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「おい、フェロー。おまえが世界とやらのためにあれこれ考えているのはよく分かった。アズサのことも含めてだ。けどな、なんでエステルがその世界に含まれてない?」
「より大きなものを守るためには、切り捨てることも必要なのだ」
「クソ喰らえだな。その何を切り捨てるかを決められるほど、おまえは偉いのかよ?」
「我らはおまえたちの想像も及ばぬほどの長きに渡り、忍耐と心労を重ねてきたのだ。わずかな時間でしか世界を捉えることのできぬ身で何を言うか!!」

 咆哮にも近い叫びが鼓膜まで響く。あまりの声量に身体が震えた。
 確かに、始祖の隷長の生きる時間を考えれば人間の生きる時間なんてちっぽけなものだろう。十分の一、百分の一、あるいはもっと短いのかもしれない。フェローの主張は最もだ。人間が生きている間にできることなどたかが知れている。

「フェロー、聞いて。要するにエアルの暴走を抑える方法があればいいのでしょう? まだそれを探すための時間くらいあるはずよ」
「ジュディス……」
「それにもし、エステルの力の影響が本当に限界にきたら……約束通り私が殺すわ」

 それなら文句ないでしょう?
 ジュディスさんからするりと飛び出した衝撃の発言に心臓が止まりそうになった。ちらりと彼女の横顔を伺うがその瞳に感情の色は見えない。冗談、ではないのだろう。さあっと血の気が引いた。
 わたしと同じようにジュディスさんの言葉に驚いたカロルくんが慌てて詰め寄る。ジュディスさんはそれに対して何も言わず、ただカロルくんを見下ろしていた。沈黙がこんなに恐ろしかったことはない。はらはらとしながら二人を交互に見比べていたら不意にジュディスさんの口元がゆるりと弧を描く。そこにさっきのような冷たい表情のジュディスさんはどこにもいなかった。

「あら、そうならないように凛々の明星(ブレイブヴェスペリア)がなんとかするでしょ?」

 最初はきょとんと瞳を丸くしていたカロルくん。何度も瞬きを繰り返してようやく言葉の意味を理解したらしく微笑みかけるジュディスさんに何度も首を縦に振った。

「あ、そうか……うん、そうだ、そうだね!」
「一本取られたな。そういう訳だ。エステルのことも、世界のヤバさも、それがオレたち人間のせいだってならオレたち自身がケジメつける。それで駄目なら、丸焼きでもなんでも好きにしたらいい」
(ま、丸焼き……)

 自分が真っ黒こげになっているのを想像してふるりと震える。それは……ちょっと嫌だな。
 だけど――そんな強気な発言もユーリさんらしい。わたしも折れかかっていた心を何度も救ってもらった。勝気な笑みを浮かべる横顔を見て微かに口元が緩む。

「そなた変わったな。かつてのそなたなら……」
「さあどうなのかしら? でもそういわれて悪い気はしないわね」
「……よかろう。だが、忘れるな。時は尽きつつあるということを!」

 ぶわっと舞い上がる砂塵。フェローが翼を広げて羽ばたき始めたからだ。目を開けていたら砂が入ってしまいそうで慌ててマントを両手で握りしめて目を閉じる。あんな大きな魔物が近距離で飛び立とうとしているのだ。風圧も馬鹿にならないくらい強く、身体が飛ばされてしまわないように足を踏ん張る。

「待って! 術式がエアル暴走の原因っていうのなら、昔にも同じように暴走したことがあるはずでしょ。魔導器は古代文明で生み出された技術なんだから」
「罪を受け継ぐ者たちがいる。そやつらを探すがよい。彼の者どもなら、過去に何が起こったのか伝えているであろう」

 徐々に風が収まりわたしはそろそろと目を開けた。顔を上げた頃にはすでに鮮やかな炎の色をした巨大な鳥は遠くの空を舞っている。とりあえず、最悪の事態は免れたみたいで良かった。一人、ひっそりと息を吐く。
 後は――わたし自身の問題だ。

「えっと、あの……ありがとうございます、ユーリ。それに……ジュディスも」

 やがてフェローが完全に見えなくなると視界の端でエステルちゃんがくるりと踵を返した。一度だけわたしを見たかと思うと何か言いたそうに口を開きかけたけれど、すぐに閉ざしてユーリさんたちに目を向ける。薄く浮かべた笑みは普段のエステルちゃんからは想像ができない程に悲しげだった。

「それはいいんだけどな」
「え?」

 戸惑うエステルちゃんの元にユーリさんが静かに近づく。艶やかな髪から覗くその横顔が明らかに怒っていてわたしは息を呑んだ。仲間に対してあんなに怒っているユーリさんを見たことがなかったから。

「死んだっていい? ふざけてんのか?」
「……ごめんなさい」
「二度と言うなよ」

 もう一度、ごめんなさいと呟いたエステルちゃんはそのまま視線をわたしに向けた。微かに濡れた瞳がこちらを捉える。目が合うと彼女は怯えたように肩を震わせて視線を下に落とした。翡翠の瞳は長い睫毛に隠し唇を強く噛みしめる姿はまるで泣くのを必死に耐えているように見えてきゅっと胸の内が締め付けられる。

(エステルちゃんは何も悪くないのに)
「あの、アズサ……わたし……」

 薄い唇から零れ落ちた声は案の定、震えていた。わたしはそれから言葉を発しないエステルちゃんに向かい合うように立つ。ざりざりとブーツが地面を鳴らし、自分よりちょっとだけ高い位置にある潤んだ瞳を見上げた。そのままエステルちゃんの細い指に触れようとして――手を止める。今のわたしが彼女にどう映っているか分からない。怖がらせてしまうのは嫌だった。ゆっくりと持ち上げた手は何事もなかったかのようにマントの中に隠す。そして、わたしは意図的に口角を持ち上げた。

「エステルちゃんはなんにも悪くないよ」
「ですが、わたしのせいでアズサは……」

 エステルちゃんはそこまで言うと再び口を噤む。責任感の強い彼女のことだから気にしてしまうのではないか思っていた。
 フェローが告げた通りならわたしがこの世界に来たのは満月の子の影響だったのかもしれない。だけど実際にわたしの"魂"を引き寄せたのはこちらの世界のわたしの強い願いが重なった結果だ。エステルちゃんの所為ではない。

「うん。それは、そうみたいなんだけど……正直、わたし自身もあんまり覚えていなくて。その……きっかけみたいなものが」

 わたしは最近までこの世界とは違う世界で生きてきた。魔術も魔導器(ブラスティア)も存在しない世界。自分はどこにでもいるような普通の高校生で家族や友達にも恵まれていた。代わり映えしない毎日だったけれど命のやり取りをする必要もない、平和な日々。当時の記憶ははっきりと覚えている。
 だからこそ、この"身体"が自分のものではなかったのは衝撃的だった。今まで違和感なく過ごしてきたから余計に。だけど……それだけなのだ。エステルちゃんに対して怒りの感情は全く湧いていない。むしろ胸に引っかかっていた謎が取れて少しすっきりしているくらいだ。

「これは誰かが悪いって話じゃないから。だから、本当に気にしないで」
「アズサ……」

 にこりと笑みを浮かべてみたけれどエステルちゃんの表情は暗いまま。どうすればいつもの彼女に戻ってくれるだろうか。気まずい空気が流れるこの時間の方がよっぽど辛い。言葉選びに迷っていると別の方向から声がかかってきた。

「違う世界から来たっていうのは本当なんだな?」

 ――覚悟はしてたつもりだったけど、やっぱり直接言われると胸に刺さるものがあるな。
 ユーリさんの問いかけにわたしは苦笑いでこくりと頷く。今更、何を隠しても無駄だろう。いたたまれなさから目線を下に落とす。

「……すみません、ずっと黙っていて」

 ユーリさんたちの目に今の自分はどう映っているんだろうか。自分たちとは違う世界で生きてきた人間で、しかも"躰"と"魂"が一致しない不安定な存在。素直に受け入れられる状況とは程遠い。
 じとりと熱気を含んだ風が頬に当たる。どれくらい沈黙の時間が続いただろうか。顔は怖くて上げられなかった。やっぱり嫌われてしまったんだろうか。口もきいてもらえなくなるだろうか。みんなと――もう一緒にいられなくなるだろうか。ぐるぐると頭の中を駆け巡るのは悪い想像ばかり。沈黙の時間がすごく息苦しい。胸のペンダントを握りしめきゅっと目を瞑る。早くこの苦しみから解放されたかった。
 ただただ静かに反応を待っていたその時、背中にとんと何かがぶつかった感触がして目を開ける。視界の端に映ったのは大きな海賊帽と金髪のおさげ髪。おそるおそる彼女の名前を呼べば腰に回った手に力がこもった。

「誰にだって……」
「パティ、ちゃん……?」
「誰にだって、言いたくないことのひとつやふたつあるものじゃ」
「そうね。それに、秘密がある女の子って私は魅力的だと思うわ」

 優しい声色にわたしは弾かれるように顔を上げる。自分の耳に届いた言葉が到底信じられるものではなかったから。目尻を細めるジュディスさんに堪らず問いかけた。

「信じてくれるんですか……?」

 こんな途方もない話を。
 呆然とするわたしにまた信じられないような言葉が降りかかってくる。

「だってアズサがそんな上手な嘘つける性格じゃないの知ってるもん。リタもそう思うでしょ?」
「……前々からアズサの体質には疑問に感じてた部分はあったのよ。大量のエアルを浴びても一人だけけろりとしてたこととか。信じがたい状況ではあるけど、そういうことなら説明はつくわね」
「なんかリタの目鋭くなってない……? リタの専門は魔導器(ブラスティア)でしょ」
「エアルの影響を受けない人間なんて初めて見る事例だもの。興味湧いて当然よ」

 リタちゃんは興味津々と言った様子でこちらを覗き込んでくるし、カロルくんはそんな彼女を見て頬を引きつらせている。予想もしていなかった反応の数々にわたしは正直言って戸惑っていた。パティちゃんは相変わらず抱きついたままで身動きも満足に取れない。おろおろするわたしにユーリさんはゆるりと口角を持ち上げる。

「アズサが何者だってアズサはアズサだろ」

 もう、ユーリさんたちとは一緒にいられないと思っていた。
 自分は異端者だ。自覚があったからこそ彼らと一定の距離をとってきたつもりだった。何かあればすぐに離れられるように。迷惑をかけてしまわないように。だけど結局のところ依存していたのは――わたしの方だったらしい。離れてしまうのが嫌で、ずっと自分を押し殺していた。自分たちとは違う人間だと言われても、ユーリさんたちが変わらない態度で接してくれる。わたしに笑いかけてくれる。その事実がどうしようもなく嬉しかった。じわりと視界が滲む。

(あれ……?)

 おそらく一瞬の気の緩みがいけなかったんだろう。ぐらりと歪む視界。急に目の前がちかちかと点滅しだして足に力が入らなくなってしまったわたしはがくんと膝から崩れ落ちた。くっついていたパティちゃんもわたしの身体を支えきれず一緒に地面に倒れる。ぐえっとカエルの潰れたような声が聞こえた。慌ててわたしはパティちゃんの身体を擦る。

「ご、ごめんパティちゃんっ! 安心したら力が抜けちゃって……」
「大丈夫なのじゃ……問題ないのじゃ」
「アズサっ!」

 突然、目の前に桃色が飛び込んできたかと思ったら両頬をふわりと包み込まれた。心配そうに眉を寄せるエステルちゃんの顔が視界いっぱいに広がる。

「大丈夫ですか? どこか痛いところはありませんか?」

 そのままぺたぺたと頬だけでなく首筋や耳まで触り始めたエステルちゃん。気持ちは嬉しいけど少しくすぐったい。さっきまでの泣きそうな顔が嘘みたいに本気でわたしのことを心配してくれている。わたしは触れることすら躊躇っていたのに何の抵抗もなく駆け寄ってきてくれる。本当に、どこまでも優しい子だ。じんわりと胸に暖かいものが広がってゆくのを感じ自然と笑みが零れていた。

「うん、大丈夫。ありがとう……エステルちゃん」
「まあまあ、とりあえず話は船に戻ってからにしましょ」

 不意に頭上が陰って何事かと上を見上げれば顎に指を添えこちらを見下ろすレイヴンさん。その口元はにんまりと弧を描いている。疑問符を浮かべたのも束の間、いきなり視界が真っ暗になってわたしは驚いた声を上げた。レイヴンさんがマントのフードをすっぽりと被せたのだ。

「緊張が抜けたのもひとつの原因だとは思うけど、アズサちゃん脱水症状になりかけてるよ?」
「え……?」

 ああ、だからなかなか足に力が入らないのか。内心、納得していると辺り一帯にリタちゃんの声が響き渡った。

「だからちゃんとマント被ってなさいって言ったでしょ! この馬鹿!」


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