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 フレンさんと共に急いで船首に向かうと既にユーリさんたちが集まって一点を見つめていた。視線の先には海の上に浮かぶ要塞──ヘラクレス。あそこにエステルちゃんがいる。

「追いついたぜ」
「あれ見て!」

 カロルくんが指を差した方向を見ると幾つもの船がヘラクレスを追いかけるように移動していた。浜風に揺れる旗には騎士団の紋章が刻まれている。その中でも一際大きな船に目を凝らしてみるとソディアさんがいるのが見えた。どうやら騎士たちに何か指示を出しているようだ。船団はヘラクレスを囲うように移動する。ソディアさんの大胆な距離の詰め方にわたしは内心はらはらとしながら船を見下ろしていた。もしヘラクレスが急に進路を変えたらおそらく避けきれずにぶつかってしまうだろう。

「ソディアさんたち大丈夫でしょうか……」
「いくらなんでも真正面からぶつかるってことはしねえと思うが……。つっても、あの要塞相手にあの船団じゃ勝ち目ねえな」
「下からがダメなら上から、ね」

 海から潜入するのが難しければ空から攻めるしかない。幸いにもわたしたちにはバウルがいる。ジュディスさんの一声でバウルはスピードを一気に上げた。いきなり内臓をぎゅっと掴まれたような感覚が襲い掛かってくる。トップスピードでヘラクレスに近づこうとするバウルの動きにわたしは必死に柵にしがみつくことで耐えた。視界が上下左右に激しく揺れる。車酔いとかはあまりしないタイプだけど、流石にこの揺れは酔ってしまいそうだった。心の中で早く終わってくれと願いながら柵を握る手に力を込めていると不意に視界の隅で紫黒の長い髪が映る。顔を上げようとしたその時、肩に腕が回されて強い力で引っ張られた。柵にしがみついていたはずの手は簡単に剝がされてしまい、わたしの身体はすっぽりとユーリさんの胸に収まる。
 咄嗟に手近にあったものを掴んでしまったのだろう。気が付けばわたしの手はユーリさんの服を握りしめていた。視界に広がるユーリさんの逞しい胸板。混乱する思考回路。

(もしかしなくても、ユーリさんにくっついてしまっている……?)

 後に冷静になって考えてみれば柵にしがみついていたわたしを先に引きはがしたのはユーリさんだ。だからわたしが動揺する必要なんて微塵もなかったのだけど、あまりに突然の出来事でパニックになっていた。すみませんっ、と言って慌てて離れようとした瞬間、船体が大きく傾いた。ぐらっと自分の身体が後ろに倒れ込むのが分かって反射的に強い力でユーリさんの服を掴んだ。それはもう必死に。
 お、落ちるかと思った……。冷や汗をたっぷりかいていると頭上でくつくつ忍び笑いが聞こえる。この状況下で笑えるなんてやはりこの人は只者ではない。単純にわたしの様子を見て面白がっているだけなのかもしれないが。

「笑わないでくださいよ、こっちは必死なのに……」
「はは、悪い悪い」

 絶対悪いなんて思ってないんだろうなあ。俯きながらそんなことを思っていると今度は船体が右に傾く。直後、耳に届いた巨大な爆発音。

「ほ、砲撃されてるよ!」

 カロルくんの言葉にはっとしてヘラクレスを見下ろせば、船体に仕掛けられたいくつもの砲台がこちらに向けられていた。相手は始祖の隷長(エンテレケイア)すら倒してしまうような強力な装備を取り付けた要塞だ。簡単に突破するのは難しいだろう。何発か放たれた砲撃のひとつがフィエルティア号のすぐ横をものすごい勢いで通り過ぎた。頬に当たる激しい熱風。あんなのに当たったらひとたまりもないだろう。
 おそらくヘラクレスがわたしたちの存在に気が付いたのだ。砲撃はますます勢いを増していく。今のところバウルは華麗にヘラクレスの攻撃を避けてくれているがいつまで持つかは分からない。一刻も早くヘラクレスに辿りつかなければ。やがてリタちゃんが砲撃にムラがあることを発見した。

「バウル、お願い」

 ぐんっと一気にスピードが上がって息を吸い込むのが苦しくなる。空を飛んでいるはずなのにまるで水の中にいるような息苦しさだ。思わずユーリさんの服を握りしめると肩に回された手に力がこもった。さっきよりも更に身体が密着する。お腹の底まで響き渡る位に大きな砲撃音の隙間でわたしを呼ぶユーリさんの声が聞こえた。

「しっかり掴まってろよ」
「っ、はいっ」

 激しく揺れる船体。何度も撃ち込まれる砲撃。とにかく振り落とされないようにわたしは懸命にユーリさんにしがみついていた。

***

「死ぬかと思ったよ……」
「そうだね……」

 げっそりと疲れ切った顔で呟くカロルくん。きっとわたしも同じような顔をしているに違いない。
 バウルの大活躍によりわたしたちはなんとか無傷でヘラクレスに上陸することができた。彼がいなかったら間違いなく海の藻屑と化していただろう。感謝してもしきれないくらいだ。

「衛兵が倒されている……」
「だからここだけ弾幕が薄かったのか」

 難しい表情で会話するユーリさんとフレンさんの視線の先を辿ると砲台の近くに倒れた騎士団の姿が見えた。死んでいるのかと思って一瞬息を呑んだけれど、どうやら意識を失っているだけらしい。だけど、どうしてここの騎士たちだけが倒されていたのだろう。味方同士で争ったとは考えにくい。実はわたしたち以外にもヘラクレスに侵入した人間がいるのだろうか。

「まったく無計画な連中だな。強行突破しか策がないのか」
「その通りであーる」
「ここで会ったが百年目なのだ!」

 聞き覚えのある声に勢いよく顔を上げると、ルブランさん、アデコールさん、ボッコスさんの三人が立っていた。よく見ると甲冑や兜のあちこちに傷や汚れがついている。あの後、彼らはレイヴンさんを見つけ出せたのだろうか。脳裏に最期のレイヴンさんの姿が蘇ってしまってわたしは視線を下に落として眉間に皺を寄せる。身体のどこかに力を入れていないとまた泣いてしまいそうだった。

「また出たの? あんたらしつこすぎ!」
「……シュヴァーン隊か。あんな事があったってのにまだアレクセイにつくのか?」
「我らは騎士の誇りに従って行動するのみ!」
「……もうボクたちの邪魔しないでよ!」
「そうよ! あんたらの顔見てると、思い出したくない顔が浮かんでくるのよ!」
「どんな顔なんだろうなぁ。よっぽどひどい顔のやつなのね」
「え……」

 本来ならもう聞けないはずなのに、耳に届いた懐かしい声にわたしは瞑目する。だって、レイヴンさんは崩れ落ちるバクティオン神殿と一緒に……。ゆっくりと視線を持ち上げればルブランさんたちの後ろからやってくる紫色の羽織が視界に映った。両手を頭の後ろで組んでのんびりと歩いてくる彼を見て堪らず目尻に涙が溜まる。

「レイヴン様参上よ。なになに? 感動の再会に心いっぱい胸がどきどき?」

 飄々とした口ぶりすら嬉しくてポロポロと涙が止まらない。小さく嗚咽を漏らすわたしの肩をフレンさんが支えてくれた。
 尊敬する隊長を救いたい一心でルブランさんたちが探し出してくれたのだろう。ユーリさんとの戦いの蓄積もあり、きっと致命傷を負っていたはずだ。ルブランさんたちに指示を送るレイヴンさんの腕には幾重にも包帯が巻きつけてあるのが羽織の隙間から見えた。レイヴンさんの命を受けてルブランさんたちは持ち場に戻っていく。

「ま、こういうワケ」
「レイヴン……」
「そういうことで、よろしく頼むわ」
「何言ってんのよ! 信用できるわけ……ないでしょ!」

 ふるふると拳を震わせ声を上げるリタちゃん。彼女の言い分は最もだ。レイヴンさんはアレクセイの部下としてずっとわたしたちを裏切っていた。わたしとエステルちゃんが攫われ、未だにエステルちゃんが囚われている状況を作り上げたのは他の誰でもなく彼だ。リタちゃんが素直に受け止めきれないのも十分に理解できる。ユーリさんたちもそれぞれに複雑な表情をしていた。

(それでも、)

 それでもわたしは嬉しかった。レイヴンさんが生きていてくれてすごく嬉しかったのだ。
 ユーリさんたちの反応をあっさりと受け止めたレイヴンさんはおもむろに小刀を手にとる。何をするのかと思ったらそれをユーリさんに投げ渡した。わたしはひゅっと息を呑み込む。偶然生き残っただけの命だから今ここで殺されたとしても構わない、とレイヴンさんはあっけらかんとした表情で答えた。

「俺はもう死んだ身なんよ」
(レイヴンさん……)
「その死んじまったヤツがなんでここに来たんだ? レイヴン。あんた、ケジメをつけにきたんだろ」

 じゃあ凛々の明星の掟に従って、ケジメをつけさせてもらうぜ。
 小刀を握りしめたままユーリさんはレイヴンさんに近づく。一歩ずつ足を進める度に刃が太陽に反射してキラキラと輝いていた。ユーリさんの言うケジメとはどんな行為を指すのだろう。緊張しながらレイヴンさんの前で立ち止まったユーリさんを見守っていると、やがて彼は大きく腕を振りかぶり──小刀を持っていない方の手でレイヴンさんの頬を殴った。それはもう見事な左ストレートで。あまりの衝撃的な光景にとめどなく流れていた涙も引っ込んでしまった。

「って〜」
「あんたの命、凛々の明星(ブレイブヴェスペリア)がもらった。生きるも死ぬもオレたち次第。こんなとこでどうだ? カロル先生」
「えへへ。さすがユーリ。ばっちりだよ」

 爽やかな笑顔で言い放ったカロルくんはユーリさんに続くようにレイヴンさんの頬を殴る。そんな小柄な体のどこにそんなパワーがあるのかと思うくらいにレイヴンさんの身体は綺麗に飛んだ。今度はジュディスさん。きっとこれが凛々の明星としてのケジメなのだろう。ついでとばかりにリタちゃんやパティちゃんまで殴る始末。わたしの順番がやってくる頃には既にレイヴンさんの姿はボロボロになっていた。地べたに座り込み頬を擦る彼をわたしは静かに見下ろす。

「……アズサちゃんもケジメつける?」

 自嘲気味に笑うレイヴンさん。確かにわたしも凛々の明星の一員だ。レイヴンさんにケジメをつけてもらう権利はあるのかもしれない。
  だけど、もしレイヴンさんがわたしをアレクセイと引き合わせていなければあの子の"強い願い"に気付くことはできなかっただろう。たとえレイヴンさんにその気はなかったとしても、だ。それにもともと人を殴ったりするのは性に合わない。ふるふると頭を振りわたしは姿勢を低くしてレイヴンさんの瞳を覗き込む。そしてゆっくりと口角を持ち上げた。

「おかえりなさい、レイヴンさん」


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