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 先に向かったカロルくんやユーリさんの後を追いかけてわたしたちが広場に辿り着く頃には既に多くの住民がドンを取り囲むように集まっていた。みんなユニオンの統領の最期を見届けるつもりなのだろう。あちこちからすすり泣く声が聞こえてくる。
 人混みをすり抜けると広場の中心に座るドンの姿を見つけた。周りに立つのはおそらく戦士の殿堂(パレストラーレ)のメンバーだ。彼らだけ纏う空気が全く違う。そして、ドンの近くにはカロルくんが立っている。今にも泣きそうな顔をしているカロルくんに向けてドンは何かを伝えていたが、わたしのいる位置からは遠くて内容までは聞き取れなかった。

「よう、アズサじゃねえか」

 初めて彼と邂逅した時は緊張感と威圧感でロクに目を合わせることもできなかった。ドンの力強い眼光を受け止められている自分はあの頃よりも成長できているのだろうか。うっすらと笑みまで浮かべるドンをまっすぐ見つめ返し、カツンとブーツを鳴らす。周りの視線が集まっているのを感じながらも足を動かすのを止めない。ドンも何も言わず、ただ近づいてくるわたしを見つめていた。ひんやりとした風が髪を攫い露わになった首筋を撫でる。
 ドンに会ったら話したいことがたくさんあった。聞きたいこともたくさんあった。でも、それは――もう叶わない。零れ落ちそうになる言葉たちをぐっと堪えて飲み込む。ドンの時間はほとんど残されていないのだ。戦士の殿堂が牽制とばかりに武器に触れた所で足を止める。これ以上は近づくなということなのだろう。こちらを睨みつけてくる戦士の殿堂を一瞥しドンを見つめなおす。わたしより何倍も大きな体格のドンを見下ろすのはとても奇妙な感覚だった。

「……ドン、ひとつ聞いてもいいですか」
「なんだ」
「これがあなたの――抗うことすらできない"運命"だったのですか?」

 水道魔導器(アクエブラスティア)を取り返し下町に戻る予定だったわたしに旅を続けるきっかけをくれたのがドンだった。自分がいることでユーリさんたちの物語を壊してしまうかもしれない。悲観的になっていたわたしにドンが言ってくれた。抗うことすらできないから"運命"というのだと。
 ドンは唇を引き結ぶわたしを数秒間、黙って見つめると不意に視線を下に落とした。そしてゆるりと口角を持ち上げる。これから命を絶とうとしている人間とは思えないくらい、穏やかな笑みだった。

「そういうことになるんだろうな」

 じわりと視界が滲む。ドンはもう全てを受け入れているのだ。これが己の"運命"だったのだと。

「アズサ」
「……」
「一時間後、街の結界魔導器(シルトブラスティア)の前に来い。蒼の迷宮(アクアラビリンス)について新しい情報を手に入れた」

 本当は直接伝えられたら良かったんだがな。
 自嘲気味に笑うドンにわたしは何も言えなかった。そのままドンは言葉を続ける。

「だが、てめぇにとって良い情報ではないかもしれないがな。聞くか?」

 蒼の迷宮はわたしが旅を続けるひとつの理由でもあった。この世界に存在しないはずのわたしと名前も容姿もそっくりな少女がいるというギルド。あれから色々な場所でギルドについて尋ねても有力な情報はほとんど得られなかった。どんな些細な情報でも欲しい。静かに首を縦に振るとドンは満足げに微笑む。良い返事だ、と言われたような気がした。

「前を見ろよ、アズサ」

 それが、ドンと交わした最後の言葉だった。
 元の場所に戻ったわたしはエステルちゃんやリタちゃんと一緒にドンの"運命"の結末を見届けるつもりだった――でも、出来なかった。ドンが小刀を己の腹部に向けた瞬間思い出してしまったのだ。激しい頭痛に襲われ意識を失った直前の映像を。地面に投げ出された四肢。地面に広がっていく鮮血。ドンの姿とあの時の光景が脳裏で重なりそうになって堪らず視界を閉ざす。異変に気が付いたエステルちゃんが震えるわたしの肩を引き寄せてくれたのが分かった。

「ごめん……エステルちゃん」
「気にしないでください」
「てめぇら、これからはてめぇの足で歩け! てめぇらの時代を拓くんだ! いいな!」

 不意にわたしを支えるエステルちゃんの手がぴくりと反応する。その時が来たのだとわたしは更に目を固く閉ざした。ひゅっと乾いた空気が喉を鳴らす。ドンの低く呻く声。そして、生々しい命を絶つ音。広場の空気が一瞬にして変わる。わたしは目を開けられないまま必死にエステルちゃんに縋りついていた。

(さようなら、ドン)

 わたしはあなたを忘れない。

***

 一時間後、わたしはドンの約束通りに結界魔導器のある場所へ向かった。ユーリさん、エステルちゃん、リタちゃんの三人には一応行き先は伝えてある。エステルちゃんからは一人で向かうことにあまり良い顔はされなかったけれど、彼女が未だに合流できていないカロルくんやパティちゃんも気になっているのに気が付いていたから宿屋で待っててとあえてお願いしたのだ。入れ違いになったら困るから、と。
 ダングレストはいつもの活気が嘘のように静まり返っている。街全体が分厚く重たい空気に覆われているようだ。それだけ住民のショックが大きかったのだ、統領の死は。周りの空気を取り込んでじんわりと滲みそうになる瞳にぐっと力を込めてひたすら足を動かして目的の場所に向かっていると自分の背後から声をかけられた。

「おまえがアズサだな」

 前髪で半分隠れた片目から覗く瞳はどことなくドンと似ている。彼が死ぬ直前、自分も死ぬと言ってレイヴンさんに殴られた頬はまだ少し赤みが残っていた。
 ちらりと横目で辺りを伺っても人気は感じない。わたしが結界魔導器に向かって歩いていたから声をかけたのだろう。足を止めて向かい合わせに立つ。

「ハリーさん……あなたがドンからの伝言を?」

 ああ、と短く答えたハリーさんはわたしの前に二本の剣を差しだした。どちらもユーリさんの使う剣よりは短いが片方は小刀くらいの長さでサイズが違うようだ。どちらの鞘にも細やかな装飾が施され、柄の先で揺れるタッセルのような紐の飾りは蒼く光に反射して海のようにきらきらと光る。綺麗な剣だと純粋に思った。

「これは……?」
「とある武器屋で売られてたのをドンが買い取ったらしい」

 ハリーさんからおそるおそる剣を受け取る。指先が触れた瞬間、胸がざわついた。今まで剣なんて触ったこともないはずなのに。それは驚くくらい自分の手に馴染んだ。この感覚はなんなのだろう。妙にどきどきする。

「剣の持ち主は蒼の迷宮というギルドで剣舞を舞っていた。だが、それが本来の持ち主を離れて武器屋で売られていた。この意味が分かるか?」

 お金に困って泣く泣く手放した……といった類の話ではないのだろう。彼女の剣舞の実力はドンが認めていた程だったのだから。なによりもハリーさんの真剣な面持ちが物語っている。わたしは黙って首を横に振った。
 どんな情報でも欲しいと言ったのは他でもない自分だ。ここで目を背けてしまったらいよいよドンに顔向けが出来ない。受け止めなければ、現実を。

「教えてください、ハリーさん」
「――蒼の迷宮は今、全員行方が分かっていない」


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