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 ベッドに眠りにつくたびにどうしようもなく願ってしまう。次に起きたときには元の世界に帰れているんじゃないか。見慣れた部屋で目を覚ましているんじゃないかって。
 けれど、現実は悲しいほどに残酷だ。今日もわたしは下町のハンクスさんの家で目を覚ます。

(眠れない)

 薄暗い天井を眺めながら一向にやってこない眠気に息をひとつ吐く。試しにごろりとベッドで寝返りを打ってみたけれど大して効果もなかった。沈黙が漂う部屋の中で聞こえるシーツが擦れあう音。わたしはベッドから抜け出して窓辺に移動して星空を眺める。眠れない日はこうしてぼんやりと星空を眺めるのが習慣になりつつあった。元の世界のことを思い出して僅かな希望を託して眠り、そして次の日の朝に目覚めて失望する。ずっと、それの繰り返しだった。願えば願うだけ後悔する。今日も帰れなかったとショックを受ける。分かっていても繰り返さずにはいられなかった。

(…………散歩でもしよう)

 今日はなんだかいつもより目が冴えている気がする。このままもやもやしたままベッドに入っても眠れる気がしなかったし、それならいっそのこと外の空気でも吸ったほうが気分転換になるんじゃないかと思ったわたしは簡単に身支度を整える。女将さんから貰ったおさがりの服に着替えて隣の部屋で眠るハンクスさんを起こさないよう、そっと床に足を降ろせばひんやりとした冷たさが足の裏から伝わってきて慌てて指先を引っ込めた。そうだった、ここは日本じゃなかった。わたしはベッドの下に手を伸ばしてショート丈の編み上げの黒いブーツを引っ張り出す。それは下町の人がくれたおさがりで、ハンクスさんが見た目だけでも下町の雰囲気に馴染めるようにともらってきてくれたものだった。わたしが制服に合わせて履いていたローファーは珍しい形らしく目立ってしまうからと。サイズも驚くほどぴったりで実はそこそこ気に入っていた。
 ブーツに足を通して着ていたワンピースの上にカーディガンを羽織る。できるだけ物音を立てないように、わたしはそっと玄関のドアノブを回した。

***

「……シルト、ブラスティア」

 帝都の真ん中にそびえたつお城を中心に全体を守っているという結界魔導器(シルトブラスティア)。この魔導器(ブラスティア)のお陰で人々の安全は守られているのだと言う。結界の向こうには魔物があちらこちらに生息し、人を襲う魔物もたくさんいるらしい。だから結界の外に出る時は身を守るすべが必要なのだとハンクスさんが教えてくれた。確かに多くの人が行き交う市民街には武器を持った人たちも多かった。
 流石に時間が時間なだけにすれ違う人はほとんどいない。その中でも灯りが灯る建物は何か所かあってその中のひとつには"箒星"もあった。一階は飲食店になっていて夜はお酒も提供するんだと女将さんが言ってたから、きっと遅くまで飲み明かしている人たちがいるんだろう。わたしは宿屋を横目に足を動かした。
 下町には水路があちこちに流れていてそれは街の外にまで続いているらしい。何気なく水路に沿って歩いていたら、やがて下町の外れに辿り着いた。そこは下町から唯一結界の外に出れる入り口でただでさえ薄暗い道だったというのに、大きな門の向こうには更に深い闇が広がっている。外から入り込む生ぬるい風があの時の魔物の匂いも運んできているような気がしてふるりと身体が震えた。こんな時間にここに来るんじゃなかった。

(……戻ろう、ここは長居したくない)
「ワンッ!」
「っ!?」

 案外近くで聞こえたその声にびくりと肩が震えた。慌てて声の聞こえた足元を見ると暗がりに紛れて光る瞳が見えた。びっくりした……。この辺りに人懐っこい野良犬がいるのは知っていたからその子だろうと思ってわたしは暗がりに目を凝らす。次第に慣れてきた瞳で見えてきたのはやっぱり犬っぽい姿。けれど、ちょっとずつ見えてきたのは犬にしては長すぎる尻尾と何故か口にくわえたキセル。鳴き声から想像していた姿とは明らかに違うもので、わたしの思考はしばらく停止していた。

(い、犬……?)

 すらりと伸びた四肢に立派な尻尾ととんがった耳。これだけ見れば犬だと判断できるのだが、普通の犬は前足に剣を引っかけたりキセルを加えたりはしない。よくよく見れば顔には大きな傷もあって隻眼であることも分かった。下町では初めて見るけど誰かが飼っているのだろうか。一度、吠えただけであとは噛みつく雰囲気もなく大人しくわたしを見つめている。
 しばらく無言で犬らしき生き物と見つめ合っているとその後ろから人影が見えて視線を持ち上げた。闇夜に溶け込んだ艶やかな髪ですぐに誰なのか分かってしまった。

「こんな時間にひとりで散歩か? じいさんに許可とったのか」
「ユーリ、さん」

 こんな時間だからまさか会うはずないだろうって高をくくっていたのかもしれない。こんなことなら大人しくベッドで丸くなっていれば良かった。だらりと垂れ下がった手をぎゅっと握りしめる。今日はついてないな、本当に。


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