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 なにかユーリさんを怒らせてしまうようなことをしてしまったんだろうか。
 真っ暗な視界の中ぐるぐると思考を巡らせる。ベッドからは一度も抜け出した記憶はない。余計なことも口走っていないはずだ。それなのにどうしてこんな状況になっているんだろうか。頭の中は既にパニック状態になっていた。心臓の音が驚くほどに煩い。このまま口から飛び出してしまうのではないかと思っていると不意に頬に何かが触れてヒッと喉が引きつった。するりと頬を滑ったそれはわたしの耳朶を掠めますます身体が硬直する。自然と瞼にも力がこもった。

「――冗談、じゃなかったんだな」

 必死に感情を押し殺した声が耳に触れる。怒ってるわけではないのだろうか……? おそるおそる瞼を持ち上げるとぼんやりした視界の中に眉間に皺を寄せるユーリさんがいた。どうしてそんなに苦しそうな顔をしているんだろう。わたしは戸惑いながらも紫がかった瞳を見つめる。ユーリさんの指先から伝わるぬくもりが顔に集まった熱と溶け合っていった。

「ユーリ、さん……?」
「……下町に来てすぐの頃にアズサ聞いてきただろ?」

 もしもわたしが、この世界とは別の世界から来た人間だったらどうしますか……?
 ユーリさんの言葉にわたしは瞑目する。まだこの世界に馴染めなかった頃、わたしは星が瞬く夜の下町で彼に尋ねたことがあった。当時は未知の文化や生活についていくので精一杯で、毎日が不安で堪らなくて。あの日も拒絶されるかもしれないという恐怖からほんの少しでも解放されたかった想いからの発言だった。何気ない会話のひとつだっただろうにユーリさんは覚えていてくれたのか。

「ずっと、アズサはひとりで抱え込んでいたんだな」

 前髪の隙間から透き通った紫黒の瞳がまっすぐにわたしを射貫く。

「気づいてやれなくて悪かった」
(…………違う)

 違う。謝らないといけないのはわたしの方だ。
 最初からずっと騙していた。記憶喪失だと偽って自分の正体を隠してきた。嫌われたくなかったから、ユーリさんたちと離れたくなかったから。

「……そんな優しい言葉、かけないでください」

 泣きたくなってしまう。
 思わず顔を下に向けてユーリさんと目が合わないようにした。鼻の奥がつんとして目頭が熱くなる。こんな至近距離で泣き顔を見られるのは流石に恥ずかしい。決壊してしまいそうな涙腺を堪える為に俯いてぐっと唇を噛みしめていたが頬に触れるユーリさんの手によって引き戻されてしまった。再び合わせられる目と目。さっきよりも滲んで見える世界の中のユーリさんは柔く微笑んでいた。

「我慢する必要ないだろ。今の内にすっきりしとけ」
「泣きたくない、です」
「ったく、強情なやつ……」

 今ここで泣いてしまったら自分の中で何かが崩れてしまいそうで。
 涙を堪える為にきゅっと唇を引き結ぶ。これ以上喋ってしまったらいよいよ泣いてしまいそうだった。ユーリさんの優しい眼差しから少しでも逃れようと視線を下に落としていると頬にあった手がするすると腕に落ちる。そのまま腕を強く引かれたわたしは彼の胸の中にすっぽりと収まってしまった。驚く間もなく耳元に顔が寄せられる。

「安心しろ――手放したりしねえよ」

 泣きたくないって言ったのに。ぽんぽんと子どものように頭を撫でられてしまえばわたしの涙腺は簡単に崩壊した。ぽろぽろと目尻から零れた涙が頬を伝ってユーリさんの服を濡らす。いつもならすみません、と言ってすぐに離れるところなのだが……泣いてもいいって言ったのはユーリさんだ。

(少しの間、だけ)

 おずおずとわたしはユーリさんの背中に手を回す。そのまま肩口に顔を埋め静かに目を瞑った。今はただ彼の優しさに甘えていよう。ユーリさんは何も言わずただ頭を撫でてくれていた。

***

 ひとしきり泣いて落ち着いた頃、ユーリさんに頼んでみんなを共有部屋に集めてもらった。わたしが椅子に座って待っていると既に部屋にいたラピードが足元にすり寄って丸くなる。まだ体調を気にかけてくれているのだろうか。ぺたんと垂れ下がった耳にそっと囁く。

「体調も良くなったから大丈夫だよ。気にかけてくれてありがとうラピード」

 ラピードは長い尻尾をゆらりと揺らすと欠伸をしてまた丸くなってしまった。気にするなと言ってるのかもしれない。その様子がやっぱりユーリさんとどこか似ていてわたしはひっそり笑みを零した。

「アズサ、本当に色々と聞いていいの?」
「うん、わたしに答えられることであれば」

 不安げな顔でこちらを見つめてくるカロルくんにわたしはにっこりと微笑む。あの時、彼らは信じると言ってくれたけどまだ心の中では完全に信じ切れていない部分もあるのだろう。それだけわたしが無茶苦茶なことを言っているのは分かっていた。だから信じてもらうために情報を提供する。聞かれたことには答える、そう決めたのだ。
アズサがそう言ってくれるなら……。その言葉を皮切りにカロルくんたちは質問を投げかけてくる。特にわたしの生きていた世界にとても興味があるようで生活や文化についてたくさん聞かれた。

「エアルのない世界? そんなの信じられないわ」
「えー、ボクは気になるなあ。魔導器(ブラスティア)なしでどうやって生活するの? 魔物からどうやって身を守るの?」

 エアルがない。その事実が衝撃的だったらしくカロルくんやパティちゃんは目を丸くする。リタちゃんに至っては目を細めて怪訝そうにこちらを見つめていた。

「わたしの世界では科学っていうのがすごく発達していて、それが魔導器の代わりに生活を豊かにしてくれていたよ。魔物は……そもそもいなかったから身を守る術も特に覚える必要がなくって」
「アズサの生きていた世界はとっても平和だったのね」

 生活する上では不自由することのない世界だったと思う。衣食住は揃っていた。こちらの世界のように魔物に怯えて生きる必要もない。戦争も少なくともわたしの国ではなかった。ジュディスさんたちから見れば平和な世界だと言えるのだろう。

「……本当に、アズサは違う世界から来た人なんですね」

 余計なことは喋らない。頭の片隅に置きながら質疑応答を繰り返していると、わたしから離れた位置に立っていたエステルちゃんがぽつりと呟いたのが耳に届いた。視線を送ると前髪に隠れた表情はほんの少し悲しげで胸にずきんと痛みが走る。

(まだ、エステルちゃんは責めているのだろうか)

 自分自身を。ビー玉のように透明な翡翠色の瞳には陰りがあるように見えた。
 きっとわたしが慰めても彼女は気を使わせてしまったと自分を責めるだろう。今は何を言っても彼女を傷つけてしまうような気がする。わたしは言いかけた言葉を呑み込み、苦い笑みを浮かべるだけに留めておいた。

「ねえ、それで思ったんだけど今のアズサは"躰"はこっちの世界で"魂"は違う世界の人ってことなんでしょ? ってことは、こっちの世界で生きてたアズサってつまり」
「蒼の迷宮(アクアラビリンス)のアズサ……ってのが一番の有力候補だろうな」

 やはり、そういうことになるのだろう。わたしはこくりと頷く。
 フェローは言っていた。この世には様々な世界が存在し、そこには自分と同じ"魂"と"躰"を持つ人物が生きている。わたしの場合は彼女が当てはまるのだろう。旅の途中でも何度か話題になった。蒼の迷宮に所属する剣の舞手。蒼の迷宮のアズサの"魂"が消滅してしまったから彼女の"躰"にわたしの"魂"が入り込んだ。

「どうしてボクたちの世界のアズサの"魂"は消えちゃったんだろう? フェローも分からないって言ってたよね」
「確か、強い願いが重なったとか言ってた気がするのじゃ」
「もしかしたら蒼の迷宮が行方不明になっているのと何か関係があるのかもしれないねえ」

 "魂"が消滅してしまえば"躰"は機能しない。死んだも同然なのだから。
 フェローの言葉が脳内に蘇る。レイヴンさんたちがお互いに首を捻っているのを横目にわたしはそっと腰の剣に視線を落とした。彼女の持ち物であった二本の剣。わたしの手元にやってきたのはある意味では必然だったのかもしれない。"魂"が消滅してしまった際に彼女の手を離れてしまったのだろうか。せっかくフェローの一件で謎が少し解けたと思ったのに次から次へと疑問が湧いてくる。
 例えば、わたしを何度も助けてくれたあの声。てっきりこちらのアズサの声だと思っていたのだけど"魂"が消滅してしまっても干渉することは可能なのだろうか。それに勝手に動き出すこの身体も気になる。

「ま、その辺りはおっさんが調べてくれるんだろ」
「頼んだよレイヴン」
「アズサちゃんの為ならたとえ火の中水の中よ。おっさんに任せておきなさい」

 きっと危険な仕事になってしまうのに嫌な顔ひとつせず受け入れてくれたレイヴンさんには本当に感謝の気持ちでいっぱいだ。ゆるりと口元を緩ませていると視界の端に難しい顔をして腕を組むリタちゃんを見つけてわたしは小首を傾げる。何か考え事をしているみたいなのだが。

「リタちゃんどうかしたの?」
「アズサ、気をつけなさい」
「……なにを?」

 顔を上げたリタちゃんはまっすぐにわたしを見つめた。

「いい、アズサ。あんたの体質は特別なの。エアルの影響を受けない人間なんて聞いたことがないわ。もしアスピオの連中にでも見つかってごらんなさい。即効で実験台に使われるわよ」
「じ、実験台……?」

 自分が真っ白なベッドに固定され、白衣を着た学者たちに囲まれているのを想像してぞっと寒気が襲った。一気に顔色を悪くするわたしにリタちゃんは畳みかけるように早口で喋る。

「それに、エアルの影響を受けないっていうのもデメリットがある。例えばあたしたちは治癒術を使えば怪我も簡単に治せるけどアズサの場合はそういう訳にもいかなくなるわ。そもそも治癒術が効かないんだもの。戦いに出れば出るだけリスクが増えることになるのよ」
「そっか……そういうことになるんだね」

 足手まといになりたくなくて戦う術を覚えてきたつもりだったけれど、実は戦いに出ること自体が大きなリスクを背負っていたのか。それは気が付かなかった。今まで大きな怪我をしてこなかったのは幸運だったのだろう。
 みんなの足を引っ張りたくない、でもみんなに迷惑もかけたくない。最初の頃のように自分の身だけを守る戦い方しかできなくなるんだろうか。俯き加減だったわたしの頭を誰かが撫でる。さっきまでずっと寄り添い続けてくれた手。顔を上げるとにんまりと余裕のある笑みを浮かべたユーリさんがそこにいた。

「そしたらアズサが怪我しないようにオレたちがなんとかすればいいだけの話だろ」
「はあ……。とにかくアズサは何をするにも自分の身を守ることを優先しなさい。それから自分の体質のことは迂闊に他人に喋らないこと。分かった?」

 リタちゃんが念押しするのはこれから向かおうとしている街が知識に飢えた学者たちで溢れかえっているからだろう。実は彼女もその内の一人ではあることに当時のわたしは全く気付かないまま首を大きく縦に振った。


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