011


 本当なら真っ直ぐハンクスさんの家に戻りたかったんだけどどういうわけかユーリさんに呼び止められてしまって結局断り切れずにわたしは渋々噴水の近くに腰かけた。水が溢れても広場に影響が広がらないように少しだけ低い位置に作られたそれの周りにはいくつかの段差が作られていた。夜遅くなのもあって辺りに人がいる様子もなく、"箒星"から聞こえる酔っ払いの賑やかな声と噴水から流れる水の音だけがわたしたちを支配する。本来ならもう一匹、一緒に広場まで戻って来たはずだったんだけどいつのまにかラピード(さっきの犬のような生き物の名前らしい)はいなくなってしまっていた。ユーリさんたちも散歩ではなかったのか、と尋ねると彼らは夜の散歩ではなく下町の見回りをしていたらしい。
 帝都の中でも低い身分にある下町の人々は上流階級の人たちから因縁をつけられることが多いらしく、特に騎士とのいさかいは絶えない。わたしも下町で暮らすようになってから帝都の騎士とハンクスさんたちが言い合いをしているのを何度も見てきた。それを止めるのはもっぱらユーリさんとラピードなんだとか。きっと相棒のような立ち位置にいるのだろう、ラピードは。元は軍用犬だと聞けばあの躾の良さにも納得がいった。

「結界の外に行こうとしてたのか?」

 ひやりと夜風が頬を撫でる。背後から聞こえてきたユーリさんの声に肩越しに振り返って、再び顔を前に向ける。明確に結界の外に行きたい。と思ったことは一度もない。ただ、今夜は上手く眠れるような気がしなくて、頭を冷やしたくて、あてもなく下町を歩いていたら……いつの間にかあそこにいた。入り口の近くに立っていただけで気分が悪くなりそうになっていたから、多分これからも外に出たいと思うことはないだろう。できることなら下町に残っていたいし、早く家に帰りたい。
 だけど、いつまでも下町にいられるとは思っていないのもまた本音だ。それはほぼ直感でしかないのだけれど、ここにいられないということは、つまり必然的に結界の外に出ないといけないことに変わりはない。わたしはぽつりと呟いた。

「……分からない、です。気づいたらあそこにいました」
「記憶がないってのも考えもんだな」
「そうですね……」

 わたしが下町で不自由なく生活できているのは間違いなくハンクスさんや女将さん、ユーリさんたちが気にかけてくれるからだ。過去の記憶が全くないと主張するわたしを、嘘で塗り固めたわたしを哀れだと思ってくれているから。けれど、それがいつか剥がれてしまったら……過去の記憶もしっかりとあってしかも異なる世界から来た人間だと彼らに知られてしまったら。そう思うといつも身体が震える。

(こわい)

 拒絶されるのが、こわい。朝はハンクスさんと一緒にご飯を食べて、昼間は女将さんの仕事のお手伝いをして、時々テッドくんと遊んだりもして、夜はベッドで眠る。何気なく外を歩いている時も下町の人たちは気さくに声をかけてきてくれる。中にはやっぱり記憶喪失だというわたしを不審がる人もいるけれど、それは仕方のないこと。それ以上に優しさに触れる機会が多かった分、その優しさがなくなってしまうのはこわい。たとえそれが偽りのもとに成立した優しさだったとしても。
 わたしは瞼をおろして細く長く息を吐く。一呼吸おいてからユーリさん、と彼の名前を呼んだ声は思ったよりか細そかった。

「ひとつ、質問してもいいですか?」
「なんだ?」
「もしもわたしが……この世界とは別の世界から来た人間だって言ったらどうしますか?」

 流石にユーリさんの顔を見ることは出来なかった。ぐっと唇を噛みしめてユーリさんの答えを待つ。たった数秒の沈黙も辛くてきゅっと目を瞑ると不意に頭になにかが乗る感触がしておそるおそる瞼を持ち上げた。視界に入ってきたのは厚い胸板。そのままゆっくりと瞳を持ち上げると夜空と同じ色をした瞳がまっすぐこちらを見下ろしていて、わたしの頭に乗ったのがユーリさんの手だと気づくのにはある程度の時間が必要だった。
 こちらを覗く瞳がゆるりと細められる。どこか強気な、それでも優しさの感じる笑みだった。

「――その時は腹抱えて笑ってやるよ」
「うわっ」
「ほら、じいさんにバレる前に家に帰るぞ」

 突然、髪を犬のようにぐしゃぐしゃにかき回されユーリさんの手が離れていく。びっくりした……。乱れた髪を抑えて内心ばくばくしながら悪戯っぽく笑うユーリさんを見上げる。それがユーリさんなりの励ましだったのだと気が付いたのはハンクスさんの家に戻ってベッドに潜り込んだ後のことだった。じんわりと身体の内側から感じてくる温かさは布団のぬくもりだけではないはず。

(そっか、笑ってくれるのか)

 ユーリさんは怖がらないでくれるのか。たったそれだけのことが嬉しくてわたしはベッドの中で小さく笑みが零れた。
 次の日の朝も目覚めたのは変わらずハンクスさんの家。それでもほんの少しだけ以前より穏やかな気持ちで朝を迎えられた。


top