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 なんとも言えない高揚感を抱えながらバウルと共に溶け込むように入った巨大クラゲの中。足を踏み入れると本当に街並みが広がっていてわたしはぽかんとしたまま頭上を見上げた。これまでの旅で色々な街を見てきたけれどミョルゾの石造りの建物はそのどれとも違う形をしていて、まるで違う世界に飛び込んできたかのような奇妙な感覚に包まれる。きょろきょろと辺りを見渡しながらユーリさんたちから離れない程度に散策しているとブーツの爪先で何かを蹴ってしまった。慌てて足元を見てみるとそこには手のひらに乗っかるほどの小さな立方体の石が転がっていた。蹴ってしまったのはおそらくこれだろう。何気なく拾い上げて観察してみると細かい文様が刻まれている。

(なんだろう、どこかで見覚えがあるような……)

 気のせいだろうか。じいっとそれを見つめ頭の中の記憶を探し回っていると、焦るようなリタちゃんの声が聞こえてぱっと顔を上げた。

「ちょっと、あれ……!」

 彼女の視線を追いかけた先にはわたしたちに向かって駆け寄ってくるたくさんの人影。ざっと見ても十人以上はいるだろうか。逃げる間もなくぐるりと周りを囲まれてしまいひやりと背筋が凍る。わたしは声も出せずに石を手に持ったまま固まっていた。もしかしてこの石触ったらまずかったんだろうか? まさか泥棒と勘違いされてたり……? 驚きと焦りから上手く回らない思考回路で考えていると一人の女性の手がおもむろにわたしの顔に伸びてくるのが視界に映って息を呑んだ。

「……っ!」

 反射的にきゅっと目を瞑って身構えたが、想像していたような痛みは全くやってこなくて――代わりに両頬を包まれてひたすらむにむにと揉まれた。わたしは瞬きを何回も繰り返す。その間も頬は指で挟まれたり手のひらで揉まれたり、とにかく好き勝手に触られていた。

「……へ?」
「すごい、外の人ってこんなに肌が柔らかいのね」

 ぽかんとするわたしと目が合った女の人――クリティア族の女性は興味津々といった表情で今度はぺたぺたと顔を触りだす。子どものようにキラキラと輝かせる瞳に敵意は全く感じられない。てっきり部外者を排除するために集まってきたのかと思ったのだが……どうやら違うみたいだ。ちらりと視線だけを横に向けるとカロルくんたちも彼らの反応に戸惑いを隠せないみたいでおろおろとしている。パティちゃんに至っては何人かのクリティア族にもみくちゃにされていた。トレードマークの海賊帽が今にも頭から落っこちてしまいそうだ。

「あなたみたいな小さな子がどうやってここに来たの?」
「あんた、言われてるわよ」
「あぅ……?」
「リタっちもでしょ」

 どうやらここに集まってきた人たちは部外者の来訪にも好意的のようだ。心の内でそっと安堵の息を吐きながらわたしは再び視線を前に戻した。そこには未だにわたしの頬を楽しそうに摘まむ女性。すらりと身長が高くて年上のように見えるけどあの美人なジュディスさんだって年齢は自分とひとつしか変わらないのだ。もしかしたらこの人も同世代なのかもしれない。力は加減してくれているから痛みとかは全く感じないのだが、流石に子どものように頬を揉まれ続けるのもなんだかむずむずする。わたしは斜め上から楽しそうに覗き込んでくる瞳を見上げた。

「あの、そろそろ離してもらえると嬉しいんですけど……」
「こんな貴重な経験もうないかもしれないもの。もうちょっとだけ触らせて。ね、お願い?」
「えーっと……」

 もしはっきり断ったら彼女の気分を害してしまうだろうか。まだミョルゾに辿り着いたばかりだからあまり揉め事を起こしなくはない。
 なんとか上手に断る方法はないだろうかと相変わらず頬を揉まれながら頭を悩ませていると、両肩を誰かに掴まれてそのまま身体を後ろに引っ張られた。その拍子に頬にあった手がぱっと離れる。大きくよろめいたわたしの身体はぽすんと誰かの胸元に収まった。

「悪いな、時間切れだ」

 背中に感じるぬくもりと想像以上に近いところから聞こえたユーリさんの声。肩を掴まれているのだから距離が近いのは当然のことなんだけど、それにしたって状況がよく分からなくてわたし自身混乱していた。クリティア族の女性は最初こそ驚いたようにぱちぱちと瞳を瞬かせていたが、やがて行き場のなくなった両手を下ろしてうっすらと笑みを浮かべた。

「そうなの、残念」

 意外にもあっさりと諦めてくれた彼女は大きな瞳を動かすと再び瞳を輝かせる。そこには街の入り口で大人しく待機しているバウルの姿があった。どうやら彼女の興味の対象は外の人間のわたしから始祖の隷長(エンテレケイア)のバウルに移ったらしい。楽しそうに歩み寄っていく背中を見届けながらそっと胸を撫で下ろした。もしユーリさんが助けてくれなかったら、きっとわたしはあの人が満足するまで身動きが取れないままだっただろう。正直、すごく助かった。ありがとうございます、と肩越しにユーリさんを見上げると彼は大きく肩を竦めた。

「オマエなぁ、嫌な時は嫌だって言っていいんだからな」
「で、ですよね……すみません」

 わたしは苦い笑みを浮かべる。昔からイエス、ノーとはっきり伝えるのはあまり得意な方ではない。

「まあ、アズサのことだから相手が気分悪くしたらどうしようとか考えてたんだろ?」
「うっ……全くもってその通りです」

 ぐうの音も出ないとはこのことだ。項垂れるわたしにユーリさんは肩に乗せていた手を頭の上に移動させた。長い指がさらりとわたしの髪を救い上げる。

「──まあ、なんでも自分だけで抱え込まないことだな」

 ぴくり、と微かに動いた眉は前髪に隠れてユーリさんには見えなかったはずだ。そうします、と苦笑いで答えるとユーリさんは満足したように頭を数回撫でその場を離れていった。彼がもう振り向かないのを見計らって張りつけていた笑みを消す。ふと手元を見ればわたしの手の中にはさっき拾った奇妙な石があった。ずっと握りしめたままだったらしい。ころころと意味もなく手のひらで転がしながらわたしはユーリさんに言われた言葉を脳内で繰り返す。

(なんでも抱え込むな、か……)

 もしかしてユーリさんは気が付いているのだろうか、わたしがまだ自分についてすべてを話していないことに。
俯いていた目線を僅かに持ち上げる。視線の先にはクリティア族に囲まれ戸惑うエステルちゃんがいた。今は、わたしのことよりも彼女を気にかけてあげて欲しい。誰よりも大変な思いをしているのはきっとエステルちゃんだから。せめて、彼女の問題が解決するまでは余計な心配をかけたくないのだ。
 ミョルゾの長老に会いたいと言うジュディスさんにクリティア族の人たちは特に不思議がる様子もなく居場所を教えてくれた。クリティア族のジュディスさんがいるとはいえ、いきなり街の外からやってきた不審者にそんな簡単に情報を教えてしまっていいんだろうか。聞いてるこっちが心配になるような不用心さだったが、ジュディスさんが言うにはクリティア族はそういった性格の人が多いらしい。明るくて物怖じしない。楽天的で楽観的。少し、羨ましいくらいだ。

「アズサちゃん、それどうしたの?」

 長老に会うために広場へと向かう際中、横からひょっこりと顔を覗かせたレイヴンさんはわたしの手に握られた石を見下ろし首を傾げた。

「これですか? さっき街の入り口で拾ったんです。よく見ると細かい文様が刻まれてるんですけど、どこかで見たことあるような気がして」
「んー、もしかしてそれ魔導器(ブラスティア)じゃない?」
「そうなんですか? 普通に道端に転がってましたけど……魔導器って貴重なものなんですよね?」

 一般市民にはなかなか手に入らない高級品。少なくとも下町で過ごしていた頃はそういう認識の代物だった。それが道端で無造作に転がっているものなのだろうか。ミョルゾは魔導器発祥の地だと聞いている。自分たちで生み出した大切な発明品をまるでガラクタのように扱うとは考えにくいが……。それに、さっきのクリティア族の人たちもわたしが石を持っていても気に留める様子もなかった。本当に魔導器だったならもっと反応があっても良かったはず。眉を潜めて難しい表情をするレイヴンさんを横目にわたしは足を動かしていく。
 ところが、広場に着いてわたしは信じられないものを目にした。広場の隅で山積みにされた石と同じ文様の刻まれた物体──魔導器。魔核(コア)がなく使うことはできないらしいが、間違いなく魔導器(ブラスティア)だとリタちゃんが少し掠れた声で呟く。

「じゃあ、レイヴンさんの言った通りこの石も魔導器……?」
「そういうことだね」
「この街は魔導器を捨てたの。ここにあるのはみんな大昔のガラクタよ」
「どういうこと?」
「それがワシらの選んだ生き方だからじゃよ」

 聞き慣れないしわがれた声に後ろを見ると年老いたクリティア族の男性が立っていた。誰だろう? と小首を傾げているとジュディスさんが老人を見て微かに頬を緩めたのが視界の端に映る。そして彼女は艶やかな声でその男性に声をかけるのだった。

「お久しぶりね。長老さま」


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