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 アスピオの街があるイリキア大陸から赤い花の咲く岸辺があるヒピオニア大陸まではそれなりに時間がかかるらしい。大陸と大陸をまたぐのだから当然と言えば当然だ。しかも土地勘のあるカロルくんが言うのだから間違いない。
 その結果、ヒピオニア大陸付近に行くまでは各々で好きな時間を過ごそうという話になった。と言っても、行動範囲は船の中だけだからできることはかなり限定される。レイヴンさんはくわりと欠伸をかみ殺しながら昼寝(まだお昼にもなっていないのだが)をしに寝室に向かい、リタちゃんは駆動魔導器(セロスブラスティア)の調整に向かった。他の人たちも自分たちの時間を過ごすために船のあちこちに散った。ぽつんと甲板に一人残ったわたしはさっきの商人の男の話を整理するために手すりに肘を置いてぼんやりと上空の景色を眺める。普段のわたしなら誰にも邪魔されないようなところでひとり考え込んでいるところだったが、今回はなんとなく外の新鮮な空気を吸っていたかった。深く息を吸って肺に貯まっていた重たい空気を吐き出す。

(誰も生き残っていなかったんだ……)

 どうしてだったんだろう。今までずっと蒼の迷宮(アクアラビリンス)は生きているのだと勝手に思い込んでいた。行方が分かっていないと聞いた時に一瞬だけ嫌な予感が胸を過ぎったが、それでも何か事情があって身を潜めていたりするのではないかなんて呑気に考えていたのだ。こちらの世界のわたしを覚えているギルドの人がひとりでもいるのではないかと。でも、そんな淡い期待も男から告げられた真実によって消え去ってしまった。家族や恋人よりも深い絆で結ばれていたはずのギルドのメンバーはもう一人もいない。
 男の話によれば、蒼の迷宮は十人も満たない小さな大道芸ギルドだったという。独自の技術で作られた武器や装飾品も注目されていたがそれを身に纏ってパフォーマンスする演者も有名だった、と。あのドンやベリウスが認識していたのだからかなり実力のあるギルドだったのだろう。その中に自分と同じ"魂"を持つ存在がいたなんてなんだか信じられないけれど、まさか壊滅してたなんて夢にも思わなかった。

(わたしの旅の目的がなくなっちゃったな)

 元々ユーリさんたちについていったのは自分と名前も姿もそっくりな"アズサ"という人物を見つける為だった。だけど、そのアズサはこちらの世界に存在していた自分自身で、やっと辿り着いたと思ったギルドの行方も魔物の奇襲に遭い全滅。残されたのは彼女が愛用していた大きさの異なる双剣と武醒魔導器(ボーディブラスティア)、それと奇跡的に残った"躰"だけ。結論から言えば、蒼の迷宮のアズサに会うことは最初から不可能な話だったのだ。
 それと凛々の明星(ブレイブヴェスペリア)もどうしたものか。剣の持ち主を探してもらう為に労働を対価として加入させてもらったけれど目的は達成されてしまった。現時点でカロルくんが設定した報酬分の労働がどの程度払えているのか分からないが、もし全額払い終えたらわたしはもう用済みとして解雇されてしまうだろうか。いや……そもそもわたしの"躰"は蒼の迷宮に所属していた。二つのギルドに同時に所属することはできない、とギルドのルールを教えてもらった時にカロルくんは言ってなかっただろうか。そうなると今のわたしは蒼の迷宮と凛々の明星との二重契約を結んでいることになるから、つまり――。

「強制解雇……!?」
「お前、もしかして高いところ苦手だったのか?」

 いきなり横から声が降ってきてびくっと肩を震わせる。慌てて顔を向けるとユーリさんが不思議そうに首を傾げながらこちらを見つめていた。一瞬何の話か分からなかったが、どうやら外を見下ろして青ざめるわたしを見て高所恐怖症だと勘違いをしているらしい。思わず唇から零れ落ちた言葉を聞かれなかったことに内心ほっとしながらもわたしは首を横に振った。高いところは好きだ。流石に飛び降りたりはできないけど。

「い、いえ、高いところは苦手じゃないですよ。それよりユーリさんはどうかしたんですか?」

 それぞれに自由時間を設けられて甲板に残っていたのはわたし一人だったはず。船の中にいたはずのユーリさんが外に出てきたのは何か用事があったからなのではないのだろうか。頭ひとつ分以上高いところにある端正な顔を見上げる。ユーリさんはわたしの問いかけに軽く目を見開いたかと思ったら黒曜石のようにきらきらと光る瞳を柔らかく細めた。少し呆れているようなだけど面白がってもいるような、そんな含みのある笑み。

「それはこっちの台詞」
「……?」

 頭に疑問符を浮かべるわたしを見て更に苦笑したユーリさんは隣に並ぶと手すりに背中を預けて寄りかかった。そのまま視線を外にずらす。肩よりも長い紫がかった黒髪が風に乗って揺れていた。

「蒼の迷宮について考えてたのか?」

 ――本当にユーリさんには敵わないなあ。
 僅かに見開いた瞳を伏せ、わたしは緩く笑みを浮かべる。今更はぐらかしたってユーリさんにはお見通しなのだろう。無意識に力の入っていた手を解いて、彼に向いていた身体を再び正面に戻す。視界いっぱいに広がる青い海。まるで蒼の迷宮が纏っていた色と同じような。

「……実はわたし、下町の宿屋でお手伝いをしていた時に聞いたことがあるんです。帝都の外でギルドが襲われたって話を」

 それはフィエルティア号に乗り込む直前に思い出した――下町で過ごしていた頃のお話。

「本当なのか?」

 ユーリさんの問いかけに視線を動かさないままこくりと頷く。あの日は水道魔導器(アクエブラスティア)が盗まれた日だったからとても記憶に残っている。一人のお客さんと女将さんがその話で盛り上がっていたのだ。帝都の外でギルドが襲われた。しかもその中の一人は骨ひとつ見つかっていない、と。話を聞いていた当時は魔物に襲われた恐怖で襲われた人たちのことなんて考えられなかったけれど、今になって思い返してみればあの話はわたしが下町に転がり込んだ時期とそんなに変わらない。スマホのようにリアルタイムで情報を手に入れられる手段はこの世界にはないはずだ。人から人に伝わっていった故に誤差が生じていたのだとしたら――魔物に襲われたギルドというのは蒼の迷宮だった可能性が高い。

「その時にお客さんが言ってたんです。一人だけ骨すら見つかってないって。多分、それが……」

 アズサ、だったんじゃないでしょうか。
 あくまでも推測でしかない。でも、可能性はゼロじゃない。ちらりと横目でユーリさんを伺うと、彼は顎に指を添えて考え込んでいるようだった。そのままわたしは言葉を続ける。

「ユーリさん、彼女の強い願いってなんだったんでしょう。仲間を魔物に殺されたから……?」

 わたしがこの世界に呼ばれたきっかけ。異世界同士が干渉しかけた瞬間に彼女の強い願いが重なりわたしの"魂"は引き寄せられた。辻褄が合わないわけではない。この世界で初めて目を覚ました時、わたしは帝都近くの森の中で魔物に襲われていた。その直前に蒼の迷宮が奇襲に合っていたのだとしたら。突然、大切な人がいなくなってしまったら……わたしもきっと彼女と同じように願ってしまうだろう。自分はその悲しみに耐えられる気がしないから。
 俯いていたわたしの頭にぽんと手のひらが乗っかる。ぺしゃんと潰れた前髪の隙間から見上げればユーリさんがゆるりと笑みを浮かべて微笑んでいた。細められた瞳の中に今にも泣きそうな表情をした自分が映り込んでいる。

「帝都周辺で起きた事故ならフレンが詳しい話を知ってるかもしれない。それから考えても話は遅くないんじゃないか?」
「……そうですね」

 これはいくら考えたところで解決する問題ではない。今はミョルゾのことに集中しよう。
 どうあがいたって蒼の迷宮に起きた悲劇は変えられないのだから。


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