012


 今、自分の置かれた環境が異世界だと分かった時は眩暈を覚えて。そして、それがゲームの中の世界だと分かった時は気が遠くなるかと思った。文化が違う、生きる世界が違うというのは想像以上に大変なことで自分の身体を慣らすことだけでも精一杯の日々。特に腕を負傷していた頃は特に自由が効かなくて幾度となくハンクスさんや女将さん、テッドくんといった下町の人たちに支えられた。最初は全然喉を通らなかった食事も今はおいしく自分で食べられている。女将さんにお願いして今度料理も教えてもらえることになった。この世界に来たばかりの頃に比べれば随分と順応できるようになったと思う。
 怪我も治って元気になったらいつか追い出されると思っていた下町。この場所にまだ留まることができているのは間違いなくあの人たちのお陰だ。気が付けばこの世界に迷い込んできてからもう数か月が経とうとしている。今までは目覚める度に失望していた朝も最近はだいぶ受け止められるようになってきていた。

(……いつかは、帰れるのかな)

 宿屋の二階にあたる客室の一室。出窓から見える澄み切った青空を眺めながらゆっくりと目を細めた。正確な日数こそ分からないものの、こちらの世界に来てそれなりの時を過ごした。それこそ、科学に溢れた生活を懐かしく思えるくらいには。今だって女将さんに頼まれた客室の清掃だって掃除機があれば簡単に終わってしまうのになあと思いながらモップで床を磨く。ないものを欲しがったって仕方がないと分かっていてもついつい便利な道具を知っているから欲張りになってしまう。ふるふると頭を振って、今度は雑巾を窓の桟に押し付けた。窓から入り込んでくる風が気持ちいい。あ、噴水の近くでテッドくんが遊んでる。存在に気づいたテッドくんが大きな声でわたしの名前を呼んで手を振る。わたしも笑みを浮かべて手を振り返していると、どこからともなく声が聞こえた。

「頑張ってるな」

 低く響く声は間違いなく誰のものであるか判断できるのに肝心の姿が見当たらない。後ろを振り向いて部屋の玄関を確認しても姿は見当たらず、窓から見下ろしてみてもそれは同じ。噴水の周りでテッドくんと遊んでいるのは同じ年ぐらいの子どもばかり。もしかして、わたしの聞き間違いだったのだろうか。雑巾を握ったまま首を傾げていると苦笑まじりのユーリさんの笑い声が耳に届く。

「こっちだこっち。隣見てみろって」
(横……?)

 ユーリさんに言われた通り首を横に向けて「あ」と声が漏れそうになったのをすんでのところで耐える。そうだった、ユーリさんの家はここだった。
 手に持っていた雑巾を窓辺に置きそのまま身を乗り出して隣の部屋を軽く覗き込む。そこには頬杖をつきながらひらりと軽く手を振るユーリさんがいた。ユーリさんに会うのは秘密の夜の散歩以来のことで会うのも一週間ぶりくらいだろうか。結局、あの夜の出来事はハンクスさんにはバレていない。きっとユーリさんも黙ってくれていたのだろう。一見怖そうなハンクスさんだけど面倒見はすごく良くて、そして少し過保護気味なところがあるから。女将さんは「孫ができたみたいで嬉しいんでしょ」と笑っていたけれど。本当に……ありがたい話だ。

「調子はどうだ?」
「はい、おかげさまで……先日は、ありがとうございました」
「オレは何もしてねえよ」
「そんなことないです」

 あの日のわたしがどうかしていた。あんな発言、自分が異世界から来た人間だと疑われても仕方のないことだったのに。ユーリさんはそれを笑って励ましてくれた。
 きっとユーリさんにとってはなんでもない発言だったのだろう。それでもわたしにとってはあれ以上に救われた言葉はなかった。今まで何度もハンクスさんや女将さんたちがたくさんの励ましの言葉を送ってくれたけど、それはあくまで”記憶喪失のわたし”に対しての言葉であって、わたし自身に対してのものではない。自分が素性を明かしていない以上、仕方のないことだとは頭の中で理解していても、心の中のもやもや感は払拭されなかった。それがこの前の出来事でほんの少しでも軽くなれたのは間違いなくユーリさんのおかげだ。わたしはユーリさんに助けられた。

「すごい、嬉しかったです。気持ちがだいぶ軽くなりました」

 ついつい真剣な表情で答えてしまったわたしにユーリさんは少し驚いたような顔をしていたけれど、次の瞬間には「アズサがいいって言うならいいけどな」と言って瞳を細める。つられるようにわたしもそっと口元を緩めた。
 ユーリさんはこのゲームの世界の主人公で極力関わりを避けないといけない人物。だけどどん底にあったわたしの気持ちを掬い上げてくれた人もまたユーリさんなのだ。お礼を伝えるくらいならきっと物語に影響はないだろう。

「ありがとうございます、ユーリさん」

 やっと、この世界に足をつけられたような気がした。


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