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「あれ、今日って確か本屋に寄る日だったっけ?」
「そうだよ」
「じゃあ、ここで! また明日ねー」
「バイバイ」

 その日は好きな作家の小説が発売される日で駅前の本屋に寄る予定だった。曲がり角で手を振って互いに背を向ける。前の巻が気になる部分で終わってしまっていて続きの巻が読めるのを心待ちにしていたのだ。足取りも自然と軽くなる。
 日が傾き始めるこの時間帯に駅に向かう人は少なくない。夕焼け色に染まり始めた道を人の流れに沿って歩いていると、突然背後からドンっという大きな音と共にたくさんの悲鳴が聞こえてきた。慌てて振り返ると横断歩道に突っ込む一台の車。その近くには人が何人も倒れている。咄嗟に見上げた道路の信号機は赤。車の信号無視だった。しかし悲劇はこれだけでは終わらない。
 車のタイヤが再び勢いよく回りだす。煩いエンジン音を響かせながら今度は反対車線の車に突っ込んだ。鈍い衝撃音。ボンネットが凹んだ車は一度バックすると方向を変え、スピードを上げて歩道に乗り上げてきた。目の前で人が次々と轢かれていく。所詮、暴走車というやつだった。

「逃げろ!」

 そう言ったのは誰だったか。気が付けばわたしの世界は天と地がひっくり返っていた。

***

 ゆっくりと瞼を開けるとそこには見知らぬ天井があった。ここはどこ? なんでわたし知らない場所で眠っているんだろう。確か夜中に船の寝室でユーリさんと話していたら急に頭が痛くなって、それから……。
 ぼんやりとした思考のまま上体を起こして辺りを見渡す。等間隔に並んだベッド。サイドテーブルに置かれた水差しと空のグラス。シンプルなグレーのソファー。どれもが船の中にはなかったものだらけ。どうやらここは宿屋の一室のようだった。きょろきょろと視線を彷徨わせていると窓の向こうの景色に目が留まる。オレンジ色の空、石造りの街並み、上空に輝く結界魔導器(シルトブラスティア)。見覚えのある景色だ。

(だけど、いつもの様子と少し違う……?)
「アズサ! 良かった、目が覚めたんだね!」

 がちゃり。扉から顔を覗かせたのはカロルくんでわたしと目が合うと勢いよくベッドまで駆け寄ってきた。ずいっと顔を寄せる彼の表情は真剣でそんなに長い間眠っていたのかと不安になる。おずおずとカロルくんに尋ねれば真面目な表情で返ってきた日数に頭を抱えたくなった。両手で顔を覆いごめん、と謝罪する。迷惑をかけている場合ではないというのに。

「アズサが元気ならそれでいいよ。覚えてる? 船の中で倒れた時のこと」
「なんとなくは……。ここは、ダングレスト?」
「そうだよ。アズサが倒れた後にリタがすぐに駆動魔導器(セロスブラスティア)を修復してくれて、急いでダングレストに来たんだ」
「ドンにベリウスの聖核(アパティア)を渡す為、だよね」
「うん。それとレイヴンがハリーをユニオンに連れていきたいって」

 そういえばあの船にはハリーさんも乗っていたんだっけ。ほとんど会話もしていないからあまり印象に残っていない。
 今頃ユーリさんたちはドンの元に向かっているのだろうか。今度ドンに会う機会があれば蒼の迷宮(アクアラビリンス)についてもう少し詳しく話が聞ければと思っていたのだが、しばらくお預けになりそうだ。胸元で揺らめくペンダントを見下ろして、あれ? と違和感を抱く。どうしてカロルくんはユーリさんたちと一緒に行動していないのだろう? わたしを一人にさせるのが不安ならきっとユーリさんはラピードを残すはず。たまたまカロルくんが別行動をとっていて宿屋に戻ってきただけなのだろうか。

「ねえ、カロルくん。ユーリさんたちは一緒じゃないの……?」
「そうだっ! アズサ、街が大変なんだよ!」

 このままじゃギルド同士の戦争になっちゃう!
 身振り手振りで懸命に説明してくれるカロルくんだったけど、あまりに話の内容が継ぎ接ぎで全く伝わってこない。明らかな異常事態なのは彼の様子で一目瞭然だった。しかし、今は他に話を聞ける人がいない。なんとか全体像だけでも把握しなければ。カロルくんの話が一区切りついた瞬間を狙って彼の両肩にポンと手を乗せる。そのままベッド近くの椅子へと導いた。

「大丈夫、落ち着いてカロルくん。ゆっくり、慌てないで、もう一度話を聞かせて?」
「う、うん」

 ようやく聞けたダングレストの現状はわたしの想像を遥かに上回っていた。ベリウスの死がそんなに大事になっていたなんて。ユニオンと戦士の殿堂(パレストラーレ)の全面戦争。もしそんなことが本当に起きてしまえば街がどれだけの被害を被るか分からない。互いがギルド同士ならなおさら。きっと――バルボスの時以上の惨劇が待っている。

「どうしようアズサ……」
「ーーユーリさんたちと合流しよう。もしかしたらこっちに戻ってきてるかもしれない」

 正直言って今のわたしたちに出来ることなどたかが知れている。それならユーリさんたちと一緒に行動した方がまだ良いはずだ。ベッドから降りてブーツに足を入れる。黙々と紐を結び直すわたしにカロルくんが名前を呼んだ。

「アズサ病み上がりなのに大丈夫なの……? 顔色だってまだ十分良いって言えないのに」
「わたしのことなら大丈夫。気にしないで」

 仕上げとばかりにブーツの爪先で床を叩き立ち上がる。ほんの一瞬、眩暈がしたがただの立ち眩みだと自分に言い聞かせた。若干の身体の怠さは否めないが、本当にこの街が戦場になってしまえば満足に身体を休めることだって叶わないのだ。行こう、とカロルくんの手を握る。カロルくんはわたしの顔と握られた手を交互に見て躊躇いながらも握り返した。
 街中を歩いているとあちこちで天を射る矢と戦士の殿堂が睨み合っているのを見かけた。それぞれに武器を構え、張りつめた緊張感が流れているのが遠目からでも分かる。息が詰まるのを感じながらカロルくんとひたすら街の外へ続く道を急いだ。

「アズサ!」

 街と外を繋ぐ大きな橋の手前で不意に名前を呼ばれ顔を持ち上げる。目に映るのは反対側からこちらに向かって走ってくる複数の人影。なんだか久しぶりに彼らの顔を見たような気がする。でもその中にジュディスさんの姿はやっぱりなくて、ちくんと胸が痛んだ。

「もう動いて大丈夫なんですか? 身体の痛みとかありませんか?」

 走った勢いのままわたしを抱きしめてきたエステルちゃんは頬や肩にぺたぺたと手のひらをくっつける。少し擽ったい。確か、レイヴンさんと途中で合流した時も似たような抱擁をしてもらった記憶がある。頬に触れた手に自分の手を添えて大丈夫だよ、と答えるとエステルちゃんはひどく安堵したように胸をなでおろした。多分、まだベリウスの一件が引っかかっているのだろう。微かに翡翠の瞳は濡れていた。

「アズサ」

 ユーリさんに名前を呼ばれて顔を上げる。

「今の状況は把握できてるか?」
「――カロルくんから大体の事情は聞いています。ドンには、会えたんですか?」
「ああ、会うには会えた……な」

 けれど、そこからなかなか口を開かないユーリさんに胸が妙にざわつく。難しい顔をしたユーリさんに声をかけられないでいるとカロルくんが隣で今のダングレストの様子を慌てて伝え始めた。ギルド同士の対立がますます加速していること。街に戻ってきたドンの様子がおかしいこと。カロルくんの話を聞いている間にもどんどんユーリさんの眉間に皺が増えるのが分かった。似たような表情をしたレイヴンさんも視界に捉え、更に胸のざわつきが大きくなる。暑くもないのに手のひらに嫌な汗が滲んでいった。

「じいさん、最初から死ぬつもりだったのよ」

 がつん、と頭を殴られたような衝撃が走る。

「ドンが、死ぬ……? どうして……」
「なんでよ! ワケわかんないんだけど」

 ベリウスが命を落としたのはハリーさんが海凶の爪(リヴァイアサンのツメ)に聖核に関する間違った情報を握らされたからだ。本当に制裁を受けるべき相手はその統領であるイエガーのはず。それなのにどうしてドンが死ななければいけないのだ。頭が混乱してユーリさんたちの話についていけない。とうとうカロルくんは瞳を滲ませながら街の中へ駆け出してしまった。かける言葉が見つからないまま伸ばした手は空を切る。

「きっと他にも方法があるはずです!」
「だがこれ以上どっちも辛抱できない。一触即発ってやつ。このままだとユニオンと戦士の殿堂の全面戦争になっちまう」
「他の方法を探してる時間はもうないってことなのかの……」

 一人の命と大勢の命。被害を最小限に抑える為に――ドンは自分の命を差し出す決意をしたのだろう。そうすれば誰も争う必要がなくなるから。理屈では理解できても心はそう簡単に割り切れるものではない。でもパティちゃんの言う通り、時間がないのも事実だった。

「……オレもじいさんところ行ってくる」

 ユーリさんに続くようにエステルちゃんたちもゆっくりと動き出す。覚悟したのだ、ドンの死を。少しずつ離れていく背中をわたしは追いかけられずにいた。今の私にドンの死を見届ける覚悟はあるのだろうか。
 ブーツの爪先を見つめたまま動けないでいると不意に肩に手を乗せられてびくりと跳ねる。わたしはゆっくりと振り返った。

「レイヴンさん……」

 唇からは想像以上に掠れた声が零れる。レイヴンさんは振り返ったわたしの顔を見て微かに瞳を丸くした。余程、酷い顔をしているのだろう。不意に肩から離れたレイヴンさんの手はわたしの頭に移される。そのまま前髪をくしゃりと撫でられた。

「病み上がりなんだし、アズサちゃんは無理して行くことないのよ?」

 本来なら青年の役割なんだけどねえ、こういうの。
 ぱっと手を離して皮肉っぽく笑うレイヴンさんだけど、この人はわたしたちの誰よりもドンと関わりのあった人なのだ。きっと辛いはずなのにこうしてわたしを気遣ってくれている。これ以上、迷惑をかける訳にはいかない。申し訳ない気持ちでいっぱいになりながらふるふると首を横に振った。

「――大丈夫です。わたしたちも行きましょう」


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