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 相手の剣の切っ先が頬のすぐ横を走った。はらりと視界の端で舞い上がる数本の髪の毛。今のはかなりギリギリだったんじゃないだろうか。心の中で肝を冷やししながらも、"躰"は騎士の背後に入り込み棍で薙ぎ払っていた。手のひらに伝わるビリっとした強い衝撃。攻撃を受けた騎士は膝から崩れ落ちて地面に倒れた。

(よし、これで四人目)

 ぺたりと頬に張り付いた髪の毛が鬱陶しくて、わたしは手の甲で顔を拭う。すると微かにこめかみの辺りにちくんと痛みが走った。避けきれたと思っていたけど、僅かに相手の攻撃が入っていたらしい。うっすらと血が手に移っていた。これくらいの軽い傷で済んでいるならマシだ。わたしは手を払って棍を握りなおす。
 息のつく間もない戦闘にくらくらと眩暈がしそうだった。自分の意思で動かない"躰"は縦横無尽に駆け回り騎士を薙ぎ倒していく。頭上から振り下ろされた剣を受け止めた棍が鈍く軋んだ音を鳴らした。棍は護身用の武器。長丁場の戦闘で使うには向いていなかったのだろう。最後の騎士を倒し終わったところで棍は役目を終えたように真っ二つに折れてしまった。

「なかなかの身のこなしのようだ。我が親衛隊を破るとは」

ハッと意識を戻してわたしはアレクセイに視線を向ける。自分の部下がやられたというのに、地面に倒れた騎士たち には目もむけず興味深そうにわたしを観察する姿に眉を潜めた。この人は本当にヘリオードで出会った騎士団長と同一人物なんだろうか。依然と雰囲気があまりにも違い過ぎる。
 その時、アレクセイが不意に笑みを深めた。視線を逸らしたかと思うと、あの宙に浮かんだ奇妙な石を掲げる。今度は何をするつもりなのか。姿勢を低くして身構えると、エステルちゃんを隔離していた球体の中で突然稲妻が駆け巡った。エステルちゃんの身体がびくりと反応し呻き声を上げる。エステルちゃん! と声を上げた次の瞬間、眩い光と突風がわたしを襲った。ぎゅっと目を瞑って両手で顔を覆う。強い風に身体がもっていかれそうだった。
 一体、何が起きたんだろう。そろそろと瞼を持ち上げるとさっきまでなかったはずの頭上に黒い影。勢いよく顔を上げると鮮血の瞳がわたしを見下ろしていて身体が固まった。まるで蛇に睨まれた蛙。指先ひとつ動かせず硬直するわたしを見てアレクセイはうっすらと口角を持ち上げた。

「ほう、エアルの影響を受けないと言うのは本当の話だったか。興味深いな」
「……なんで、その話を」

 ユーリさんたちしか知らないはずだ。リタちゃんに固く口止めをされていたから。わたしの体質は非常に稀で周りから注目されてしまうからって。それなのに、どうしてこの男が知っているのだ。アレクセイは僅かに瞳を細めると手を伸ばしてわたしの顎を掴む。彼の瞳には無理矢理首を持ち上げられた苦し気な自分の顔が映っていた。

「っ……」
「君の身体を調べてみるのも面白そうだ。こんな逸材はなかなかいないからな」

 離れなければ、一刻も早くこの男から。
 顎を掴んでいた手が首筋を撫でてぞわりと全身が粟立つ。逃げなきゃと頭の中では分かっているのに何故か足が動かない。地面に縫い付けられているかのようだった。真っ赤な瞳から目を逸らせないでいると、アレクセイの視線がわたしから横にずれる。その先には青いタッセルが揺れる双剣があった。

「──その剣の装飾には見覚えがある。君は蒼の迷宮(アクアラビリンス)の生き残りか」
「え、」
「君たちが実験台になってくれたお陰で私の研究が随分と進んだ。感謝しているよ」

 バシンと強い力で首元にあったアレクセイの手が弾かれる。ビリビリと痛む右手。自分でも正直びっくりしていた。その動きにわたしの意思は全く無かったから。
 胸元のペンダントがじわりじわりと強い光を放っている。

「…………あなた、だったのね。騎士団長アレクセイ」

 唇から勝手に紡がれる言葉。強く握りしめた手のひらに爪がぎりぎりとくい込む。俯き加減だった顔を上げたわたしは髪を振り乱し叫んでいた。

「あなたがっ! わたしの家族を殺したのね……っ!」

 ずっと考えていた、こちらの世界のアズサがわたしを引き寄せてしまう程に願っていたこととは何だったのだろうかと。

「おかしいと思ってた。帝都付近の森に群れをなす魔物なんていなかったはずなのに、大群で蒼の迷宮を襲ってきたことも。急に馬車の結界魔導器(シルトブラスティア)が不調になって結界が破られたことも。あれは二、三日前に魔導士に頼んで調整したばかりだったのに」

 わたしの"躰"は強く地面を蹴ってアレクセイから離れる。自然な動作で抜かれる双剣。彼女の手によって現れた刀身は心なしかいつもより輝きを増しているように見えた。

「あの付近一帯のエアル濃度を弄って魔物を狂暴化させたのね。そしてわたしたちのギルドを……!」

 きっと彼女は、知りたかったんだ。自分のギルドが全滅した理由を。異世界の自分の"魂"を引き寄せてしまう程に。

「君の話はそれで終わりか。そんな過去のことより未来の話をしよう」
「アレクセイっ……!」

 剣の先がプルプルと小刻みに震える。今のわたしは"躰"を完全に彼女に明け渡してしまっていた。指先の一本すら満足に動かせない。だけど、この"躰"のことならわたしにだって少しくらい分かるのだ。全身を駆け巡る激しい感情が今にも彼女を呑み込もうとしている。仲間を失った悲しみと憎悪。このまま彼女を放っておいたらいけないと本能が叫んでいた。

「どうだ、私の研究の協力をする気はないか?」

 邪魔しないで!
 こちらの世界のアズサが目尻に涙を溜めてわたしを睨みつけている。そんな気がした。

「────お断りします」
「そうか。君は貴重な人材になりそうだったのだが、残念だ」

 そう答えたアレクセイの姿がいきなり消える。驚くのも束の間、真横から何かに突進されたような衝撃が来てわたしの身体は横に吹っ飛んだ。突然のことで何が起きたのか分からない。宙に浮く自分の身体。受け身の取り方も知らないわたしはそのまま近くの石碑に背中を打ち付けた。あまりの痛さに息が止まりそうになる。

「さっきまでの勢いはどうした? まるで別人じゃないか」

 そうです、別人なんです。なんて言えるわけもなく、わたしは浅く呼吸をして痛みに耐える。こんなに全身傷だらけになったのは初めてこの世界で目を覚ました時以来かもしれない。抵抗する術もなく恐怖に駆られながら必死に逃げていたあの頃とどっちがボロボロだろうか。痛みで滲んだ涙が目尻を伝って地面を濡らした。
 彼はわたしにエアルを使った攻撃が効かないと見抜いている。だから直接的な攻撃をしかけてきたのだろう。スピードが速くて肉眼では確認できなかったが。反対にわたしは既に満身創痍。さっきの連戦の疲労の蓄積もあって辛うじて意識を保っている状態だ。浅い呼吸を懸命に整える。状況は圧倒的に不利だった。

(それでも、)

 それでもわたしがここで倒れるわけにはいかない。エステルちゃんを助けるまでは。
 辛うじて握っていた長剣を支えになんとか立ち上がる。短剣の方は遠いところで転がっていたが取りに走ったところで扱えないのなら意味がない。わたしは擦り傷のできた両手で剣を握りアレクセイを見据えた。

「今ならまだ間に合うぞ。どうだ、考えを改める気はないか?」
「……絶対に、あなたに協力なんてしません。エステルちゃんを放してください!」

 接近戦ができないなら魔術で対抗するしかない。意識を集中させれば武醒魔導器が淡く光る。ほんの少しだけ軽くなる身体。一瞬、まだ冷静さを取り戻せていない彼女に"躰"を渡してしまったのかと焦ったが、彼女ならこんなに足が震えたりしないだろう。アレクセイが剣を抜くのを見てわたしはぐっと踏み込んだ。

「流石にこれは避けられないだろう?」

 不敵な笑みでアレクセイが剣を振りかざす。即座にわたしは地面に陣を浮かび上がらせた。自分の魔術がどのくらいアレクセイに対抗できるかは分からない。だけど、何もせずにやられるのはもっと嫌だった。
 薄く開いた唇が詠唱を始める。アレクセイの剣とわたしの魔術がぶつかる瞬間、わたしたち合間を縫うように火の弾が三つ連続で飛んできた。どこかで見覚えのある魔術だと思っていると、今度は衝撃破のような剣技がアレクセイに直接襲い掛かる。アレクセイは大きく地面を蹴って立っていた場所から離れた。目まぐるしい展開にわたしはぽかんと口を開けることしかできない。

「無事か、アズサっ!」

けれど、鼓膜を揺らす聞き慣れた声がわたしを現実へ引き戻す。駆け寄ってくるユーリさんたちの顔を見てわたしはどうしようもなく泣きたくなってしまった。


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