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 目の前で人が死ぬのは初めてではないはずだった。死体だって何度か見てきているし、バルボスがガスファロストから飛び降りた時だって目を逸らさずにいられた。それなのにここまで動揺してしまっているのは、やはりそれがレイヴンさんだったからなのだろう。
 崩れる瓦礫から逃げていた時の記憶はあまりない。頭がぼんやりとしていてずっとフレンさんに手を引っ張ってもらっていた。命からがらで神殿を脱出するとルブランさんとアデコールさん、ボッコスさんに出会った。再会するのは随分と久しぶりな気がする。ぼーっとしたまま立っていると不意にフレンさんに手を引かれて彼の背後に移動させられた。今になって思えばひどい表情をしたわたしを見えないようにしてくれたのだろう。

「ちょうどよかった、フレン殿、我らがシュヴァーン隊長を見ませんでしたかな? 単身、騎士団長閣下と共に行動されたきり、まるで連絡がつかんのです」
(レイヴンさんのことだ……)
「どうも最近の団長閣下は何をお考えなのか……親衛隊は何も教えてくれんし。あちこちあたってみて、やっとここまで来たんでありますが……」

 ルブランさんたちはレイヴンさんを探しに来たらしい。だけど、レイヴンさんはもう……。
 先程の出来事が脳裏に蘇ってそれだけでじわりと涙が浮かぶ。その時、神殿の中から轟音が響き渡った。衝撃で地面が小刻みに揺れる。あと数分、逃げ出すのが遅れていたらわたしたちもあれに巻き込まれていたかもしれない。本当にギリギリだったのだ。ルブランさんの困惑した声がフレンさんの背中越しに耳に届いた。

「アレクセイのせいであたしたち死にそうになったのよ! それを助けれくれたのが、あんたらのシュヴァーンよ!」
「あの人は……本当の騎士だった」
「アレクセイは帝国にも内緒でなんかヤバイことをしようとしているらしい。オレたちはそれを止めに行く。あんたらも騎士の端くれなら、頼むから邪魔しないでくれ」

 アレクセイは帝都に向かった。レイヴンさんが残してくれた最後の手がかりを頼りにわたしたちはバウルに乗り込む。アレクセイが移動手段として使っているヘラクレスは海の上を渡っているらしい。それなら空から探せばきっと見つけられるだろうと、バウルは一気に空へと飛んだ。
 ヘラクレスを探す為に甲板の各方向に散っていくユーリさんたち。わたしはフィエルティア号の後方を担当することになった。上空から海を見下ろしていると潮の香りを含んだ風が髪をさらう。いつもならここから眺める景色に胸を躍らせていたが今はそんな気分にもなれない。わたしは静かに広大な海を見下ろしていた。

「アズサ」

 風の音に交じって聞こえたわたしの名前を呼ぶ穏やかな声。ゆっくりと肩越しに振り返るとフレンさんが立っている。視線がぶつかると彼は整った眉を下げてうっすらと微笑んだ。

「まだ顔色が悪そうだけど、少し休んでいた方がいいんじゃないかい?」
「大丈夫ですよ。具合が悪いとか、そういうのじゃないので……」

 的確なソディアさんの処置のお陰で身体の痛みはほとんど感じていない。シュヴァーン隊長との戦闘にも加わっていないのだから、ここにいる誰よりも体力が残っているのはおそらくわたしだ。なんて情けない話なのだろう。それでもわたしは上手に自分を繕うことができない。
 せめて余計な気遣いをさせたくないと思って口角を無理矢理持ち上げてみたがフレンさんは笑みを深めただけでそのままわたしの隣に並んだ。その視線は真っすぐ海へと向けられている。きっとフレンさんにはわたしの気持ちなどお見通しなのだ。未だにレイヴンさんの死から立ち直れていないことを彼は気づいている。わたしの目線はみるみる内に下へと下がっていった。

「…………すみません。早く気持ちを切り替えなきゃとは思っているんですけど」

 エステルちゃんを助けたいという気持ちに変わりはない。その為にレイヴンさんの死をいつまでも引きずったままではいけないことも分かっている。それでも最後に見たレイヴンさんの姿が目に焼き付いて離れないのだ。そのたびに胸が締め付けられて泣き出しそうになってしまう。少なくともバウルに乗り込んだ時点でユーリさんたちはレイヴンさんの死を乗り越えたように見えたのだ。わたしだけがいつまでも前を見られないでいる。
 だからフレンさんが心配してわたしの様子を見に来てくれたのだろう。彼が見張りを担当する場所は確か前方だったはずだから。

「みんながみんな強いわけじゃない」
「……」
「僕はアズサみたいに優しい子がいたっていいと思うよ。シュヴァーン隊長だって嬉しいと思っているはずだ」

 めそめそと過去を引きずるわたしをフレンさんは優しいと言った。そんなことを言ってくれるフレンさんの方がずっと優しいとわたしは思う。それでも彼の気遣いが今はとても有難かった。
 空と同じ色をした柔らかい眼差しを見上げてそっと微笑む。じんわりと胸が暖かかった。

「──ありがとうございます、フレンさん。少し気持ちが楽になりました」

 上空からヘラクレスを探しつつも時々フレンさんとは他愛もない話をした。わたしの紛らわせる為の配慮だったかもしれない。幼馴染でもあるユーリさんとの昔話を聞いていたら下町の話題が出てきて急に懐かしく感じてしまった。ハンクスさんや女将さんは元気にしているだろうか。
 思えばわたしにとって下町は始まりの場所だ。こちらの世界にやってきてから今に至るまでのきっかけともなった土地。そういえば、わたしはまだフレンさんに何も話せていない。ずっと隠していた自分の正体を。

「……フレンさん」

 わたしはフレンさんの横顔を見る。異変を感じ取ったフレンさんは海に向けていた視線をこちらに向けた。

「お話したいことがあるんです……わたしのことについて」

 きっとフレンさんならわたしの話を信じてくれる。そう思ってはいたけれどやっぱり打ち明けるにはそれなりの勇気が必要だった。わたしは慎重に言葉を選んで自分の素性を明かしていく。何せスケールが大きい。いきなり異世界なんて言われて戸惑わない人の方が少ないだろう。時折フレンさんはわたしの発言に目を見開きながらも、それでも黙って最後まで話を聞いてくれた。
 ひと通り話を終えるとフレンさんは指を顎に添えて何か考え込むように瞳を伏せる。もしかして信じてもらえなかったのだろうか? ドキドキしながらわたしは彼の言葉を待った。

「──にわかには信じられないような話だけど、蒼の迷宮(アクアラビリンス)というギルド名には聞き覚えがあるよ。あの事故は当時、僕の部隊が対応したから良く覚えている」
「本当ですかっ。覚えている範囲でいいんです。詳しく教えてください」

 こちらの世界のアズサが所属していた大道芸ギルド、蒼の迷宮。そのギルドが帝都付近の森で魔物の群れに襲われ全員が殺された。そのほとんどが抵抗した形跡もなく喉元を掻き切られた即死。中には手足が噛み千切られた者もいたという。そして、そこから少し離れた場所で彼らを襲ったであろう魔物たちが死んでいた。大量の血だまりがある中で、一か所だけ違和感のある部分があったのだとフレンさんは眉を潜めた。

「確かに血だまりの中で誰かが倒れていた跡があった。だけど、その遺体だけ森中をくまなく探しても見つからなかったんだ」

 骨まで残らずに。
 同じ場所で死んでいたギルドのメンバーの誰とも違う、小柄な少女だろうと推測された。結局、遺体はどこにも見当たらずに行方不明のまま処理されたのだという。

「……それからすぐあとだったよ。下町でアズサを保護したって話をユーリから聞いたのは」

 ある日突然、大切な仲間が殺され自分の命を代償に仇を討った彼女。しかし仲間の死には疑問が残っていた。群れで行動しないはずの魔物たち、いきなり不調になった結界魔導器(シルトブラスティア)。何かおかしい、とこの時点で既に気づいていたのだろう。命を落とす寸前に願ってしまった『仲間の命を奪った人間を知りたい』という強い願い。それが世界の"歪み"の瞬間に重なってしまった。"魂"が消滅し消える運命だったはずの"躰"は異なる世界の"魂"を引き寄せてしまう。そして、わたしという不安定な存在が生まれた。

「魔物の切り口から相当な手練れだと思っていたけど、まさかこんなところにいたなんて……」

 おそらく、この世界で目覚めた時に腕に嚙みついてた魔物は蒼の迷宮を襲った残党だったのだろう。あの時はほとんどパニック状態で周りの様子を見る余裕なんてなかったけど、よくよく記憶を掘り返してみれば視界の隅で黒い塊が幾つも見えたように思う。きっとあれは魔物の死体だったのだ。双剣もその時に盗まれた可能性が高い。彼女の"魂"が消滅し、わたしの"魂"が入り込むまでの間。わたしが目を覚まし下町に逃げ込んだ後、フレンさんたちが蒼の迷宮を見つけたのだとしたら遺体が見つからなかったというのも納得できる。
 ぞわぞわと背筋を走る快感。ずっとバラバラに散らばっていたピースたちがようやくひとつの答えを生み出した。

「やっと繋がった……!」
「アズサ! フレン!」

 賑やかな足音と共に駆け寄ってきたカロルくん。真剣なわたしたちの雰囲気に彼は少し不思議そうな顔をしながらも思い出したようにハッと目を見開いた。

「こっち来て! パティがヘラクレスを見つけたんだ!」


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