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 ようやく辿りついたバクティオン神殿の最奥部。いくつもの蝋燭が照らす階段のてっぺんにアレクセイとエステルちゃんはいた。アレクセイの姿を捉えたからか熱を帯びていくペンダント。胸の奥底で潜んでいた彼女の感情が再び暴れ出す。じりじりと自分の意識が心の中に引っ張られていくような感覚を必死に引き止めた。今の彼女に"躰"を渡してしまったら今度こそ何をするか分からない。

(お願い、抑えて)
「また君たちか。どこまでも分をわきまえない連中だな」

 よく見るとアレクセイのすぐそばには翼を背負った馬のような魔物が倒れている。あれがジュディスさんが教えてくれた始祖の隷長(エンテレケイア)のアスタルだろうか。バクティオン神殿に入る前、ユーリさんたちは騎士団の所有する移動要塞ヘラクレスがアスタルを攻撃しているのを見たらしい。おそらくアレクセイは聖核(アパティア)を手に入れようとしているのだとジュディスさんは言っていた。しかしその目的はまだ分からないと言う。

「道具は使われてこそ、その本懐を遂げるのだよ。世界の毒も正しく使えば、それは得がたい福音となる。それができるのは私だけだ。姫、私と来なさい。私がいなければ、あなたの力は……」

 アレクセイの瞳が怪しく細められる。彼が手に持った石を掲げると球体が光を放った。瞬時に黒い電撃がエステルちゃんを苦しめる。やめてっ! と叫ぶわたしの横をジュディスさんが素早い動きで駆け抜けた。

「きゃあああ!」
「やめなさい、アレクセイ! あっ!」

 エステルちゃんから放たれる赤い光。今までのものとは違ったそれはわたしたちではなく、アスタルの身体に注がれる。脳裏に蘇ったのはノードポリカでベリウスが死んだ時の記憶だ。始祖の隷長(エンテレケイア)にとって満月の力は治癒ではなく猛毒となる。あのベリウスですら力を制御できずに暴走してしまった。それを満身創痍のアスタルが浴びてしまったら──。ぞっと背筋に冷たいものが走る。あの一件でエステルちゃんがどれだけ苦しんだか知らないくせに。
 満月の子の力によって過剰のエアルを身体に受けたアスタルは苦しみから逃れるようにのたうち回る。わたしはもがくアスタルを見続けることができなくて思わず目を逸らした。

「ははは、なにが始祖の隷長か。なにが世界の支配者か」
「やめろ! エステルを放せ!」

 やがてアスタルの声がだんだんと小さくなっていく。おそるおそる目を開けるとアレクセイのそばにいたはずのアスタルは姿が消えてなくなっていた。ベリウスの時と一緒だ。後に残ったのは結晶化したアスタルの命……聖核だけ。青い光を帯びたそれはアレクセイの手に収まる。

「思ったより小ぶりだな。まあ使い道はいくらでもある」
「貴様……」
「そうだ、せっかく来たのだ。諸君も洗礼を受けるがいい。姫が手ずから刺激したエアルのな」

 そう言ったアレクセイはついさっきまでアスタルだった聖核を掲げた。再び放たれる赤い光。ユーリさんたちが苦しそうに胸元を抑えてうずくまる。

「みんな……!」

 今の状況で自由に動けるのは自分一人だけ。けれど、アレクセイの懐に飛び込んだところでわたしにできることなどたかがしれている。やっぱり彼女に"躰"を渡してしまったほうが良いんだろうか。胸のペンダントが思考を読み取ったかのように一層光を放つ。わたしはにやりとこちらを見下ろすアレクセイを睨みつけて双剣に手を伸ばした。ほんの些細な転機でも構わない。エステルちゃんを救うことに繋がるのなら。
 もう少しで柄に手が届く。その時、ユーリさんの手が伸びてきてわたしの腕を掴んだ。エステルちゃんの力でほとんど動けないはずなのに。

「ユーリさん……」
「無茶すんな、って……言っただろ」

 苦しそうに浅い呼吸を繰り返しながらもうっすらと笑みを浮かべたユーリさんは勢いよく剣を掲げた。デュークさんからもらった宙の戒典(デインノモス)だ。それを見てわたしははっと目を見開く。宙の戒典にはエアルの暴走を鎮める力があると彼は言っていた。言葉の通り、剣はわたしたちを取り囲む赤い光をみるみるうちに吸収していく。流石にユーリさんが宙の戒典を持ち出したのは予想外だったようでアレクセイも驚いている様子だった。

「なんだと? なぜ貴様がその剣を持っている? デュークはどうした?」
「あいつならこの剣寄越して、どっかいっちまったぜ。てめえなんぞに用はないそうだ」
「……皮肉なものだな。長年追い求めたものが、不要になった途端、転がり込んでくるとは。そう、満月の子と聖核、それに我が知識があればもはや宙の戒典など不要」
「何、寝言言ってやがる。つべこべ言わずにエステル返しな」
「ふん。姫がそれを望まれるかな?」

 それは、どういう意味だろうか。
 アレクセイの言葉の真意が掴めずわたしはエステルちゃんを見上げる。そこには宝石を閉じ込めたような翡翠の瞳からは輝きは消え、虚ろな表情をした彼女の姿があってどきっと胸が跳ねた。まさか、ここまで彼の計画だったのだろうか。己の力で始祖の隷長を見殺しにし、自分の仲間を傷つけ……エステルちゃんの感情が壊れるところまで。彼女の瞳は今にも零れ落ちてしまいそうなほどに涙で溢れていた。

「……わからない」
「何言ってんだよ!」
「一緒にいたらわたし、みんなを傷つけてしまう。でも……一緒にいたい! わたし、どうしたらいいのかわからない!」

 エステルちゃんはとても優しい子だ。わたしは知っている。
 そんな彼女の心までもを私利私欲のために利用するなんて、許せなかった。

「四の五の言うな! 来い! エステル! わかんねぇ事はみんなで考えりゃいいんだ!」
「アレクセイの言葉に惑わされないで! エステルちゃん!」
「ユーリ、アズサ……!」

 エステルちゃんを助けるためにユーリさんたちが走り出す。けれど、瞬く間に彼女の力で吹き飛ばされてしまい距離がなかなか縮まらない。唯一動けたわたしもユーリさんたちに気を取られている隙に周りを騎士に囲まれてしまった。まっすぐこちらに突き付けられた銀色の刃に息を呑む。双剣はとてもじゃないが抜けそうになく、詠唱する余裕もない。わたしは小さく唇を噛んだ。エステルちゃんとの距離はほんの数メートルしかないはずなのに。今はその距離が果てしなく遠いものに感じる。

「今となってはその剣は邪魔以外の何物でもない。ここで消えてもらう」
「ユーリ! みんな!」

 泣くのを必死に堪えたような、震えたエステルちゃんの声。助けなきゃと本能が叫ぶ。
 気が付けばわたしは胸の内側にいた彼女を抑え込むのを止めていた。

「……アレクセイっ!」
「アズサ!」

 胸の武醒魔導器(ボーディブラスティア)が熱く燃え上がる。ユーリさんの制止を無視してわたしの"躰"は双剣を薙ぎ払った。不意をつかれた騎士の隙間をかいくぐり、わたしたちに背を向けたアレクセイに一気に近づく。走りながら剣を構えもう少しで追いつくかと思ったその時、突然遮るように現れたひとつの影。大きく振りかぶった双剣は相手の剣によって阻まれ、アレクセイに届くことはなかった。彼はこちらを見向きもしないままこの場を立ち去っていく。

「通して!」
「…………」

 激しい鍔迫り合いの最中、彼女は声を荒げながら相手の顔を見上げた。その男は白金の鎧を身にまとっていた。長い前髪に隠れて片目は見えなかったけれど、こちらを淡々と見下ろす無機質なエメラルドの瞳を見てわたしは思わず彼女の意識を押しのけて前に出る。雰囲気はまるで違うがわたしの知っている人にとても良く似ていたから。

「……レイヴン、さん?」

 こちらの問いかけに男は何も答えなかった。代わりとでも言うように剣を大きく振る。それは身体が後方に押されるほどの威力で、受け身の取り方なんて知らないわたしは倒れ込みそうになる。なんとか背中を打ち付けず無傷でいられたのはフレンさんがわたしを受け止めてくれたからだった。両肩を支えられ焦った様子でフレンさんが覗き込む。

「アズサ大丈夫かい!」
「すみません。ありがとうございます、フレンさん」
「……この声……まさか……レイヴン?」
「はえ? おっさん!? どういうことじゃ!?」

 カロルくんとパティちゃんの言葉にわたしは慌てて視線を持ち上げた。どうやらラピードの一吠えが決定打となったらしい。レイヴンさん──シュヴァーン隊長は顔色ひとつ変えず冷たい視線を送る。そこにレイヴンさんの面影は全く見当たらなかった。
 わたしはフレンさんに支えられながら立ち上がる。さっきから胸のざわつきが収まらない。つまり、レイヴンさんとアレクセイが繋がっていた。ミョルゾからわたしとエステルちゃんを連れ出したのはやっぱりレイヴンさんだったのだ。そしてアレクセイにわたしの体質を教えたのも彼だったのだろう。だからアレクセイはエアルを無効化するこの"躰"を見ても驚かなかった。

「こっちは急いでんだ。通してくんねぇか。それとも本気でやり合うつもりか?」

 レイヴンさんが本当にアレクセイの配下の人間なら彼は敵だ。必然的に戦わなくてはならなくなる。でも、ここにいる誰もがそれを望んではいなかった。ちらりと様子を伺ったカロルくんは今にも泣きそうで。
 わたしは再びレイヴンさんを見据える。僅かな可能性にかけたけれどレイヴンさんは剣をしまうことはしなかった。

「バッカやろうが!」
「帝国騎士団隊長首席シュヴァーン・オルトレイン、……参る」


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