存在している。この世界で生きているのだ。

「アズサ?」

 ベッドから降りたわたしは自分がブーツを脱いでいるのも忘れてユーリさんの元に向かう。わたしを見上げ不思議そうに瞳を瞬かせるユーリさんの手を両手で包み込んだ。女の人みたいに白くて細長いけど所々に豆が出来ている戦う人の手。触れた指先から彼の体温が伝わってくる。ほら、ユーリさんは生きている。

「怖くなかったですか」

 人の命を奪った瞬間は。
 ほんの僅かに瞑目したユーリさんは少し考え込むように瞳を伏せた。長い睫毛が紫黒の瞳に影を作る。やがてユーリさんは乾いた声で笑った。いつもの彼からは想像できないくらい、とても弱々しい笑みだった。

「…………正直、慣れたくもないな」

 ユーリさんは自分についてあまり話そうとしない。それは以前フレンさんも指摘していた。なんでも一人で抱え込んでしまう、と。今回だって港でフレンさんが話さなかったらどうするつもりだったのだろう。いつまでも心の中に閉じ込めていたかもしれない。そんなユーリさんがほんの少しでも自分の気持ちを明かしてくれた。話してくれた。
 今は、それだけで充分だ。

「……少し安心しました。ユーリさんもやっぱり人間なんですね」
「は? おい、それどういう意味だよ」
「言葉の通りですよ」

 ゆるりと口元に笑みを浮かべつつ元のベッドに座りなおす。怪訝そうにわたしを見るユーリさん。もう先ほどまでの暗い表情は見られなかった。良かった、いつものユーリさんだ。
 目の前の課題は山積みなのだ。いつまでものんびりと海を漂っているわけにはいかない。わたしは胸の前で揺れる武醒魔導器(ボーディブラスティア)を見下ろす。手を伸ばすと魔核(コア)がちかりと瞬いたような気がした。

「負の感情は負の連鎖しか呼びませんから」

 するりと唇から零れた言葉。自分では喋ったつもりは全くなかったが、心当たりはある。咄嗟に口元を抑えたのが良くなかったのだろう。目敏いユーリさんの瞳がわたしを捕える。大丈夫ですよ、と誤魔化そうとしたその時――頭に激痛が走った。

「っ……!」

 まるで金槌で殴られているような痛みに声も出せずベッドに倒れこむ。じわりと生理的な涙で視界が滲んだ。駆け寄ったユーリさんが懸命にわたしに声をかけてくれているが、ろくな返事も出来ずただ痛みに歯を食いしばる。いっそのこと意識を失ってしまった方が楽なのではないかと思うくらいだ。

「おいアズサっ!」

 一体、自分の身体に何が起こっているのだろう。激痛に耐える中、今度は瞼の裏に途切れ途切れに映像が入り込んできた。ちかちかと世界が瞬く。
 夕暮れに染まるアスファルト。真っ赤に染まった二本の大小の刀。閑静な住宅街。風にはためく瑠璃色のマント。力なく地面に転がる腕。
 分からない。これは誰の記憶なのだろうか。

「許さない――許さないっ!」
(な、に……?)
「わたしは絶対に許さないっ!」

 その言葉を最後にわたしの意識は途切れる。視界がブラックアウトする直前、ふわりと海の香りが鼻を擽った。


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