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探し求めていたものがやっと手に届きそうなところにある。それは素直に嬉しい……はずなのに。
ずっと胸の奥がぎゅっと握りしめられているような感覚。これは、一体なんなのだろう。
「――アズサ」
名前を呼ばれてハッと意識を持ち上げる。同時に足をピタリと止めた。危ない。そのまま歩いていたらぶつかってしまうところだった。
パーツの整った顔に不釣り合いな眉間の皺。紫黒の瞳が怪訝な色を宿しながらわたしを見下ろしている。視線がぶつかるとユーリさんの眉間にはますます深い皺が寄った。
「オマエ、顔色悪いぞ。どこか具合でも悪いんじゃ、」
「大丈夫です。久々の砂漠で身体が慣れてないだけだと思うので気にしないでください」
ユーリさんの言葉を遮るように唇に言葉を乗せる。放った言葉はあながち嘘ではない。実際、じりじりと地面を焦がす太陽の光にうんざりしているのは本当だった。地上に降り立つ前にあらかじめリタちゃんから借りていたマントを身体に引き寄せていかにもな主張をする。薄い笑みを浮かべたままわたしはフードを深く被った。その間もユーリさんは視線を放さない。こちらも根気強く笑みを保ち続ける。一種の我慢比べのようなものだった。やがてユーリさんはそうか、と小さく言って前を向く。細身の背中が再び歩き始めたのを見届けてわたしはひっそりと溜め息をついた。
(緊張してるんだな、わたし)
自分を繕って虚勢を張る。昔からなかなか治らない癖のひとつだ。より不安が大きければ大きいほど、大丈夫なふりをしてしまう。
でも……、
(今は、わたしよりエステルちゃんを心配してあげてほしい)
彼女の方がずっと重たい覚悟を背負ってきているはずだから。肩越しに背後を振り返りフードの隙間からエステルちゃんの様子を伺う。リタちゃんの隣を歩く彼女の表情は決して明るいとは言えなかった。当たり前だ。わたしたちがこれから会おうとしている相手はエステルちゃんを"世界の毒"と呼び、過去には命を奪おうとした者なのだから。
――ここは、コゴール砂漠の中央にそびえ立つ岩山。殺風景な景色が広がるこの大地にフェローはいるのだという。
「フェロー。いるんでしょう?」
道というにはほど遠い山道を登って辿り着いた頂上。ぐるりと周囲を見渡してみたけれど、そこにあるのは果ての見えない砂漠と岩だけ。本当にこんな場所にフェローはいるのだろうか。不安を抱いたのはほんの一瞬だった。突然、青空から降ってきた鳥のような鳴き声。羽ばたく音が聞こえると同時に地面から舞い上がった砂塵。フードが風に煽られてぱさりと落ちる。狭かった視界が一気に広がった。
「わあああ!!」
辺りに響き渡るカロルくんの悲鳴。彼の視線の先を追いかけて目に留まったものに瞑目する。
さっきまでそこに何もいなかったはずなのに。
(フェロー……)
「忌まわしき毒よ、遂に我が下に来たか!」
「……お出ましか。現れるなり毒呼ばわりとはご挨拶だな、フェロー!」
唇を引き締め、目尻にぐっと力を込める。そうしていないとフェローの威圧感に負けてしまいそうだった。
「何故我に会いに来た? 我にとっておまえたちを消すことなぞ造作もないこと、わかっておろう」
「ちっ、あんたもこれで語るタイプか? やるってんならしょうがねぇな」
同じ始祖の隷長(エンテレケイア)でもベリウスはもっと慈愛の眼を向けてくれていた。雰囲気も優しかった。けれど、フェローから感じるのは果てしない憎悪。まともに話し合える状況ではないのは火を見るより明らかだった。既にユーリさんは剣を抜いている。後に続くようにリタちゃんやレイヴンさんも武器に手を伸ばしていた。自然とわたしの手も棍に伸びていく。
「駄目です、ユーリ! みんなも待って!」
エステルちゃんの必死な声に棍に触れそうになっていた指先がぴくりと跳ねる。気が付けば彼女はリタちゃんの制止も聞かずフェローの前に飛び出していた。胸の前で両手を合わせ、祈るようにフェローを見上げる。良く見るとほっそりとした白い指は小さく震えていた。
「お願いです、フェロー、話をさせてください!」
「死を恐れぬのか、小さき者よ。そなたの死なる我を?」
怖いわけないじゃない。
口から零れ落ちそうになった言葉をぐっと堪える。これはエステルちゃんとフェローの問題だ。わたしが横から口を挟んでいい問題ではない。
「怖いです。でも自分が何者なのか知らないまま死ぬのはもっと怖いです。ベリウスはあなたに会って運命を確かめろと言いました。わたしは自分の運命が知りたいんです。わたしが始祖の隷長にとって危険だというのは分かりました。でもあなたは世界の毒と……。わたしの力は何? 満月の子とはなんなんです? 本当にわたしが生きていることが許されないのなら……死んだっていい」
空気が固まる。ユーリさんたちもエステルちゃんの発言に言葉を失っているようだった。
「でも! せめてどうして死ななければならないのか……教えてください! お願いです!」
……わたしはエステルちゃんを甘く見ていたのかもしれない。こちらにはジュディスさんもいるからフェローとは対等な立場で話ができるのではと思っていた。けれど、彼女の覚悟はわたしの想像を遥かに上回っていたようだ。
肌に触れるぴりぴりとした緊張感。誰もが口を閉ざしてエステルちゃんとフェローの様子を伺っている。沈黙が続いた。
「かつてはここもエアルクレーネの恵みを受けた豊かな土地であった」
その言葉を皮切りにフェローは語りだす。満月の子の意味を。エステルちゃんが世界の毒と呼ばれる理由を。
エアル、魔導器(ブラスティア)、エアルクレーネ。三つの関係が歪んだ結果、緑は失われ砂漠が広がった。エアルが暴走した結果だとフェローは言う。そして、暴走した理由が満月の子にあると。エステルちゃんが戸惑った声を上げた。
「満月の子の力はどの魔導器にも増してエアルクレーネを刺激する」
「どういう事だ?」
「……魔導器は術式によってエアルを活動力に変えるもの。なら、その魔導器を使わずに治癒術が使えるエステルは、エアルを力に変える術式をその身に持ってるって事……。ジュディスが狙ってるのは特殊な術式の魔導器……。つまり……エステルはその身にもつ特殊な術式で、大量のエアルを消費する……。そしてエアルクレーネは活動を強め、エアルが大量に放出される……」
あたしの仮説……間違ってて欲しかった……。
リタちゃんは苦虫を噛み潰したような表情で呟いた。繊細な魔術を操る手のひらは力強く握りしめられている。リタちゃんは薄々、満月の子の意味に気付いていたらしい。だからフェローに会う前に何度もエステルちゃんに本当に行くのか確認していたんだろう。話を聞けば彼女が傷つくと分かっていたから。
「その者の言うとおりだ。満月の子は力を使うたびに、魔導器などとは比べものにならぬ程、エアルを消費し、世界のエアルを乱す。世界にとって毒以外の何物でもない」
「だから消すってか? そりゃ随分と気が短いな。え? フェローよ」
「これは世界全体の問題なのだ。そしてその者はその原因。座視するわけには行かぬ」
フェローの纏う雰囲気が再び鋭いものに変わる。あくまでもフェローはエステルちゃんを世界から排除したいらしい。平行線を辿る話し合いに不安が募ってゆく。
やっぱり戦いになってしまうのだろうか……。不安になりながらもユーリさんたちの動向を見守っているとぞわりと全身に悪寒が走って顔を上げた。視線の先――フェローと目が合ったような気がして咄嗟に俯く。無意識に引き寄せたマントの裾を握りしめた。ばくばくとうるさいくらいに心臓が跳ねている。
(なんで今……)
今の話題の中心はエステルちゃんのはず。それなのに、どうしてフェローの目がわたしに向けられている?
不意に最期に見たベリウスの表情が蘇る。迷っているような、躊躇いの残った目。さっきとは違う寒気が全身を襲った。
「おまえたちはことの重大さが理解できていないのだ。――既に世界のために犠牲になった者がいても同じ言葉を言えるのか?」
「犠牲になった者……? 誰のことだ」
「っ、待って」
「――そこにいるマントを羽織った娘だ」
みんなの視線が一気に突き刺さったのが分かる。びくりと肩が震えた。ぎゅっと心臓が鷲掴みされているみたいに息苦しい。
探し求めていたものがやっと手の届きそうなところにある。嬉しい……はずだった。
「……アズサ?」
今は真実を知るのが、怖い。